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 たたん、たたんと電車が揺れる。
 北野は先頭車両で操縦席のガラスに向かって立っていた。
 腰の高さにある金属製の手すりを両手でつかみ、体と手すりの間には大きなリュックサックと大きなゴミ袋がひとつずつ鎮座している。それらから伸びたビニール紐の端は、輪っかにして右の手首に通してある。余ったビニール紐は、遊びの部分がほとんどなくなるようギリギリまで手首に巻きつけてある。リュックサックとゴミ袋、もとい電動車椅子と自転車が、電車の揺れで思わぬ方向へ滑るのを防ぐためだ。
 ちらと振り返ると、スマートフォンを奪われて手持ち無沙汰の砂日が離れた座席で寝息を立てていた。「きみのスマホって見守り機能付いてる?」という北野の問いに「さあ?」と首をかしげるものだから、念には念を押して預かったのだ。彼は不満げだったが、「和歌山県に行きたいんでしょ? もし見守り機能が付いてたら居場所がきみの両親にバレバレで、あっという間に家に連れ戻されちゃうよ」と説明すると、渋々こちらにスマートフォンを渡した。
 今、砂日のスマートフォンは電源を落とした状態で北野のボディバッグの中にある。そのため、ぶぶ、とバッグの中で時折唸るバイブレーションは北野のスマートフォンからだ。母親か、ダイレクトメールだろう。母親ならば、いつも使っているLINEのトークがまるで既読にならないものだから、心配してショートメッセージでも送ってきているのだろう。
 バイブレーションが鳴るたび、なんだか呼吸が苦しくなる。
 北野はスマートフォンを確認しなかった。ただ、昼間のガラスにうっすらと映る己の姿を見るでもなく見る。

「和歌山県に行くには……、とにかく西に向かおうか。まず、そうだね、電車で山梨県に行こう。二千円出してくれる? 俺が切符買ってくるから」
 北野が手を出すと、砂日は「全部?」と眉をひそめた。
「電車賃、一人二三一〇円だよ」
「ああ、そう」
 彼がポケットから一八七〇円を出した。彼の飲んでいた缶ジュースは百三十円だったらしい。
 金を受け取り、切符売り場へと向かう。自転車とリュックサックは噴水のところに置いたままにした。
 旅に出る前。
 遠くないと聞いていた目的地が、自転車で行ける場所なら問題ない。だけど電車に乗るのであれば、リュックサックは自転車とともに駐輪場に捨て置く心づもりでいた。
 仮に自転車で行ける場所であっても、最終的に何十段もの階段をのぼらなければならないだとか、高いフェンスを乗り越えなければならないだとかいう場合には、リュックサックはいさぎよく諦める。せっかく苦労して駅前まで運んだリュックサックではあるが、実際問題、自転車という杖兼荷台なしに、義足の北野がこれほど大きくて重たいものを抱えて長距離を移動するのは不可能だ。初対面の《龍》に私物の運搬を手伝ってもらうのも忍びないため、非常に残念だがそうするほかない。
 しかし、傍若無人に振る舞う砂日を見るうち、北野はその控えめな考えを改めた。この駅と目的地の駅にエレベーターが付いているという前提のもと、比較的容易にリュックサックを運ぶ方法を思いついたということもある。
 リュックサックと、せっかくだから自転車も、思いきって山梨県まで持って行ってしまおう。
 切符を買い終えた北野は、砂日の待つ噴水ではなく駅の改札へと向かった。駅員に「あの、スミマセン」と声をかける。
「自転車を一台持ち込みたいんですけど、輸送袋を忘れちゃって。タイヤを外して、普通の大きいゴミ袋みたいなのに入れても大丈夫ですか?」
