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昔昔、1

 父に寵愛されたのが先だったか。母に忌み嫌われたのが先だったか。

 翻訳家の父は、仕事場を兼ねた己の書斎に人を入れることをきらっていた。他人やどたどたとうるさい子供たちはもちろんのこと、妻やメイドが掃除に入ることすら拒んだほどだ。
 俺には五つ上の兄と、二つ上の姉がいた。そのどちらも書斎に入ることは固く禁じられていたが、俺だけは物心つく前から父の書斎で遊ばせてもらっていた。
 父はしばしば俺を膝の上に乗せて、体を触った。
 俺はいつも、膝に乗せられて抱きしめられたときは嬉しいのだが、骨張った大きな手を服の中に差し入れられ、「お前は本当に美しいな」と耳元で囁かれながらじっとりと全身をまさぐられ、父の呼吸が荒くなるのを聞くうち、不安になった。なんだか、してはいけないことをしているかのような心細さがあった。
 難しい本に囲まれて仕事をする頭のよい父が、間違ったことをするはずなどないというのに。

 五歳になった俺は学校に通い始めた。学年をひとつ上がってしばらくした頃、事件が起きた。
 その日、たまたま少し早く学校に到着した。教室にいてもよかったのだが、暇に任せて校内を探検していると、人気のないところで掃除夫に呼び止められた。
 二、三言葉を交わし、掃除夫は校舎と外とを繋ぐ五段の階段に腰掛けると、「おいで」と自身の膝を叩いた。その階段は校舎の裏手の奥まったところにあり、あたりはしんとしていた。俺は戸惑いながらも、大人の言うことに逆らうのも悪いようで、掃除夫の足の間に座った。
 掃除夫は後ろから俺を抱きしめ、互いの左手を絡めると、首筋に顔を埋めて深呼吸をした。肩甲骨まで伸びた俺の髪の中が、掃除夫の呼気で湿っていくのが汚らしいようで嫌だった。次第にその息が荒くなる。俺はただじっとしていた。
 そのうち授業の始まるベルが鳴って、解放された。別れ際に「他の人には内緒だよ」と念を押され、やはりこれはいけないことなのだと知った。
 その日、夕飯の場で両親に今日の出来事を打ち明けようかとも思った。しかし賑やかな兄姉と朗らかな母を見ていると、その勇気は失せてしまった。母は俺には冷たかったが、俺以外には明るく優しい女性だった。
 夜半、まだ明かりの灯る父の書斎の扉を叩いた。父は「まだ起きていたのか」と驚いたものの、喜んで招き入れてくれた。父に「来なさい」と膝の上を示されて、俺はうつむいた。
「どうした?」
「あの……、今日、学校の掃除のおじさんに似たようなことをされた」
 父がぽっかりと口を開き、次にわなわなと唇を震わせた。父の顔色が赤黒く変化していく。俺は怖くなって「ごめんなさい」と踵を返しかける。父は俺の手首をわし掴むと、乱暴に引き寄せて向かい合わせに膝の上に座らせた。
「何をされた?」
「ごめんなさい」
「答えなさい。何をされた?」
 俺は人目につかないところで掃除夫の膝に乗せられて、抱きしめられたこと、手を握られたこと、首筋に顔を埋められたこと、掃除夫の呼吸が荒くなっていたことなどを説明した。説明を終える頃には、父は少し落ち着きを取り戻していた。俺は「それで」と続ける。
「別れ際におじさんが、他の人には内緒だって。それで、これは、いけないことなの?」
 ほとんど戻っていた父の顔色が、またサッと赤黒くなった。何かまずいことを言っただろうか。「ごめんなさい」と俺が言いかけると、父は「いけないことだよ」とかすかに声を震わせた。
「他人がしていいことじゃない。学校に報告して、そいつには厳重な処分を受けさせよう」父は俺の頬を両手で挟み、よくよく言い聞かせるように言った。「他人がするのは、だめだ。俺はお前の父親だから、いいんだ」
「そうなの?」
 違うような気もした。しかし、博識な父が言うのならきっとそうなのだろうとも思った。
 父は俺の脇に手を差し込み、持ち上げると、椅子から立って俺を絨毯の上に転がした。覆いかぶさった彼はかさかさの厚い唇を俺の唇に押し当てて、隙間から舌を差し込む。俺は口を開いて父の大きな舌をちろちろと吸ったり舐めたりした。彼に教え込まれた対応だった。
「あ、え、なに?」
 ズボンと下着を脱がされて困惑する。
「トイレなら大丈夫だよ」
「トイレじゃない」
 父は俺の膝の後ろに手を当て、おしめを変える赤ちゃんのようなポーズを取らせた。俺は羞恥に顔を赤らめて「何? 何?」と落ち着きなく繰り返す。
「お前の初めては、すべて俺がもらう権利があるんだ」
 熱に浮かされたように父が言った。彼はもう一度同じ台詞を繰り返し、突然俺のちんちんを口に含んだ。ぬるいお湯を浴びたような感覚が広がる。直後に皮の中に父の舌が潜り込む。敏感なところを初めてじかに触られた衝撃に、腰が跳ねる。
「気持ちいいか?」
「お父さん、やめて」
「気持ちいいと言いなさい」
「気持ちいい。気持ちいいから、やめて」
 あまりに刺激が強く、気持ちいい、などというあたたかな感情は起こらなかった。ただ、言わなければいつまでも終わらない気がして言った。
 言ったところで、父はやめてくれなかった。
 父の舌はしばらく俺のちんちんを吸い、玉を転がし、肛門へと到達した。ちょんちょんと舌先で窄まりをつつかれる。「汚いよ」と言ったが、聞き入れられなかった。
「小さいな」
 父は恍惚としている。
「俺はお前を傷つけるつもりはない。もう少し大きくなったら一つになろうな。誰にも許すなよ。お父さんが初めてだ。いいな」
 肛門に異物感を覚え、眉をしかめた。見ると、父が節くれ立った小指を差し入れていた。小指といえど、六歳の肛門に大人のそれは十分すぎるほどに太かった。
「ほら、お父さんが入った。予約したからな。いつか本当に繋がろう。どうした。何を泣いているんだ。ん? 嬉しいか? 言ってごらん。気持ちいいか?」
「気持ちいい」気持ちよくなどない。ただ痛くて、苦しいだけだ。「から、もう、やめて」

