10
すっかり素通りしていたあまたの見世物の檻が、再びリオの意識に引っかかるようになった。
ただしそれは、初めてDen of FREAKSを訪れたときのような、わくわくとした無垢な気持ちからではない。むかむかと、吐き気をもよおすような不快感をもってだ。
パールは、人間。五体満足の体から、わざわざ腕を取り除き、両足をくっつけ、視力を奪い、性器を切除する手術をほどこした、人間。
それならば、ほかの見世物たちは?
彼らも妖精や、人間と動物のあいの子なんかではなく、そのおぞましい手術を受けさせられた五体満足の人間だったのではないか?
中には、生まれつき奇形の人間をマイクが買い取った例もあるのだろう。それだっていけない。人間として生を受けたのに、まるで家畜のように、不衛生な光の届かない牢で鎖に繋がれて一生を終えるだなんて、あまりにもむごすぎる。
本物の妖精は、きっとここにはいない。
だが、リオの父の見立て『人間と動物を交尾させて作った』生き物は、もしかするといるのかもしれない。改めて考えれば、それだってあんまりではないか。
なぜ、今の今までリオはそのことを問題視していなかったのだろう。
そのようにして見世物を作ったのだとすれば、『動物と交尾をさせられた人間』が存在するということだ。動物への種付けを強要されるのは屈辱的だろう。動物がオスで人間がメスだった場合、事態はより深刻だ。動物に射精され、体内に奇妙な生命を宿し、数ヵ月にわたって腹の中で育て、出産する……。
考えただけでめまいがしてくる。
できあがったあいの子だって——。
檻の中の生物たちはまるで知能が低いようで、リオはそれらを人間とは異なる、数段下の生き物として観察していた。しかしそれが、ドラッグによって作られたものだとしたら?
人間と動物を掛け合わせるのだ。ときには人間に近い知能のものが生まれることもあるだろう。その全てが、扉のない六つの部屋で割合自由に生活をさせてもらえるのか?
そうは思えない。
あの六つの部屋に入れるのは、条件は分からないが『特別に選ばれたごく一部のもの』だけだ。檻の数に対して、部屋の数が少なすぎることからもそれは明らかだ。
それならば、人間に近い知能を持ったあいの子、あるいは奇形を持って生まれたり人為的に改造をほどこされた人間の中で、『選ばれなかった』ものたちは?
きっと、きついドラッグを飲ませられるのだ。
知恵があると扱いが面倒なため、ドラッグで手っ取り早く脳と心を壊してしまう。ドラッグの影響で体が壊れて、死んでしまっても問題ない。そのときはまたどこかから新しい人間を入手してきて、適当な異形に改造するだけだ。
パールは選ばれなかった。選ばれなかったけれど、ドラッグが体に合ったのだろうか、幸いなことにいまだ自我も命も保っている。
一刻も早く、この地獄のような環境からパールを救い出さなければならない。
どうやって?
前回パールと別れてから、リオはひたすらに思考を巡らせた。
マジシャンのリオは、瞬間移動のマジックぐらい何度もやったことがある。とはいえ、もちろんあれは会場に仕掛けがあってこそのものだ。タネも仕掛けもない普通の部屋からパールを連れて建物の外へ瞬間移動する、なんて芸当はできない。リオはマジシャンであり、魔法使いではないのだ。
物語のヒーローのように、真正面からDen of FREAKSに乗り込んでさっそうとパールをさらい出す——、これも不可能だ。
護衛をイーサンに任せきっているリオは、武芸にうとい。歩けないパールを連れて、あの長い長い通路を門番のデゴスやその他大勢の屈強な男たちをかいくぐって脱出するだなんて、どだい無理な話だ。リオのボディガードのイーサンだって、パールをさらうとなれば絶対にリオの敵に回る。
ならばどうするか?
