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 舞台があり、テーブルマジックの場があった。
 その合間に、リオは専属の家庭教師から勉強を教わった。昔は学校に通っていたのだが、仕事が多忙になるにつれ自宅学習の比率が増え、今では自宅学習一本だ。
 そして、待ちに待ったパールとの再会の日がやってきた。
 イーサンは「まだ出なくても間に合いますよ」としきりに出発を遅らせたがっていた。理由など聞くまでもない。リオが出番前にパールと会うのを阻止するためだ。しかし、リオが「僕はオープニングを任されているんだよ。道が混んでいたり、事故が起こって到着が遅れたらどうするの。僕もプロなんだから、責任というものがあるんだよ」とこんこんと説教すると、渋々馬車を呼んだ。
 無事時間に余裕を持ってDen of FREAKSに到着したリオは、迷わずパールの部屋に足を向けた。
「リオ坊っちゃま」
 イーサンが怖い顔をする。昔から、わんぱくをするたびに幾度となく見た顔だ。リオは少しも怯まなかった。
「なんだい。父さんは僕とパールが会うのを許可してくれたじゃないか」
「しかし、奥さまはやはり嫌がっておられました」
「うちの長は父さんなんだから、父さんの言うことを優先したら」
「しかし……」
 歯切れが悪い。きっとイーサンも、母と同じように見世物を唾棄しているのだ。
 リオは無視をして、さっさと青い部屋のレースのカーテンを抜けるとバタンと扉を閉めた。扉が閉まる直前にイーサンの大きなため息を聞いたが、彼は強引に扉を開けてリオを連れ戻すことまではしなかった。
 ぼんやりと青いランプに照らされる部屋の中、パールは初めて会ったときと同じように、ひっそりとベッドに体を横たえていた。
 とくん、とリオの心臓が小さく跳ねる。とくん、とくんとそれは続く。
「パール」
 緊張で、名前を呼ぶ声がかすれた。リオの声は表に聞こえたって構わないのだけれど、あんまり長々と一人でしゃべっていてはおかしいから、リオもある程度は声をひそめなければならない——、という理由から来る緊張だけではなかった。
 うん、と咳払いをして喉の調子を整える。部屋の一番奥に設置されたダブルベッドに、そろり、そろりと歩み寄る。
「パール。来たよ。元気にしていた?」
 リオはあえて名乗らなかった。ひとつの期待をしていたのだ。パールはその期待に応えてくれた。
「リオ」
「分かるの?」
 つい頬がほころぶ。「うん?」とパールが首をかしげる。
「名前。声だけで僕って分かる?」
「ああ……」パールが微笑む。「分かるよ。ここに子供はめったに来ないからね」
 なんだ。リオは落胆した。
 彼は僕の声だから分かったわけじゃなくて、子供の声だから、僕だと見当をつけただけか。
 パールは、短い沈黙か、あるいは空気感からリオの落胆を感じ取ったらしかった。くすくすと笑いだす。
「嘘だよ。ごめん。君の声だから分かったんだ」
「ふ~ん、そうですか」
「ごめんってば。拗ねないでよ」
「別に拗ねてないですけど」
 リオはわざとらしく唇を尖らせながらも、目元も口元もにやついてしまって仕方がなかった。パールとくだらないやりとりをできるだけで、たまらなく嬉しいのだ。
「久しぶりだね」
 リオはもとより直っていた機嫌を、表向きも直して言った。
「そうだっけ?」
 パールが首をかしげる。
「まあ、四日ぶりだけど」
 リオは肩をすくめた。
 四日。そう、たった四日だ。その四日が、待ち遠しくて待ち遠しくてたまらなかった。これまでの人生で、四日をこれほど長く感じたことはなかった。
 なんだか僕ばかり、浮かれている。
 急に恥ずかしくなって、黙りこくる。パールもしばらく黙っていた。やがて、彼の方から口を開く。
「リオ?」少し不安そうな声だ。「帰っちゃった?」
「いるよ。ごめん。いる」
 リオは慌てて返事をした。
