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 舞台は無事に終了した。それから向かったマイクの部屋には、イーサンもついてきた。リオが「君は廊下で待っていて」と命じても、イーサンは「いいえ」と従わなかった。
「私には私の役目があります。先ほどリオ坊っちゃまと見世物を二人にして場を離れたのは、失態でした。のちほど旦那さまに報告をして、お叱りいただきたく存じます」
「別に、父さんは君を叱らないよ。君が行かなきゃ、僕はびしょ濡れの服のまま舞台に上がるはめになったんだから」
「いいえ、いいえ、大失態です。服を買いに行く役割をここのスタッフに任せるべきでした」
「任せていたら、やっぱり僕はびしょ濡れの服で舞台に上がっていただろうね。Den of FREAKSのみんなは、君ほど真剣に僕の問題に取り組んではくれないだろうから」
「それにしたって、あの方はどちらへ行かれたのです? きちんとあとを託していったのに……」
 あの方とは、リオとパールを見張るようイーサンが頼んでいった男のことだろう。男はもとより乗り気ではなかったが、早々に追い出したのはリオなのだ。君がいなくなってすぐに出ていったよ、と告げるとイーサンの嘆きが長引きそうで、「初めはきちんといてくれたよ。だけど気がついたらいなくなっていた。彼には彼で仕事があるんじゃないのかな」と適当なことを言っておく。
「本当に来るの」
 今一度イーサンに確認した。「はい」とイーサンが即答する。リオは軽く肩をすくめはしたものの、それ以上やりあうことはせずに、改めてマイクの部屋の扉に向き直った。
 こいつらはいつまでここでぐずぐずしているつもりなのだ、と呆れ顔をしていたマイクの部屋の守衛が、その表情のまま「よろしいですか」とリオに確かめた。「うん」と答えると、守衛がマイクの部屋の扉を力強くノックする。
「マイクさま! リオさまがお見えです」
「どうぞ」
 扉の向こうからマイクの穏和な声が返ってきた。
 守衛が扉を開く。成金趣味の部屋にぴったりの豪華なチェアからさっと立ち上がったマイクは、人の好い笑顔でリオを出迎える。しかしそれは見せかけだ。マイクは極悪非道な男なのだ。
 マイクに勧められ、ソファに腰かけた。マイクも自分のチェアに座り直す。イーサンだけはリオの背後に控え、しゃんと背筋を伸ばして立っている。
「リオさまがゲストにいらっしゃってから、おかげさまで客足は増すばかりです」
 にこやかにマイクが言った。リオは、マイクとつまらないやりとりを少しした。すぐに「ところで」と居住まいを正す。
「はい」
「おうかがいしたいことがあるのですが」
「おや。なんでしょう」
「パールはいくらですか?」
 単刀直入に聞いた。
 もう、とうに時間は遅い。あまりだらだらとして極端に帰りが遅くなると、両親が心配するだろう。それに、リオはパールをひどい目に遭わせたマイクを見ていると胸がむかむかしてしまって、必要以上に長く彼と顔を突き合わせていたくなかった。
「リオ坊っちゃま」
 イーサンがとがめるような声を出した。リオは無視をする。マイクが「ふうむ」とたくわえた髭を触り出す。
「一晩ですか? リオさまには大いに集客に貢献していただいたので、特別にお安くしておきますよ」
「一晩ではありません」
「というと?」
「買い取りたいのです」
「リオ坊っちゃま」
 イーサンがじりじりと名前を呼んだ。リオはそちらに顔も向けない。マイクがあざける。
「まずは、おうちの方と相談をなさってはいかがですか」
「子供扱いをしないでください」
 リオは、今にもマイクに掴みかかりそうな体を理性で抑えつけるのに必死だった。膝の上で握った両の拳の爪の先が、手のひらに食い込んで血がにじむ。
 マイクがぽかんとした顔で、ぱちぱち、とまばたきを繰り返す。きっと背後のイーサンも同じ顔でリオを見ていることだろう。
 大人であるマイクとイーサンにとって、十二歳のリオはお話にならないほど子供なのかもしれない。しかしだ。
「私が仕事をして、稼いだ金の話をしているのです」
 リオはまっすぐにマイクを見た。『私』などという大人びた一人称を使うのは生まれて初めてのことだったが、今こそそのときだと思った。