もっとも現実的な案は、金でパールを買い取ること、だ。
マイクは、金を払えば誰でもパールと触れ合えるのだと言っていた。一晩いくらで買えるのならば、大金を積めばパールを買い取ってしまうことも可能なのでは?
リオはパールのためならば、マジックで稼いだ全財産をつぎ込んだって、足りない場合は親に頭を下げて借金をしたって構わなかった。
問題は、買い取ったあとだ。
両親は、パールをこの家に引き取ることを許してくれるだろうか。
パールは美しいのだから、じっくりと説得すれば父親は許可してくれるかもしれない。しかし、母親は見世物という存在を唾棄している。
どう切り出そうか……。
悩んでいるうちに、再びパールに会う日がやってきてしまった。
リオは、ただ自身のつま先を見つめて長い長い檻の通路を進んでいった。檻の中の生き物たちを直視することができない。
「ご気分が優れませんか」
イーサンが心配そうにリオの顔を覗き込んだ。リオは首を横に振り、「大丈夫」と短く返す。
「今日はお時間まで、控え室でゆっくりお休みになるのがよろしいかと」
「嫌だよ。パールに会う」
即答した。
ゆっくりと休んでいる暇などないのだ。このひどい環境から一刻も早くパールを救い出すために、やるべきことがたくさんある。
パールに会って、君を買い取りたいんだと伝えて、マイクに交渉をしにいって……。
気がつくと、リオは鉄格子の扉を抜けてレースの青い部屋の前にいた。そのままレースのカーテンを抜ける。扉を閉めかけて、静止した。
一瞬、目の前の光景を理解できない。受け止められない。
ベッドの上にパールがいる。パールの上に、なにか汚らしいものが覆い被さっている。色黒で、頭は禿げているのに体は毛深くて、ぶくぶくと太っていて……。ずちゅ、ずちゅ、ずちゅ、と室内には下品な水音とベッドのきしむ音が響いている。
「リオ坊っちゃま、いけません!」
「離れろよ!」
レースのカーテンを抜けたところで立ち尽くしたリオを不審に思ったのだろう、ひょいと部屋を覗き込んだイーサンが血相を変えてリオの肩を掴みかけるのと、リオが怒号を上げて足を踏み出したのは、同時だった。
イーサンの手は空を掴む。リオはどかどかとベッドに近付く。パールの上に覆い被さっていた汚ならしい男がこちらを振り返り、慌てふためく。
「おや、おや、失礼いたしました! もうそんなお時間ですか。お客さまが優先ですからね。どうぞ、どうぞ。すぐにお使いになられますか。ただちに中を洗浄いたしますので……」
「リオ坊っちゃま! いけません! そんな穢らわしいものを見ては……」
「離れろ! 出ていけ! 出ていけよ!」
リオは何度もこちらの肩を掴もうとするイーサンの手を振り払い、男に向かって怒鳴り続ける。汚ならしい男は目を白黒させていたが、わたわたとズボンを上げるとベルトも締めずに部屋を出ていった。
リオはパールを抱き上げ、立水栓へと運ぶ。二人の身長は同じぐらいだけれど、両腕のないせいか、肉のほとんど付いていないせいか、その体は驚くほどたやすく持ち上がった。
立水栓の水でじゃばじゃばとパールの体を流す。彼の体についた男の体液が不愉快だ。「リオ坊っちゃま」とイーサンが眉をひそめてリオのそばにひざまずく。
「大丈夫ですか。ご気分は。ひどいものをご覧になりましたね。こんな穢らわしい部屋におられてはいけません。あとのことはここのものに任せて、お部屋で休息を……」
「ひどい。かわいそうだ。見ただろう? パールはいじめられていた。本当にひどいよ」
ぐちゃぐちゃの心で、リオはなんとか演技をした。セックスなんて知らない、無知な子供の演技をだ。