 よく考えてみれば、パールは目が見えないのだから、リオが黙りこくってしまえばいないのと同じことだ。「よかった」とパールが目を細める。
「ねえ」
「うん」
「ベッドに座ってよ」
「え?」
「遠くにいられたら、俺には君がいるのかいないのかよく分からないから。ベッドに座って」
 なるほどな、とリオはベッドに腰を下ろした。子供のリオはそう重くもないのだけれど、年季の入ったベッドは大きな音を立ててきしんだ。
 パールが寝そべったまま、顔でリオを探し始める。リオはそっと手を伸ばしてパールの髪に触れる。ねとり、とした感触に「わっ」と手を引いた。
「うん?」
「君の髪、なにか付いてる?」
「ああ。整髪料か、油かな」
「付けすぎだよ」
 リオは自身の指の間でねばつく粘液を見つめる。パールは涼しい顔で答える。
「たくさん付けると濡れて見えるでしょう。そのほうが人魚らしいからって、世話係が付けてくれるんだ」
「人魚らしいって」リオは笑う。「君は人魚でしょ?」
「そうだけど。ずっと陸にいると乾いてくるからね。濡れているほうが人魚らしく見えて、お客さんが喜ぶんだ」
 リオは納得した。客を喜ばせるために、演出はとても大切なことだ。それはマジックをやっていても絶えず実感する。
「手を洗ってきてもいい?」
 ねとねととした指の対処に困り、腰を浮かす。
「シーツで拭けばいいよ」
「汚れちゃう」
「構わないよ。どうせ俺の髪で汚れるんだから」
 言われてみればその通りだ。リオはベッドに座り直し、シーツでぐいっと指先をぬぐった。その手に、とん、とリオを探し続けていたパールの額が当たる。「あ」とパールが柔らかい声を出す。
「君の手?」
「うん」
 頷きを返すと、パールが頬ずりを始める。
 すり寄る彼を見ていると、なんだか口の中につばがたまりはじめる。あとからあとから湧いてくるつばを飲み込むタイミングが、なぜだか上手くつかめない。そんな中「ねえ」と呼び掛けられたものだから、リオはたくさんのつばに溺れてむせてしまった。
「大丈夫?」
 パールが笑う。初対面のとき、パールは少し冷たいような印象があったのだが、今日の彼は始終にこにこしていた。秘密を共有するリオに親しみを抱いてくれたせいかもしれない。リオは「いや。まあ、うん」となんだかよく分からないことを言ってごまかして、「何?」と遅ればせながら相づちを打つ。
「君はどんな顔なの?」
「顔?」
 リオは目をまたたかせた。
 顔。顔か。
 茶色の髪をセンター分け、少したれ目の虹彩は緑で——、以上の説明が思いつかない。
 生まれてこのかた、リオはことさら顔に言及をされたことがなかった。
 不細工だと罵られたことはないけれど、美形だと誉めそやされたこともない。ファンレターやファンの子からの声援で「かっこいい」と言われることはあるものの、それはリオがマジックをしている姿への称賛であり、外見そのものへの評価ではない。鏡を見ると「悪くない」とは思うけれど——、きっと『可もなく不可もなく』というのが実際のところなのだ。
 己の顔の言語化に窮していると、パールがこてんと小首をかしげた。
「ねえ。顔に触ってもいい? 触れば俺は見えるから」
「え?」
 リオは、一度飲み込んだつばがまたわっと口中に広がるのを感じた。しどろもどろになりながら言う。
「でも——、そう、でも、君には触る手がないじゃない」
「だから、顔で触るんだよ。今君の手に触ったみたいに」
 実を言うと、それぐらいのことはパールに説明をされずとも分かっていた。分かっていながら空とぼけたのだ。時間を稼ぐために。それを回避するために。
 だって、パールの美しい顔が間近に迫ることを考えると、緊張のあまり心臓が止まってしまいそうだ。
「だけど……」
 必死で逃げ道を探す。ひらめいた。
「そうしたら、君の髪の油で僕の服が汚れちゃうよ」
「脱げば?」
