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 三度の乗り換えを経て、ようやく山梨県のK市に到着した。駅構内の時計は十五時前を指していた。
 北野には寝るなと言われていたが、最初の五分を除き、三十分、三十分、一時間二十分とそれぞれ長い乗車時間で、それは無理な話だった。暇つぶしのスマートフォンを彼に取り上げられているのだからなおさらだ。十分に睡眠をとった砂日は、K市に着く頃には元気いっぱいで「行こうぜー」とはりきって改札を出た。
「ちょっと待って。自転車組み立てるから」
「ええ? なんで。キャスター付けたんだろ?」
 どうせ徒歩の砂日と行くのだから自転車には乗れない。引いていくなら同じだろうと思ったのだが、北野は「百均のだから」と強情に首を横に振った。
「安定しないし、長距離移動には向かないんだよ。道のりは長いからさ。だって和歌山県まで行くんでしょ?」
 それを言われては受け入れるしかなかった。砂日は「へいへい」と左腕の先端で首をかく。
 駅前では邪魔になるからと、北野は駅からほど近いスーパーマーケットの裏手で工具を広げた。
「二十分ぐらいかかるから、寝てていいよ」
「スーパー見てきていい?」
「いいけど」北野が目をぱちくりさせる。「ここでは買わないよ。夜の値引きで買うから」
「うん」
 砂日は笑顔でスーパーマーケットの入り口へと向かった。

 ぐるりとスーパーマーケットを二周した。
 買い物かごを持った主婦は皆どこかで見たようで、もちろん誰も知らなかった。近所のスーパーマーケットと同じように、魚コーナーが小さいのが面白かった。
 スーパーマーケットを出て駅前を散策する。内科だの歯科だの近所でもよく見る病院は、それぞれ近所にあるものとはまったく違う名前が頭に付いている。路地裏に入ったところの弁当屋は地域に根ざしているようで、店先に立つ五、六十代の女性店員が、三人の同年代の女性客と何やら世間話に花を咲かせている。
 そのまま住宅街に向かいかけ、危ない危ない、ときびすを返した。
 一人の旅ではないし、捨て置いても構わない両親との旅でもない。砂日と和歌山県まで行って、あの素晴らしい崖からともに身を投げてくれる北野が待っている。
 スーパーマーケットの裏手に戻ると、自転車を組み立て終えた北野が誰かと通話していた。
 彼は砂日の姿を認めると、「友達にからかわれるからもう切るね。うん、はーい。また明日電話するから。じゃあね」と通話を切った。
「お母さん?」
「うん」
 話し振りからの予想が当たった。「ふーん」と会話を終わらせかけた砂日だが、ふっと疑問を抱く。
「お前のスマホはいいの?」
「うん?」
「なんだっけ、親に居場所バレるやつ」
「ああ、まあ、付いてるけどね」
 俺のは付いてないから大丈夫。てっきりそう返ってくるものだと思い込んでいた砂日は、彼の返答に仰天した。
「じゃあダメじゃん。あれだろ? 電源切っとかないとヤバいんだろ?」
「俺はいいんだよ。ていうか、切った方がヤバい」
「なんで」
「えっと、どう言えばいいのかな……」北野が手の中のスマートフォンをもてあそぶ。「なんていうの、俺は家出って形で出てきてないから。ちゃんと友達と旅行に行くって言って出てきたんだよ。で、うちの母親心配性だから、子供だけで旅行するなら絶対位置情報アプリ入れろって言われてさ。だから、電源切って居場所が追えなくなった方が、事件にでも巻き込まれたんじゃないかって捜索願とか出されかねないんだよ。自転車旅行って言ってたのに、自転車じゃない速度で移動したから今かなり言われたけどね。友達の親戚が山梨県にいるとかなんとか言って、まあ、一応はなんとかなったかな」
「大丈夫なんだな?」
 説明が長くてよく分からなかった。念を押すと、北野が「大丈夫、大丈夫」と笑う。
「ていうか、さっきホームですぐ電車来ちゃったからちゃんと聞けてなかったけど、きみは家出って形で出てきたんだよね?」
「うん」