 マイクは急に真面目な顔になって、探るようにリオを観察し始める。リオは顔色ひとつ変えずに、真正面からその視線を受け止めた。マイクが真面目な顔のまま言う。
「誠に申し訳ないのですがね。あれは売れません」
「なぜですか」
「リオさまはご存じないのでしょうがね」マイクがたくわえた髭を触り出す。「陸に上がった人魚は、通常一年ほどで死んでしまいます。あれはずいぶん長生きしましてね。もう、陸に上がって二年も経つのです。しかし近頃はさすがに弱ってしまって、もう明日死ぬかも分かりません。そんな個体を売ることは、とてもできないのです」
 知っている。そのぐらいのことは、パールに聞いてよく知っているのだ。それ以上の秘密ですら、僕はもう知っているのだ。
 そう叫び出したい衝動に駆られながらも、やっとのことで飲み込んだ。パールがリオと、外部のものとしゃべったということが、マイクに知られてはいけないからだ。
「それでも構わないのです」
 なんとか平静を装ってそれだけ言ったリオに、マイクは首を横に振った。
「私が構うのです。あんなものはもう売れない」
「パールは美しいですね」
 突然の称賛に、マイクは虚を衝かれたらしい。戸惑いがちに「……ありがとうございます」と礼を言う。
「あなたは、パールが年だから売れないとおっしゃった。しかしあんなに美しければ、舞台に出した当初から買いたいというものはいくらでもあったでしょう。どうして今までお売りにならなかったのですか?」
「それは……」
「見世物は滅多にお売りにならない? あんなに珍しい生き物は、貴重ですからね」
 リオは皮肉を言った。マイクは普通の人間をさらって、好きな形状の見世物を無限に作り出せるのだから、貴重でもなんでもない。
「いいえ、いいえ、そんなことはありません」マイクは顔の前で片手を振る。「部屋に住んでいるものだけは、少し扱いが違いますがね。あれはよその有名な見せ物を雇って、うち専属で働く代わりに住まいを提供している形ですから。しかし檻の中のものであれば、適切なお代をいただければどれでもお売りいたします」
「パールは部屋のものだから売れないのですか?」
「いいえ。部屋とは、扉なしの部屋のことです。パールは当初絶大な人気で、ひっきりなしに指名があったものですから、お客さまと見世物が触れ合う部屋と檻とをいちいち行き来させるのが手間で、特別にあそこに寝かせているだけです。大人しく、逃げ出す気配もないので、人気の下がった今でもあそこに寝かせていますがね。あれは本来檻入りですよ」
「それならば、今までパールに見合う金額を提示するものがいなかったのですか。私はいくらでも出します。今、貯金はこれだけある」リオは指を立てて示す。「全て出してもいい。足りなければ借金だってします」
 リオ坊っちゃま、とイーサンが渋い顔をした。リオは取り合わなかった。マイクも今度はイーサンに構わなかった。
「いくらいただいても、売れません。あの人魚は老体ですから」
 きっぱりとつっぱねながらも、マイクの瞳にはかすかに不安の色が混じり始めていた。リオは引かない。
「それでも構わないのです」
「ですから、私が構います」
「では、もしもの話ですがね。パールの若いうちに私がこのお話を提示したら、あなたは飲んでくださいましたか。つまり、いくらでも金を出す、というものが現れれば、あなたは昔のパールを売りましたか」
 マイクが目を伏せる。彼は観念したようにゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
「どうして?」
「……面白い話ではないのですが」
「構いません」
 マイクは少し黙って、深いため息をつくと、ぽつり、ぽつりと語り出した。

 ——要は、私がパールを気に入っている、というだけの話です。
 あれは優秀だから、すぐには手放したくなかった。初めはもちろん、いつかは売るつもりでいたのです。
 しかしね……、……。リオさまにしてもつまらない話だとは思うのですが……、構わない? はい、それでは。
 うちの見世物小屋で、人魚は目玉です。創業以来、何度も代替わりをしながらうちの看板をつとめているのです。人魚は人気だから高く売れる。今まで何尾も売りました。
