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「……和歌山県?」
 度肝を抜かれた顔で北野が聞いた。澄ました顔が混乱しているのが傑作で、砂日は「和歌山県」と得意になった。
「子供の頃行ってさ。すげぇ綺麗だったんだよ」

 砂日の両親は旅行が好きだった。国内ばかりではあったが、砂日が物心つく前からあちらこちらに連れて行ってくれた。
 砂日も旅行は好きだった。だが、彼らとはてんで趣味が合わなかった。
 事前にこまかく決めたスケジュール通りに進行する旅路。順路に沿って歩き続ける。展示された絵画や作品、飼育されている動物、手入れの行き届いた植物を眺める。インストラクターの指導のもと、プログラムされたレクリエーションやアクティビティをこなす。みやげ物が並んだ、観光客しか訪れないような売店。
 つまらない。
 せっかくの見知らぬ土地、ただあてもなく歩くのが一番楽しいのに。
 大自然の中の散策は、まるでファンタジーの世界に迷い込んだかのようで心が踊る。街育ちの砂日には馴染みのない田舎道も、タイムスリップをしたかのようで面白い。それなら見知らぬ街はどうかというと、これも好きだ。大自然がファンタジー、田舎がタイムスリップ、と来れば見知らぬ街はSFの平行世界といったところか。
 どこかで見たような路地、どこかで見たような曲がり角、なのにどう歩いたって自宅には辿りつけない不可思議さが最高だ。道行く人はみな知り合いかのように平凡なのに、よくよく見ればその顔にひとつも覚えはない。地元では一度も見たことのない名前のスーパーマーケットやホームセンターが、ここでは我が物顔であちらこちらに鎮座しているのも面白い。
 両親との退屈な旅行の最中さなか、砂日はいつだって『旅』を満喫するために脱走を試みた。
 ねえ、どうしてすぐにどこかへ行っちゃうの。危ないし、心配だから、一人でどこかへ行っちゃ駄目っていつも言ってるよね……。
 母親は目にいっぱい涙を溜めて、交番の警察官や施設のスタッフなどに行く手を阻まれた砂日の肩を、優しくつかんでは訴えた。しゃがんで目線を合わせながら繰り返されたそれは、説教というより懇願だった。
 砂日は決まってそれを聞き流した。しょうこりもなく退屈な旅行ばかりを企てる彼らに、俺のしたい旅を語ったところで分かるはずもない、という蔑みがあった。もしかすると両親は、砂日が旅行を嫌いなのだと誤解していたかもしれない。
 もちろん砂日が不登校になってからは、一度もどこへも行っていない。壁越しのリビングで両親が旅行の計画を立てているのは何度も聞いたが、それらが実行されることはついぞなかった。
 旅に飢えた砂日は、何度か勝手に家を抜け出して近所を探検した。しかし、退屈ですぐにやめた。あいにく砂日は方向音痴ではない。でたらめに歩いたつもりでも道のりはすっかり頭にインプットされてしまい、容易に帰り道が分かるのだ。
 砂日が『旅』を楽しむためには、スタート地点として見知らぬ土地にポンと放り出されることが何よりも大切だった。

 和歌山県に行ったのは、砂日が五歳のときだ。山にキャンプをしに行ったのだ。
 炭で焼いた肉はうまかった。だが、こんなに広大な自然があふれている中、何組もの家族とひとつどころに集まって同じことをしている、という状況に次第に耐えられなくなった。
 森の中を歩きたいと言えば叶っただろう。しかし、心配性の両親にぴったりと付き添われながら、整備された遊歩道を歩きたいわけではもちろんなかった。
「オシッコ」
 そう言って砂日は一人で茂みに向かった。
「トイレなら向こうだよ」