 今朝。
 砂日の母親はパートへ行き、夜勤明けの父親は夫婦の寝室で寝ていた。
 涼しい季節は部屋の前に食事が置かれているのだが、夏だけは冷蔵庫まで取りに行かなくてはならない。母がいれば「メシ!」と呼べば持ってくる。しかし、先述の通り今はパートに行っていていない。
 仕方なくキッチンへ向かった。リビングの一角がカウンターで区切られており、その向こう側がキッチンだ。
 冷蔵庫を開ける。朝食のおにぎりと卵焼き、昼食の焼きそばを取り出すといっぺんに平らげた。今日は昼には家にいないからだ。
 リビングを漁る。
 あちらこちらをひっくり返し、ようやく引き出しから二千円の入ったチャック付きポリ袋を発見した。
 父親はその物音に気付いていたのかもしれないが、寝室から出てきて様子をうかがうようなことはしなかった。父も母も、なるべく砂日と鉢合わせないように生活をしているらしい。
 一度自分の部屋に戻り、書き置きをした。昔見たドラマか何かで、家出をする際には書き置きが必要だ、という知識があった。
 ばたん、ばたん、チョロロ、ジャー、ばたん、ばたん、と父がせわしなくトイレに行って戻る音がした。
 無事に書き置きが完成した。これで準備は万端だ。
 スマートフォンをパンツの尻ポケットに、二千円を前の右ポケットに押し込むと家を出た。鍵はかけなかった。どこにしまってあるのか知らないからだ。
 父は砂日が家を出る音を聞いたはずだが、あとを追ってはこなかった。

「バレないように出られた?」
「うーん」
 北野の問いに砂日は唸った。北野は「まあ、どっちみち一緒か」と気楽に言った。
「どうせ今日か明日にはバレるから。きみってご飯とか一緒に食べているの?」
「食ってない。置いてあるのを勝手に食うから」
「食べない日とかある?」
「ない」
 育ち盛りだ。運動せずとも腹は減る。
「じゃあ、きみの食事がなくなっていなければすぐに気付くね。書き置きとかはしたの?」
「したした」
 砂日は得意になった。
「なんて書いたの?」
「『全部お前らのせいだからな。追ってきたら一生許さない』」
「それ、大丈夫?」
 北野が呆れ笑いを浮かべた。砂日は「なんで。最強だろ」と首をかしげる。

 お前のせい、というのは砂日にとって最強のワードだった。
 もともとは母親の口癖だったのだ。砂日がワガママを言ったり暴れたりと両親を困らせるたび、彼女は泣きながら夫にこう言っていた。
 私のせいで、私があの子をちゃんとした体で産んであげられなかったせいで。
 生まれつき左手がないというのは、砂日にとってたいした問題ではなかった。ときどきちょっと不便だなぁ、ぐらいのものだ。ただ、あまりに彼女が繰り返すものだから、これは使えるぞと思ったのだ。
 初めて使ったきっかけはなんだっただろう。何かをして、彼女に叱られたのだと思う。きっと些細なことだった。
 どうしてこんなことをするのと問われ、「お前のせいだよ」と左腕の先端を振ってみせた。
 母は絶望した表情で黙りこくった。何度かそれを繰り返すと、彼女は砂日を叱らなくなった。

「大丈夫なら、それでいいけどさ」
 我が家の事情を知らない北野は、信用しきっていない表情でそう言った。
 彼はスマートフォンをバッグにしまうと、自転車に手をかける。電動車椅子が入っているとかいう大きなリュックサックは、横向きに倒されてサドルと荷台にぐるぐるとくくりつけられていた。
「そろそろ行こうか。日は長いけど、もう十六時過ぎだから。暗くなる前に寝床も見つけたいし。和歌山県は、大体あっちの方かな」
 北野が大雑把に指を差す。
 進行方向はあっちの方。詳細な道は未定。最終的なゴールは素晴らしい崖からのダイブ。寝床なんてものは、まあ、どこだっていいし、きっとすぐに見つかるだろう。
 ——何時から何時までくだもの狩りを予約していて、何時に餌やりタイムだからそれまでに牧場に到着しなければならない——そんな馬鹿げた予定はひとつもない。
 砂日は自然と笑みをこぼす。
 さあ、旅の始まりだ。