イーサンが、どう説明したものか、という表情で言葉を詰まらせた。
しばらくのち、はっとして「お召し物が!」と叫ぶ。リオはそれを聞いて己の服を見下ろした。服を着たまま抱きつくようにしてがむしゃらにパールを洗っていたものだから、リオの服はすっかりびしょ濡れになっていた。
「急いで手配してよ」
傍若無人だ、という自覚はあった。ありながらも、リオはあえて突き放すような口調で言った。
「今すぐ服を手配して。舞台に間に合うように」
「しかし……」
「二人にさせてよ。パールはいじめられてひどいショックを受けている。僕が彼の心のケアをするから、その間に、君は僕の服を手配して」
無知の演技を貫きながら、イーサンに命令した。
イーサンは、パールとリオを交互に何度も見る。リオを見るときは気遣うような哀れむような目つきを、パールを見るときは、不気味なものをしげしげと観察するような失礼な目つきをした。彼にはパールの美しさが分からないのだ。
イーサンは葛藤しているようだ。
——舞台のために、急いでリオ坊っちゃまの服を手配しなければならない。今まで黙認してきたが、こうして不気味な人魚を目の当たりにすると、やはりリオ坊っちゃまとこの化け物を二人きりにさせるのは嫌だ。もう服屋はすべて閉まっている時間だから、もたもたしていると服を入手できる確率は刻一刻と下がっていく。セックスというショッキングなものを目撃してしまったリオ坊っちゃまへの心のケアも重要だ。しかし、リオ坊っちゃまはまだセックスというものをよく理解していないらしい。ただ『人魚はいじめられたのだ』という認識をしている。それならば私の最優先事項は、リオ坊っちゃまを労り慰めることではなく、間もなく始まる舞台のための衣装を調達してくることではないのか?
そんな逡巡が、彼の中であったのかどうか。イーサンが決心したようにリオに視線を定めた。
「ただちにお召し物をご用意いたします」
「そうして」
イーサンが部屋から背後を振り返り、通路に向かって叫ぶ。
「どなたか、ここでリオ坊っちゃまを見ていてください!」
やはり、実際にパールを見て、リオと二人きりにさせるのが改めて不安になったらしい。リオは「その必要はないったら」と顔をしかめる。
Den of FREAKSで働く屈強な男のうちの一人が、馬鹿らしいといった表情でのろのろと部屋に入ってきた。イーサンはその男の両肩をしっかと掴み、「頼みましたよ」と頭を下げると駆け足で部屋を出て行った。
イーサンの足音が遠ざかると、リオは男に向かって顎をしゃくった。男は「どうぞごゆっくり」とあっさり部屋を出ると、親切に扉まで閉めていってくれた。
リオはパールに向き直る。ばしゃばしゃと勢いよく水を流しながら、パールの骨ばった体を手のひらで強く擦っていく。
やがてリオの手はパールの肛門に伸びた。
ぬるりとした感触に眉をひそめる。パールの体液だろうか。それなら構わないけれど、もしあの汚ならしい男の体液だとしたら、そのままにしておくわけにはいかない。
肛門に水が当たるようにパールの体勢を変え、ぐちゅぐちゅと中の汚れを掻き出していく。何度も。何度も。いつまでも綺麗にならないような気がして、何度も何度も何度も。
くしゅん。
パールの小さなくしゃみで我に返った。
見ると、彼の薄い体が小刻みにかたかたと震えている。その上、リオが乱暴に擦ったせいだろう、白い肌のあちらこちらに痛々しい赤みが差していた。
「ごめん」
慌てて水を止め、びしょびしょのパールを抱き上げるとチェストの前まで移動した。床に座り、チェストからタオルを取り出す。パールの体を可能な限り優しい手つきで拭いていく。