 あっけらかんとパールが言った。まるで、自分と対面している人間が服を着ているほうが不思議だ、とでも言わんばかりだ。
 リオは絶句した。パールは涼しい顔をしている。
 もしかすると、リオが知らないだけで「人魚と対面する人間は服を脱ぐ」というルールやマナーがあるのかもしれない。けれど。
「恥ずかしいよ……」
 うつむいて顔を赤らめたリオに、パールは笑う。
「どうして。どうせ俺には見えないんだよ」
「それはそうだけど……」
「ねえ。俺は裸で、君は俺を好きに見られるんだ。それなのに君は服を着ていて、俺に顔さえ見せてくれない。あまりに不公平だと思わない?」
「それは……」
「ねえ。君の顔が見たいな」
 パールが甘えた声を出す。彼の鈍く透き通る青い瞳は、ざっくばらんにリオを捉えている。その視線の荒さから、彼は本当にめくらなのだということがよく分かる。
「ねえ……」
 パールが猫のような声でねだった。その声を聞いていると、リオはなんだか自分がひどく非道な行いをしているかのような気分になってくる。
「……分かったよ……」
「やった」
 観念したリオに、パールはベッドをきしませて喜んだ。
 リオは、三歳の子供よりももたもたとした動作でベストとシャツを脱いだ。手が震えてうまくボタンを外せないのだ。指先の魔術師が聞いて呆れる。
 パールは何度も「脱げた?」と聞いたが、その声にせき立てる調子はなく、優しかった。
「脱げたよ……」
 やっとのことで、ベストとシャツを脱ぎ終えた。
「下も?」
「えっ?」
 リオは目を見開く。
「俺は髪が長いし、あんまり器用に動けないから。着たままだと、なにかの拍子に当たって汚しちゃうかも」
「それは……」
「ねえ。下も脱いでよ」
 ためらうリオに対し、パールはどこまでも無邪気だ。
 リオはそっと己の下半身に視線を落とす。好きな人の前で裸になる、というとんでもない状況のせいだろう、先ほどからじんわりと股間が硬くなっている。
 どうせパールには見えないのだから、着たまま「脱いだよ」と嘘をつこうか。けれど、パールの言うとおり、なにかの拍子に彼の油まみれの髪が当たってハーフパンツが汚れてしまっては困るのも事実だ。もう十数分後には、この服で舞台に上がらなければならないのだから。
 意を決してハーフパンツに手をかける。ゆっくり、ゆっくりと震える手でハーフパンツをつま先まで下ろしていく。そうこうしているうちにも陰茎は固さを増し、薄い下着の下ではっきりと存在を主張し始める。
「……脱げたよ」
 リオは下着を脱がないまま言った。
 いくらパールには見えないといっても、みっともないぐらいに勃起した性器を、この部屋の空気にさらす勇気はさすがになかった。万一彼の髪の油で下着が汚れたところで、上からハーフパンツを穿くのだから観客に気づかれる心配もないはずだ。
「どこ?」
 パールがちょっと上半身を起こしかける。
 ベッドの縁に腰掛け、パールに背を向ける形で服を脱いでいたリオは、彼に向き直って「こっち」と誘導した。その声も手も明確に震えていたけれど、パールはからかわなかった。
 みるみる近くなるパールの顔に、リオはこらえきれずぎゅっと目をつぶる。その直後、ちょん、とパールの鼻がリオの頬に触れる。「あ」とパールが弾んだ声を出す。
「リオの顔だぁ」
 リオは心臓が破裂しそうなほどにドキドキしてしまって、返事のひとつもできなかった。パールは気にするそぶりもなく、鼻で、頬で、唇で、ゆっくりとリオの顔をなぞっていく。
 ちょん、とリオの唇に何かが触れた。
 ちょん、ちょん、とそれは繰り返される。と、何かぬめりとしたものがリオの唇の割れ目をなぞった。
 反射的にパールの肩を掴んで引き離す。
「今——」
 と目を見開いて言いかけたリオは、ぱち、ぱち、と不思議そうにゆっくりまたたきを繰り返しているパールを見て、素早く首を横に振った。
「なんでもない」
「大丈夫?」