 父親が困惑した表情でキャンプ場の一角を指す。
「やだ。暗いし、汚ねーもん」
「でも、そのへんでしたらダメだよ。お父さんが一緒に行ってあげるから……」
 砂日は父親を無視して茂みをかき分けた。背後から両親のため息が聞こえる。
「あんまり遠くに行っちゃダメだよ」
 砂日を止めることは諦めたのだろう、母親が心配そうに注意した。次いで父親が「俺、ついていくよ」とトングを置く。「そうしてあげて」と母親の声。それをかき消すように砂日は「いいって! 来んなよ!」と怒鳴り声を上げた。びくりと両親が動きを止める。
 砂日はどんどん茂みを分け入っていく。両親がはらはらとこちらを注視しているのが気配で分かる。七十メートルほども進み、背の高い草の向こう側に立つと、もと来た道を振り返る。草に隠れて両親の姿は見えない。
 胸が弾んだ。
 大きく息を吸い込むと、再び二人に背を向けて走り出す。ザッザッザッとスニーカーが砂利混じりの土を蹴り上げる音。一瞬の間を置いて「たつ!」「たっちゃん!」と二人の悲鳴が聞こえる。ドタドタと追いかけてくる重たい足音。トロくさいあいつらに捕まってたまるかと、砂日はゴム毬が跳ねるかのように夢中で駆ける。でこぼこの道に足を取られる感覚が面白い。
「あっ」
 どれだけ走っただろうか。とうとう木の根に足がかかってつんのめった。ざしゃあっとそのまま地面に転倒する。
「ハァッハァッハァッ」
 荒い呼吸を繰り返しながら、無意識にごろりと体を仰向けにする。ざらざらと背中に広がる粗暴な地面の感触が気持ちいい。視界の半分を、大きく手を広げたオレンジの樹木が、もう半分をぱっと開けた青空が埋めている。その鮮やかながらも穏やかなコントラストに無心で見入る。
 ようやく呼吸が整い始めた頃、水の流れる音に気が付いた。せせらぎというにはもう少し激しい。
 体を起こす。見れば、ほんの三、四メートル先に切り立った崖があった。
 端まで歩いて行き、そろりと下を覗き込む。崖から下はほとんど直角に落ち込み、ごつごつとした岩があちらこちらからせり出している。最奥にはどうどうと流れる激しい川。川を挟んで、向かいにまた山。あちらも崖になっていて、山に茂る樹木と岩肌をむき出した崖のギャップに頭がクラクラする。
「たつー」
「たっちゃーん」
「怒らないから、出ておいでー」
 ダイナミックでスリリングな光景に没頭していた砂日は、両親の声ではっと我に返った。
 この素晴らしい風景を、退屈な両親に見せてしまうのはもったいない。
 背に腹は変えられない。ここが見つかるぐらいならばと、足音を殺して声のする方向へ歩いていく。すぐに彼らと合流した。
「たつ! 血だらけじゃないか!」
 父親に指摘され、自分の体を見下ろした。なるほど、虫刺されを心配して着せられた長袖長ズボンのあちらこちらに赤い血がにじんでいる。
「たっちゃん、心配したんだよ。どこに行ってたの?」
「別に」
 父親におぶわれながら母親に訊ねられ、砂日はぷいと顔を背けた。

 あれから九年。
 ☆にメールで《方法はどうしようか。どうやって死にたい?》と聞かれ、真っ先にあの崖からの光景が思い浮かんだ。
《飛び降り自殺がいい。最高の場所があるから》
《じゃあそうしよう》
 こだわりがないらしい☆は、一も二もなく同意した。

「きみ、遠くないって言わなかった?」
 隣の北野が声を尖らせた。
「言ったよ。すぐ着いたもん。五歳のときだから、正確な時間は覚えてねーけど」
「きみ、そのとき寝てなかった?」
 言われてみればそうかもしれない。なにしろ五歳のときなのだ。
「寝てたかも」
 素直に認めると、北野が厭味ったらしいため息をついた。砂日はむっとする。