 しかしね、見世物の中でも断然、人魚はお客さまにお渡しした翌日に、死んだとの報を受けることが多いのです。海水を張った大きな水槽に入れたら死んでしまったぞ、どうしてだと……。
 リオさまもご覧になったでしょう。パールは水槽ではなくベッドで暮らしています。これまでの人魚も皆、水槽などには入れていません。陸で暮らせる特別な薬を飲ませているからで……。
 その薬を飲むと、陸で暮らせるようになる代わりに、今後一生水の中では暮らせなくなってしまうのです。
 もちろん私はお客さまに人魚をお渡しする際、しっかりとそのことをお伝えいたします。しかしお客さまは、人魚は水の中でいきいきするものだという固定概念を捨てきれない。つい人魚かわいさに大きな水槽を用意してしまうのです。
 うちの人魚をそんな水槽に入れればたちまち溺れ死んでしまうと、あれほど入念にお伝えしているというのに。

「売れば、多くはその日のうちに死んでしまう。ごく少数の、初めは警告を守ってくださっていたお客さまも、一、二週間もすれば水の中で優雅に泳ぐ人魚を見たくなり、大きな水槽を用意して、結局は死なせてしまうのです」
 マイクが手元のベルを鳴らした。すぐにスタッフが透明な液体の入ったコップを運んできた。水だろうか、酒だろうか。トレーに乗せられたコップは三つあった。マイクに勧められたが、リオもイーサンも断った。
「失礼して」
 マイクがコップの液体をあおる。一息に半分飲み、静かにテーブルにコップを置く。
「私はね、パールを気に入っているのです。これまでたくさんの人魚を見てきましたが、あれほどの優秀さと美しさを兼ね備えた人魚は珍しい。その上、二年も生きるほど丈夫でね。お客さまに莫大な金額を提示されればもちろん心は揺らぎます。しかしあれがよそで無念にも溺死させられてしまうことを考えると、とても売る気にはなれませんでした」
「私はパールを水槽に入れたりなどしません」
「皆さんここではそうおっしゃられます。これまで人魚を水槽に入れて溺死させてしまった方は、皆さん」
「絶対に入れません。誓約書を書いてもいい。破ることはあり得ませんが、万一破ってしまった場合、違約金としてあなたに大金を支払うという取り決めをしても構いません」
「そうですか」
 マイクはコップを手に取り、こくりと一口だけ飲むとリオを見据えた。
「しかし、売れません。あれはもう、普通にしていたって今日死んでもおかしくない、老体ですから」
 リオは大きく息を吐き出し、ソファの背に体を沈める。
 交渉決裂だ。
「次の出番の日——最後の出番の日ですがね」
 リオはソファから背中を浮かせ、突然話を変えた。マイクが一瞬遅れて「はい」と相づちを打つ。
「パールを予約できますか?」
「予約とは?」
 先ほどまでの交渉の緊張が残っていると見えて、マイクは注意深く眉間に皺を寄せた。リオは微笑む。
「いえ、たいした話ではありません。本日パールの部屋に入った際、そちらのスタッフと鉢合わせましてね。あまり気分のよいものではありませんでしたから、予約をして、私が部屋に入る時間には他のものを絶対に入らせないようにすることは、可能ですか?」
「ああ」ようやくマイクが表情を和らげる。「ああ、ああ。もちろん可能です。伝えておきましょう」
 マイクは万年筆のキャップを外し、メモ用紙に手を伸ばす。
「次回の出演日ですね。お時間は出番前でよろしいですか。いつもそうだとうかがっているので」
「いえ」リオはじっとマイクを見つめる。「出番後で」
 再びマイクが表情を固くした。リオはにっこりと笑顔を作る。
「出番前だと、どうしてもバタバタしてしまいますからね。最後ぐらいゆっくりと過ごしたいのです」
「あ、ああ。それもそうですね」
 別れの挨拶を交わし、マイクの部屋を出た。
 イーサンと共に長い長い見世物の通路を進み、裏口から外へ出る。無邪気なデゴスに手を振ってやる。待機していた馬車に乗り込む。
 帰路の間中、リオもイーサンも無言だった。
 会話をするどころか、ちょっと目を合わせるだけで何もかもが壊れてしまいそうな予感のもとで、対角線上に座った二人はじっと虚空を見つめ続けていた。