昔昔、3
俺は一人、知らない家の裏塀にもたれかかって座っていた。
アレックスは一人で盗みに行っていた。何か美味いものを取ってくるから、それで、ピクニックでもしよう、と彼は耳を赤くしていた。
ぶろろろろ、と耳障りな音がした。馬のいななきよりずっと低い。
俺は埃っぽさと排気ガスにむせる。やがて顔を上げ、呆然とした。
目の前に、ピカピカの金属屋根の自動車が停まっている。
馬車もまだまだ現役ではあるが、オープンカーや、幌屋根のついた自動車はそれほど珍しいものではなくなりつつある。しかしハードトップの自動車とは、最新型ではないか。一度だけアレックスと遠目に見て「何あれ、かっこいい」とはしゃいだものだが、こんなに間近に見るのは初めてだ。
見とれていると、車から男が二人降りた。二人とも上等の背広を着ている。
「やあ」
体格のいい、髭をたくわえた男が言った。彼の目はまっすぐに俺を捉えていたが、それでも周囲を見回さずにはいられなかった。あたりに誰もいないことを確認し、自分自身を指し、男が頷いて初めて、俺は「こんにちは」と挨拶を返した。
「この家の子?」
「いいえ」
「家は近所かな?」
「いいえ」
俺は立て続けに首を横に振った。男はたくわえた髭を触って「ふうむ」と唸った。
「おうちの人はどこ?」
俺は無言で首を横に振る。
「私と一緒に来るかい」
「え?」
俺は困惑した。男は髭から手を離し、にっこりと柔和な笑みを浮かべた。
「食事も、住まいも提供しよう。うちで働かないか?」
「いいえ」
俺は動揺しながら首を横に振った。
俺は、今の生活を気に入っている。職も住まいもなくとも、毎日の生活に不自由はない。アレックスは盗みが上手だし、もしなんらかの理由で彼がダメになっても、俺には稼ぐ手段がある。わざわざ煤や埃にまみれ、汗水を垂らして真面目に労働をする気は起きなかった。
「何が不満かね?」
男が眼光を鋭くした。俺は「いえ、その」と繕う言葉を探し、結局は正直に言った。
「働くのは嫌です」
「そうかね」
あまりにあけすけな言葉に、男は破顔した。「しかし」と続ける。
「君は今、何をして生きているんだ。骨と皮というわけでもないから、毎日食べてはいるんだろう。どうせ何かしなくてはいけないのだから、今の仕事より、うちでの仕事のほうがきっと楽だよ」
「その、」
と言って、俺は右手の親指と人差し指と中指で輪っかを作ると上下に振った。
厳密にいえば、それは『今の仕事』ではない。毎日の衣食はアレックスの盗みでまかなわれており、俺がセックスによって得た金はそのまま破棄しているからだ。
とはいえ、いざとなったら俺の稼ぐ手段はそれだ。
実際に男にしなだれかかってみせてもよかったのだろうが、俺はジェスチャーでそれを表した。黴臭いようなこの服で、目の前の綺麗な背広の男に触ってもよいものなのか分からなかったのだ。
背広の男はちょっときょとんとして、すぐに笑った。
「そうか。そうか」
男は俺に手を伸ばし、ぐいと抱き寄せた。俺は従順にその厚い胸板に身を委ねた。俺の股間をまさぐった彼が、「男の子か」とちょっと目を見開いた。ズボン越しに陰茎を揉みしだかれても、尻の割れ目をなぞられても、無論無抵抗に受け入れた。
「好きなのか?」
男にからかわれ、俺は曖昧に笑った。
好きだとか、嫌いだとかいう次元ではない。体に染みついて、四日もせずにいると疼いてたまらなくなる。それだけの話だ。
「ならば天職だ。うちでの仕事は、人に抱かれることだから」
それならできる、と俺は思った。
アレックスとの生活は楽しい。ただ、アレックスに貴重な宝石のように扱われることが、ときどき無性に耐えがたい。
好き勝手に、性を処理する玩具として扱ってくれて構わないのだ。俺なんかは、そのぐらいの扱いを受けるほうが似合いなのだ。
「来るかね」
男がにわかに俺から離れた。もう一人の男はいつの間にか車に戻っていた。
「来るなら続きをしよう」
男は俺を見据えたままゆっくりと後ずさる。
なんとなく、この自動車に乗ってしまえばもうここには戻ってこられない、という予感があった。そして、今首を横に振れば男は立ちどころに去っていき、二度と俺の前には現れないのだという予感も。
今頃、アレックスは俺と食べるためのご馳走をどこかからくすねてきて、上機嫌に鼻唄でも歌いながらこちらに向かっているのだろう。
俺は吸い寄せられるように男に寄った。先ほど彼に触られたことで、体が反射のように熱を持ち始めていた。
「おいで」
男は助手席に乗り込んで、自身の腿を叩いた。俺はごく自然に男の足の間に収まった。男が車のドアを閉める。俺は男のスラックスの前を寛げ、取り出した陰茎を慣れた手つきで上下にしごき出す。
「しつける手間が省けますね」
運転席の男が、ハンドルをさばきながら爽やかに笑った。俺は取り憑かれたように男のものを自身の中へと受け入れる。己の空洞にそれが収まると、どうしようもなく落ち着いた。
走る車の中、視界の端で道を往くアレックスを捉えた。
俺がどこかに消えてしまったという現実を、彼が重く受け止めなければいいが、とどこかすでに他人事のように思った。