 学校はやめさせられた。
 母は小言を言っていたが、父は「勉強ぐらい俺が教えるよ」とゆずらなかった。
「この子を外に出したら、危ない」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿なものか。実際に被害に遭いかけたんだ」
 母は大仰なため息をついて、父に背を向けた。彼女は所在なく立つ俺を睨むと、「気味の悪い……」と忌々しげに吐き捨てた。
「子供らしくもない目つきをして。男娼の霊でも憑いているんじゃないの」
「何を言うんだ!」
 父が怒鳴った。両親が罵り合いを始める。兄姉が白い目で遠巻きに俺を見ている。俺はますます体を縮こまらせる。

 父と繋がったのは、俺の十歳の誕生日だった。
 学校には、もちろんずっと行っていない。それどころか、事件があったあの日から、俺は一度も家の外に出ていない。
 父が教えると言った勉強は、結局ほとんどしなかった。父は仕事と、俺を愛することで忙しかった。父に一日中書斎にいることを命じられた俺は、父の仕事中、子供向けの本などない書斎で分からない本を無為にめくったりなどしていた。
 昔は書斎の壁の二面を埋めていた本棚は、今は一面だけになっていた。代わりにシングルベッドとおまるが所狭しと置かれ、部屋には鍵がかかるようになっていた。
 俺が七歳の頃だったか。用を足しにトイレに行った際、ばったりと廊下で母に出くわした。学校をやめて以来、食事はメイドの作ったものを父と書斎で食べるようになっていたため、母とまともに対面するのは久しぶりだった。彼女はぽかんと俺を見て、みるみる顔を歪めると、高く俺の頬を打った。
 父は、部屋に戻った俺の頬が赤く腫れているのを認めると「何があった」と取り乱した。俺は「何も」と答えたが、父に再び「何があった」と強く問われ、今度は正直に言った。
「お母さんに叩かれた」
 父は激昂して部屋を出た。扉の向こうで父のがなり声が聞こえる。
「あの美しい顔に傷でも残ったらどうする」
 母も負けじと叫んだ。
「残ればいいでしょう。あなた私に感謝しなさいよ。本当のこと言うと、トンカチでも使ってあいつの顔をぐちゃぐちゃにしてやりたいぐらいなのよ」
 翌日、父が大工を呼んで書斎の扉は鍵付きのものになった。また、父にトイレに行くのを禁じられ、書斎でおまるに用を足すよう命じられた。
 はじめはもちろん嫌だった。
 俺が用を足すときに父が息のかかる距離で局部を観察したがるのも、「ほうらかわいいお尻の穴が開いてきたぞ。おや、今日のウンチは柔らかいね」などと屈辱的な実況をされるのも、書斎に臭気が満ちるのも、汚れた肛門を父にちり紙で拭かれるのも、「お父さんはちょうど喉が渇いているから、今日はここでオシッコしてごらん」と父の口に放尿を強要されるのも、父がメイドにおまるの清掃を命じて受け渡す際に扉の隙間からメイドの軽蔑の目を見るのも、全部嫌だった。一時は排便がストレスで便秘になったが、そうしたところで浣腸と摘便という新たな恥辱を与えられるだけだった。
 やがて、全て慣れた。慣れるほかなかった。
 そして、十歳の誕生日だ。
 父が短くするのを厭った俺の髪は、腰に届くまでの長さになっていた。
「大きくなったな」
 父は俺をベッドに組み敷き、その台詞をしきりに繰り返した。重たくのしかかる大人の父を目前にすると、十歳の俺などまだまだ小さかった。
「まだそんなに大きくないよ」
「十分大きくなったよ。な、もう、しよう。今日こそ父さんと繋がろう」
「まだ無理だよ。お父さんのちんちん大きいもん」
 何度も口に含み、手で触り、体に擦り付けられた父の陰茎を、粘土で形作れと言われれば正確に作れる気がした。どう考えても、それは十歳の肛門に収まるようなサイズではなかった。
 父は俺の逃げを許さなかった。
「何年待ったと思ってるんだ。何年我慢したと思ってるんだ。毎日慣らしてきただろう。もう十歳のお兄さんになったんだから、できるよ。お父さんの言うことが信じられないのか」
 父はいつものごとく指と舌で俺の肛門をほぐした。十分にほぐれると、俺を仰向けにして足を開かせ、いきり立った巨大なものを容赦なくねじ込んだ。
 それが入ってきた瞬間、俺は痛みで泣き喚くのだと思っていた。粘膜は裂け、シーツには血が付くのだと思っていた。
 実際のところ、俺の肛門は一切の抵抗なく父の陰茎を受け入れた。多少の息苦しさはあったが、痛みなどまるでなかった。
「ほら、ちゃんと入っただろう」
 父が満足げに俺を抱きしめた。俺は自分の体が何か得体の知れない化け物にでもなったかのようでおそろしく、耳元で父が「愛しているよ」と囁くのに返事をすることすらできずにいた。