「ごめん。取り乱してしまった」
ぶるり、と思い出したようにリオの体が大きく震えた。リオの服もとっくにぐしょ濡れだ。このままでは風邪をひいてしまう、と手早く服を脱ぐ。タオルをもう数枚取り出すと、己の体とパールの体に残る水滴を拭き上げていった。
一息つくと、パールを抱えてベッドに上がる。
彼の背中に腕を回したまま、ごろりと二人で横になる。体は冷えていたけれど、彼と触れているところからじんわりと熱が生まれ出す。
「ごめんね」
リオは囁いた。囁いて、パールがまだ一言も口を利いていないことに気が付いた。
「リオだよ」と名乗ってみる。
パールは何も言わない。再び名乗って謝罪を重ねるが、パールは黙りこくったままだ。
義眼のパールは、常に焦点が定まらない。
だけど今日の彼の目付きは、いつにも増してぼんやりとしているような気がする。なんだか、目の周りの筋肉がだらりと弛緩しているような。
その白痴のような目付きには覚えがあった。リオが初めてパールの部屋を訪れたときに見たものだ。
あの日、パールはリオが呼びかけても、触れても一向に反応を返さなかった。リオが耳を強く引っ張って初めて、弾かれたように体を跳ねさせたのだ。
手を伸ばす。遠慮がちに、しかし強く、彼の右耳を引いてみる。びくんとパールの体が跳ね、ぱちぱちっと素早くまたたきを繰り返す。彼の目の周りの筋肉がしゃんとする。
「リオだよ」
今一度名乗った。
「リオだよ。分かる? リオ・アンダーソン」
「リオ……」
じんわりと、パールが微笑した。
リオは胸を撫で下ろし、彼の髪に指を絡める。
「大丈夫? 汚いおじさんに変なことをされて、ショックだった?」
「汚いおじさん?」
「毛むくじゃらの太ったおじさんだよ」
パールは「ああ」と平気な顔で笑った。
「掃除のおじさんのことかな。あの人とはしょっちゅうしているから、別になんにもショックじゃないよ」
リオはぐっと奥歯を噛み締めた。
あの汚い男と、パールはしょっちゅうセックスをしているのか。知りたくなかった。聞かなければよかった。
脳裏に、パールに覆い被さる汚い男の映像がフラッシュバックする。素早く頭を振ってそれを払い、「それじゃあ」と訊ねる。
「それじゃあ、今日の君はどうしてそんなにぼんやりしているの」
パールはうっとりと目を細める。
「今日はね、薬の効きがすごくいいんだ」
こてん、と首をかしげる。
「ふわーっとして、いい気持ち」
「薬ってドラッグでしょう」
「そうだよ」
「ドラッグはやめなくちゃいけない。前にも言ったじゃないか」
リオは眉を八の字にして、すがるように言った。パールは黙ってにこにこしたままだ。まるで知能がないような顔で……。ドラッグによって、日々脳を溶かされて……。
「逃げよう」
たまらなくなってリオは言った。ぱちぱち、とパールが目をまたたかせる。リオはパールの頬に手を添える。
「僕はね、十二歳だけれど、そこらの十二歳よりずっとお金を持っているんだ。今日、マイクに交渉しようと思う。僕の全財産でパールを売ってくれないか、ってね」
またたきを繰り返していたパールが、ふっと醒めた顔になった。
「マイクは俺を売らないよ。今までにもそういう申し出はあったみたいだけれどね、すべて断ったと言っていた」
「それは今までの話でしょう? 今、今日どうなるかは、やってみなくちゃ分からない。足りなければ借金をして足すよ。いくらでも。だから、心配しなくていい」
「バカなことをしないで」
「バカなもんか」
「バカだよ」パールはうんざりしたように首を振った。「そんな大金で俺を買うぐらいなら、同じ額で今晩死ぬ犬でも買ったほうがいい」