 あえてきょときょとと訊ねると、駅員は微笑ましそうに「大丈夫だよ。倒れないよう、車内ではきちんと支えていてね」と快諾してくれた。
 駅前の百円ショップで、九十リットルの七枚入りの黒いゴミ袋、ビニール紐、ひとつ二百円のキャスター付きの板を二つ購入し、ようやく噴水のところへ戻った。
 リュックサックの前ポケットから工具をみつくろう。重たい金槌や電動ドリルなんかはもちろん置いてきたが、ちょっとしたものなら大抵そろっている。リュックサックに工具を入れたのは、「この電動車椅子を持って行くのならば当然これもいるだろう」という無意識に近かった。砂日が興味深そうに工具を覗き込む。
「何すんの?」
「自転車、電車に乗せるから分解するね。ちょっと待ってて」
「分解? なんで? さっきは停めてくるって言ってたじゃん」
「和歌山県まで行くんでしょ? 長旅になるから持って行った方が便利だよ。お金も温存したいから、降りた先でレンタルするわけにもいかないし。なんならきみも家から自転車持ってくる?」
「持ってねーもん。乗れねーし」
 砂日がぶんぶんと左手の先端を振った。どこか小馬鹿にしたような表情だ。これでハンドルを握れるわけないだろ、とでも言いたいのだろう。北野は「あ、そう」と流しにかかる。もし俺がきみの体で生まれていたら、自転車を片手ブレーキに改造して乗りこなしていただろうね、などと厭味を言っても仕方がない。
 北野は工具を手に、人通りの少ないしょぼくれた花壇へと自転車を移動させた。さすがに混雑した噴水でがちゃがちゃと工具を振り回していると、誰かにとがめられそうだ。
 花壇のふちに腰かけ、自転車のタイヤを外していく。砂日は初めこそ面白そうに眺めていたが、ものの二、三分で飽きたらしく、スマートフォンに向き直る。
 北野は構わず分解を続ける。
 前輪と後輪を外し、百円ショップのペラペラの袋の強度を少しでも高めようと二重にして自転車を入れる。その袋をキャスター付きの板の上に乗せ、ビニール紐でぐるぐるとくくりつける。ビニール紐は、ハサミがないためニッパで切った。倒れないよう、慎重にキャスターを引いてガコガコと噴水の砂日のもとまで戻る。彼はスマートフォンをいじるのにも飽きてしまったようで、ふちに腰かけたまま器用に眠りこけていた。
 彼の隣に座り、もうひとつのキャスター付きの板を地面に置く。重たいリュックサックを座ったまま持ち上げて、どすんと板の上に下ろし、ビニール紐で固定する。完了すると、「砂日」と隣の彼を揺り起こす。腕時計を見ると、分解を始めてから三十分以上が経過していた。
「お待たせ。行こうか」
「ああ……はいはい」
 また彼が意味不明な切れ方をしてきたらどうしよう、と少し心配していたのだが、意外にも寝起きは良いらしい。砂日はぼんやりと従順に立ち上がり、階段へと向かいかける。慌てて「エレベーターで行こう。荷物があるから」と呼び止める。「はいはい」と砂日は首筋を左腕の先端でかき、北野の足元に目を落とす。
「何? その黒い袋」
「だから自転車だって。分解したの。こうすれば電車に乗せていいよって、駅員さんが言ってくれたから」
「へえ」とさした感動もなくあいづちを打ち、今度は巨大なリュックサックに指を向ける。「つうかお前、それ何が入ってんの?」
「電動車椅子」
 隠しても仕方がない。正直に答えると「ハァ?」と砂日が呆れ顔をした。
「いらねーだろ。義足あんだから」
「思い出の品なんだよ」
 自殺旅行にこの電動車椅子も連れて行こう、というのはほんの思いつきだった。
 疲れたときに乗るため、ではない。リュックサックに入りきらずやむなく駆動輪を置いてきた上、少しでも荷物を軽くしようとフットサポートも置いてきたため、乗ることはできない。ただ思い入れがあって、砂日から飛び降り自殺を提案された瞬間、こいつも一緒にぐちゃぐちゃになったらどうだろうと考えたのだ。想像してみると、それは素敵な光景だった。