 十一歳のある日。
 なんの変哲もない日だった。
 例に漏れず、俺は父に抱かれていた。
 父に言わされていた「気持ちいい」は、いつしか本当の言葉となっていた。十歳で体を繋げてから、俺は指と舌だけで愛されていた頃よりもずっと多くの嬌声を上げるようになっていた。
 ガン! と、書斎の扉が外から何か硬いもので叩かれた。俺はそう動揺もせずに、熱の回った体でぼんやりとそちらを見る。
「開けろお!」
 扉の向こうから山姥のような声が聞こえた。父はそれが聞こえないはずもないのに、一心不乱に腰を振り続けていた。俺は父の律動に甘い喘ぎを返す。そういう体に仕立て上げられていた。
「開けろ! 開けやがれ! 毎日毎日、真っ昼間から馬鹿にしやがって。殺す。殺してやる。殺してやる!」
 父が俺の中に精を放った。俺から陰茎を抜いた父は急に真面目な顔になって、俺にズボンとシャツを着させると「逃げなさい」と書斎の窓を開けた。書斎は一階にあった。俺は熱っぽい体がだるくて、動きたくなかった。扉からは、ガンガン、ガンガン、と硬質な音が止まない。
「逃げなさい」
 てんと佇む俺に、父は繰り返した。俺は惓んだような心持ちで「どこに」と聞いた。
「どこでも。とにかく逃げなさい」
「どうして」
「このままここにいては殺される」
「お父さんは逃げないの」
「お父さんが食い止めてやるから、お前だけでも逃げなさい」
 次第に扉の揺れが大きくなっていく。今にも破られそうだ。山姥の咆哮が聞こえる。
「お前が、お前が生まれたせいで、ずっと幸せだったのに、お前がぶち壊した。お前がぶち壊したんだ! 開けろ、開けろお! 殺してやるう!」
 よくよく聞けば、それは母の声だった。
「早く行きなさい」
 父は俺を抱き上げて窓の外に下ろした。
「今晩か、明日か、落ち着いたらそっと帰ってきなさい。この窓の鍵は開けておくから」
 父は気忙しげに扉を振り返りつつ言った。俺は「分かった」と頷いて、父に背を向ける。久しぶりの外に不安が募ったのも一瞬のことで、一歩足を踏み出しさえすれば途端に身軽な気持ちになった。
 父が逃げずにここに残るのは、身を挺して山姥を食い止めるためではない。
 山姥の標的は、俺一人なのだ。父ははなから逃げる必要などないのだ。
 書斎に突入した山姥は、あちらこちらをひっくり返して俺を探すのだろう。やがてどこにも俺がいないことを知ると、急に恥じらう女の顔になって「ごめんなさい、私どうかしていた」などと父にすり寄るのだろう。父はその体を腕に収め、「ごめんよ不安にさせて」などと優しく囁くのだろう。
 あの家に、俺はいらない。
 長く歩くのは久しぶりだ。俺はおぼつかない足取りであてもなくふらふらと家を離れる。肛門から父の精液があふれて、ズボンに染みを作った。