「犬なんかいらない」
「いらない犬を買うほうが、俺を買うよりずっと有益だという話をしているんだよ」
張り詰めた空気の中、二人は睨み合った。
いや、それはただ、リオがそう感じたというだけの話だ。
盲で義眼のパールは、リオを睨みつけることなどできやしない。しかし、存在しない彼の瞳が、鋭くリオを射すくめているかのようにリオは感じた。
圧に耐えかねて先に視線を外したのは、リオのほうだった。ふっと目を伏せ、消え入りそうな声で聞く。
「どうして君は、僕に秘密を打ち明けてくれたの……」
「君としゃべったのは単なる事故だよ」
「そうじゃない。君が五体満足の人間だったっていう、秘密をだよ」
リオは再びパールに目を向けた。先ほどまでのような尖った敵対の視線ではない。今にも泣き出しそうな、揺れる瞳をだ。
「君は、本当は誰かに助けてほしかったんじゃないの。それで僕に、秘密を打ち明けてくれたんじゃないの?」
「……ごめんね」
ふっとパールが表情を和らげた。リオには謝罪の意味が分からない。
「どうして謝るの?」
「前にも言ったよね。俺はもうじき死ぬ。年寄りなんだ。先の短い年寄りは、思い出話をしたくなるものなんだ。たまたま君が、思い出話をするのにちょうどいいところにいたっていうだけの話で」
パールの口調は、子供を宥めすかす親のように優しい。
「誤解をさせてしまって、ごめん」
「君はまだ死なない。僕が死なせない」
リオはやっきになって言い返した。パールが力なく笑って首を横に振る。
「死ぬよ。自分のことだから分かる。もう、体もボロボロなんだ」
リオの目から一筋、涙があふれた。それを皮切りに、あとからあとから湧いてくる。
「君はまだ子供だ。年寄りなんかじゃない」
「年寄りだよ」
「ねえ、僕の家で一緒に暮らそう。君もアンダーソン家の一員になるんだ」
「無理だよ」
とびきりの提案のはずなのに、パールは間髪入れずに却下した。
「どうして」
「どうしてって……」パールは困ったような顔をする。「君の家では暮らせない。君と俺とでは、住む世界が違うんだ」
「そんなことない」
「そんなことある。君と同じような生活はできないし、」
「できるよ。できる。うちには優秀な家庭教師がいる。彼女は勉強も一般教養も、マナーも上手に教えてくれる。君は頭がいいからすぐに……」
「君は、俺と同じような生活ができる?」
柔らかく訊ねたパールに、リオは呼吸を止めた。同時に涙も止まる。たっぷりの間を挟み、なんとか「……え?」とだけ発する。
「俺はここでセックスを教わったわけではないけれどね。マイクが言うには、うちには優秀な調教師がいる。五体満足の人間を見世物に作り替えてくれる、凄腕の医者もね」
パールは微笑している。
「薬漬けにだって、性欲処理の道具にだって、見世物にだって、君は今すぐなれるんだよ」
リオは言葉を失った。パールはけろりとしたまま続ける。
「だから、ほら。君と俺とでは住む世界が違うんだ。君は俺みたいになりたくないだろうけどね。俺だって、別に君みたいにはなりたくない。毎日勉強をして、忙しく働き回って、大変そうだもの」
パールが言葉を切って、小さく息をつく。
「君には信じられないかもしれないけれどね。俺は、寿命の縮む薬を与えられながら、ベッドに寝そべって抱かれるだけの毎日が、そう嫌いでもないんだよ」
本当に? 本当に、そんなことがありうるものなのか?
リオは呆然とパールを見た。どんな言葉を返せばよいのか、てんで思い浮かばなかった。
パールの主張が理解できないということは、やはり彼の言う通り、二人は住む世界が違うということなのか?