「うん……」
 ちっとも大丈夫じゃない。
 しかし、まるで動じたところのないパールを見ていると、「キスをした?」なんて質問は到底できそうもなかった。
 つい先ほど、リオとパールはまず間違いなくキスをした。
 イングランドでは、挨拶でキスをする人は少ない。よその国の著名人と交流をした際に、頬と頬をくっつけてチュッチュッと音を立てるキスの挨拶はときどきする。だが、恋人同士のように唇と唇を触れ合わせるキスは、今のが生まれてはじめてだ。
 しかしそれは、結果的に形としてそうなってしまった、というだけの話なのだ。パールにそんなつもりは一切なく、彼はただ、自身の顔でリオの顔を見ていただけなのだ。
 とん、とリオの胸にパールの頭が当たった。
 はっと我に返る。リオが大丈夫だと答えたから、パールは顔の観察を再開しようと再びリオに頭部を寄せたのだろう。つい先ほどリオがパールの体を引き離したせいで、二人の間にはいくらかの距離が生じていた。ゆえに、こちらに寄ったパールの頭部は先ほどまでのようにリオの顔に触ることはなく、胸へと着地したのだ。
「ごめん」と彼の頬を両手で挟んで誘導しかけたリオだったが、とっさのことに挟み損ねる。見る間にパールの頭は下へ下へと滑っていく。あっと思ったときにはもう、彼の頭はリオの太ももへと着地していた。
 呼吸を詰める。パールの美しい顔と、リオのパンパンに膨れ上がった股間とが、もう目と鼻の先だ。
 どうか彼が勘づきませんように。
 必死に祈りながら大急ぎでパールの上半身を起こしかけたリオだったが、それより早くパールが「あれ?」と眉をひそめた。
「下脱いでないじゃん」
 パールがするっとリオの下着に頬を擦り付ける。その拍子に、彼の額がリオの熱く硬い陰茎に明確に触った。
 終わった。
 絶望しながらも、とにかくリオは「ごめん」と謝罪した。予想に反し、パールはきょとんとしている。
「何が?」
「何って……」
 リオは戸惑った。
 何とは?
 そういえば、パールは男を自称しながら、その股間に陰茎はついていない。
 人魚と人間では体の作りが違うのだろうか。すなわちパールは人間の陰茎のことをよく知らず、勃起の意味するところも知らない、ということなのか。
 助かった。
 ほっと胸を撫で下ろしかけたリオだったが、不意にパールの唇にはむっと下着越しに陰茎を挟まれて飛び上がった。
「ううっ、わ!」
 飛びすさるように立ってベッドから離れる。直後に「リオ坊っちゃま!」と扉の向こうからイーサンの鋭い声が飛んだ。
「どうなさいました。助けに参りましょうか」
「いい! 来ないで!」
 もとより裸のパールと勃起した下着姿のリオ。こんなところをイーサンに見られ、両親に報告された暁には、ただちにDen of FREAKSの仕事の契約は打ち切られてしまうだろう。
「しかし……」
「いい。大丈夫。来ないで。大きな虫がいて……、もう、どこかへ行ったから」
 ドゴンドゴンと跳ねる心臓を、胸の上から懸命に押さえつけながら嘘をつく。イーサンはあまり納得のいっていない様子だったが、なんとか引き下がってくれた。
 それにしても、イーサンのあの反応の早さ。
 彼はリオの身を案じて、パールの部屋の扉にずっと張り付いていたのだろう。パールはもとより控えめなしゃべりかたをするが、自身も小声に努めておいて、本当によかった。
 リオは、イーサンとのやり取りでほとんど萎えた陰茎をハーフパンツに押し込んだ。あとは自身の控え室でちょっと手品の練習でもすれば、じきに平常時の状態に戻るはずだ。
 手早く上の服も着て、ちょっと髪を触ってからパールを振り返った。まるで平然としている。
 何も分かっていないのだ、彼は。
 無垢で美しい彼を見ていると、リオは自身がひどくけがれた俗物のように感じられて情けなかった。
「また来るよ」
 うなだれながら言う。パールはこだわりのない顔で「またね」と返した。