 さほど興味はなかったのか、はたまた眠気が勝ったのか、砂日はそれ以上追求してこなかった。二人でエレベーターに乗り込む。改札には先ほどの駅員がいた。北野は笑顔で会釈する。
 駅のホームで、前述のやり取りを経て砂日からスマートフォンを預かった。
 電車に乗り込み、五、六分で一度目の乗り換えをした。
 乗り換えた直後、砂日は北野を置いてけぼりにして空席に駆け寄った。北野は立って大荷物を支えるのを手伝ってほしかったが、もとよりこれは自分の荷物だ。仕方ない。

 たたん、たたん。

 さて、どこまで行けるかな。
 和歌山県は無理だ。それは分かりきっていた。
 ひとまず、山梨県。
 中学校の入学式の数日後、砂日と同じ小学校出身の生徒から「砂日ってやつがいるんだけどさ。入学式に来ててビビったよ。そう、あの長髪で左手のないやつ。小二からずっと不登校で、お母さんに聞いたけど、フリースクールとかにも行かずにずーっと引きこもってるらしいって」と聞いた。砂日の体力は引きこもり生活の果てに低下しきっているはずで、ものを知らないから和歌山県に行くなどと馬鹿げたことを言っているが、山梨県に着いて少し歩いてみせればすぐにも現実に直面して音を上げるだろう。
 疲れた、もう嫌だ、やっぱり和歌山県なんか無理だったんだ。
 砂日が情けない泣き言を言いだして、それから?
 山梨県への切符を買ったのは、言わずと知れた自殺の名所、青木ヶ原樹海へのアクセスに優れているからだ。
 とはいえ、北野はその樹海にこだわりがあるわけではない。
 樹海で首を吊ったっていいし、電車に飛び込んだっていいし、鉄橋か何かから飛び降りたって構わない。
 なんでもいいのだ。死ねるなら。
 たたん、たたんと電車が揺れる。あと二駅で乗り換えだ。
 ちょっと待てよ、と眉間にしわを寄せる。
 振り返り、「砂日くん?」と少し声を張って名前を呼んだ。すっかり寝入った彼はぴくりとも動かない。電車が停まる。どやどやと人が乗り降りする。あと一駅。
「すみません」
 大荷物を引きながら、混雑した車内をよたよたと横切る。
「砂日くん——砂日くん」
 電車が揺れる。危うく転倒しかけ、とっさにつり革をつかんで持ちこたえる。
「砂日くん」
 人が多くてあと少しで辿りつかない。歯噛みしていると、砂日の斜め前に立った大学生ぐらいの男性がこちらを向いた。北野の視線を追って、これ? と彼の正面に座っている、中学生ぐらいの男子を指す。清潔で大人しそうな眼鏡の少年に、そっちの方がいいな、などと馬鹿げたことを考えるが、彼は北野と一緒に死んではくれないだろう。
「えっと、隣の」
 少年の右隣は女性。左隣が砂日だ。くん付けで呼んでいたことからか、男性は迷わず砂日に指を向け直す。これ?
「それです。それです。砂日くん、次で降りるよ」
「ねえ、きみ、降りるって」
 男性は親切にも砂日を揺り起こしてくれた。砂日が「え? ああ……」と眠たそうに目を開く。到着のアナウンスが流れ、電車が軋む。
「砂日くん、降りるからね」
 繰り返すと、とろとろと砂日が立ち上がった。
「ありがとうございました」
 北野は男性に礼を言った。男性は軽く片手を上げ、今まで砂日が座っていた席にさっと腰を下ろした。座りたいというのが動機だったようだが、とにもかくにも助かった。
「きみ、座るのはいいけど寝ないでよ」
 電車を降りてから砂日に注意した。聞いているのかいないのか、彼は「うん……」と眠たそうな返事をする。
 腹が立つ。いや、我慢しろ。
 どうせ、今晩か明日には終わる命なのだ。お互いに。