「リオ坊っちゃま」
イーサンの声がして、リオははっとした。返事をする前に違和感を覚える。
ここの扉は厚い。扉越しにやりとりをするには、声を張らなければならない。
しかし、今のイーサンの声は控えめだった。控えめなのに、いやに近く、クリアに聞こえた。扉越しに聞こえる声特有の、くぐもった調子はまるでなかった。
おそるおそる扉を振り返る。息を呑んだ。
「ノックしてよ!」
リオはベッドから跳ね起きた。イーサンは険しい顔でこちらを見つめながら、「お召し物が」と紙袋を掲げる。
「ご用意できました」
「ノックしてよ」
「申し訳ありません」
謝罪を述べながらも、イーサンに悪びれた様子はなかった。リオは裸のまま足早に紙袋を取りに行く。ほとんどもぎ取るようにして紙袋を手にする。
がさがさと中を探る。下着はなかったため、素肌の上にじかにハーフパンツを穿く。
「いつからいたの?」
「つい先ほどです」
「そう」と平静を装いながらも、気が気ではない。
パールとの会話を、聞かれはしなかっただろうか。パールがしゃべれるということを、イーサンに知られはしなかっただろうか。
リオの心配をよそに、イーサンは異なる点を指摘した。
「何をなさっていたのですか?」
「何って?」
「裸で抱き合って……」
リオはぱっと顔を赤らめた。「別に、なにも」と答える声が大きくなる。
「服が濡れて、冷えたから脱いだんだ。肌と肌を触れ合わせてみたらあたたかかったから、それだけ」
嘘はついていない。リオは、探るような視線を向けるイーサンから逃れるように背を向ける。
「人の着替えをあんまりじろじろ見ないでよ」
「失礼いたしました」
リオは手早く身支度を終えた。
さすがに普段のオーダーメイドの舞台衣装のフィット感には遠く及ばないが、おおよそのサイズは合っていた。シャツにベストにサスペンダーに靴下、蝶ネクタイまで揃っていた。
「よく調達できたね。服屋なんかとっくに閉まっていたでしょう」
「閉店した店の扉を順に叩いていきましてね。肝が冷えましたよ。間に合ってよかった」
イーサンが忙しなく懐中時計を確認する。リオも懐中時計は持っているのだが、いつもイーサンに時間管理を任せているくせで、濡れたベストのポケットを探りもせずに「何時?」と訊ねた。
「あと五分ほどでお出番です。そろそろ舞台袖に移動いたしましょうか」
「そうだね」
リオは濡れた衣類をイーサンに手渡し、代わりに手品道具の入ったボストンバッグを受け取る。何気なくパールに声をかける。
「また来るよ」
深い意味はなかった。ただ、いつものくせで言っただけ。
パールは、イーサンの声が聞こえてからもちろん沈黙を貫いていた。リオとイーサンの会話から、イーサンがこの部屋に入ってきたことは明白だったからだ。
だから、リオの不用意な挨拶に応じた彼の一言は、リオと同じく『いつものくせ』でつい口からこぼれ落ちたものだったに違いない。
「またね」
薬に浮かされているのか、どこかふわふわとした表情でパールが言った。
リオはパールの挨拶を聞いて、すぐにはことの重大さに気が付かなかった。涼しい顔でパールの部屋を出て、舞台袖に向かう、途中で、ざっと血の気が引いた。
「リオ坊っちゃま……」
イーサンが重苦しい声で呼び掛けた。リオは聞こえなかったふりをして、近くを歩くDen of FREAKSのスタッフを呼び止める。
「君、君」
「はい」
「出番のあと、マイクさんと話すことはできるかな。そう長く時間は取らせないから」
「お伝えしておきます」
「ありがとう」
リオは足早に舞台袖へと向かう。
何かを言いたげな様子のイーサンを無視して、舞台袖にしゃがむとボストンバッグの中をごそごそやり始める。普段とは異なるベストとズボンのポケットの位置や大きさ、数を確認し、ボストンバッグの中から適当なものを見つくろって仕込んでいく。
舞台袖のスタッフに親指を立てて準備ができたことを知らせると、間もなく舞台上のピエロがリオを呼び込んだ。
舞台に足を踏み出す直前、ちらりとイーサンを振り返る。すぐに後悔した。
——人魚はしゃべれないと、確かにそうおっしゃっていたではありませんか。
軽蔑したようなイーサンの瞳は、言葉にせずとも雄弁にリオを責めていた。