 北野がポケットからスマートフォンを取り出し、なにやら画面を操作する。
「ここから和歌山県の県庁所在地まで、新幹線を使っても五時間ぐらいかかるよ。運賃は一人一万五六三〇円。二人で三万以上」
「ええ? そんなかかんの?」
 驚愕の声を上げた砂日に、北野が被せるように言う。
「場所変えない?」
「やだよ。あそこがいい」
 負けじと即答した。
 一世一代の自殺なのだ。絶対に妥協はできない。
「いいって言っても、行けないよ」
 うんざりしたように北野が言った。砂日は「決めつけんなよ」とちょっと声を張る。
「やってみなきゃ分かんねーじゃん。どうにかしたら行けるかもしれないし」
「きみ、今いくら持ってる?」
「二千円」
 電車に乗るには金がいるだろうと、家を出る前にリビングの引き出しを漁って手に入れた二千円だ。
「一万円」
 北野が己の胸に手を当てた。「お前、一万円も持ってんの?」と驚いた砂日に、北野は「も、じゃない。しか、だよ」と言い返す。
「合わせて一万二千円。素直に割ろうか。一人六千円。どうにかしたら行ける? どうしたら? 行けるわけないじゃん、絶対に。第一、山ってどこの山だか知らないけどさ、本当に電車だけで行けるところなの? 車がないと行けないんじゃないの。俺たち中学生なんだから車なんて、」
「うるっせぇなぁ!」
 ああ、言われてみれば、駅から山への道のりは父親の運転するレンタカーだったな。
 頭の片隅でそう思いながら、砂日は無意識に怒号を発していた。ごちゃごちゃとほざく北野に苛立ちはつのっていたが、その怒号は感情の吐露というよりも、北野を黙らせるためのものだった。
 ごめん、ごめんね。怒らせるつもりはないんだよ。たっちゃんの、たつの好きにしたらいいからね。ごめんね、ごめんなさい。
 危険なことこそすがるように止められたが、それ以外の大抵のことに関して、両親は砂日の怒号ひとつで怯えたように言いなりになった。それと同等の効果を期待したのだが、北野は存外冷めた瞳でじっと砂日を見返した。
 にわかに北野がリュックサックを下ろして立ち上がる。彼はぐるりと周囲に視線を巡らせる。
「ごめんなさい。なんでもないんです。ちょっとケンカしちゃって、もう大丈夫なんで」
 見れば、駅前を往来する人々の多くが足を止めてこちらに注目していた。
 彼らは北野の落ちついた謝罪を受け、一人、また一人と興味を失ったように去っていく。北野は座り直し、砂日の腿の間に置かれていたファストフードの紙袋を自分のもとへと移動させる。紙袋からまだ中身が残っていたらしいコーヒーを取り出すと、素知らぬ顔で口を付ける。
 やがてこちらを見ている人間が誰もいなくなった頃、北野はズズッとコーヒーの最後の一口をすすった。それから砂日を見上げる。
「和歌山県だね。いいよ。行こうか」
 砂日は当惑した。
 ことは自分の望み通りに進んでいる。北野はやかましい理屈を引っ込め、旅の目的地は和歌山県に決定した。
 なんら不満はない。
 ただ、北野が何を考えているのか分からないのが不気味だ。
 恐怖で砂日に従った、ようにはとても見えない。それならなぜ、彼は突然和歌山県行きに賛成したのか?
 北野が空になったコーヒーの容器を紙袋に戻し、微笑を浮かべて砂日に手招きをした。砂日は素直に耳を寄せる。注意しないととても聞き取れないほど低い声で、北野が囁く。
「一人で死ぬのは怖い」
 バッと耳を離す。呆然と北野を見つめる。彼は薄い微笑を浮かべたままだ。
 死のうと思った。死ぬにはパートナーがいると思った。どうして? どうしてもだ。パートナーはいる。その理由をうまく説明することはできないけれど、それはもう、絶対に当たり前のことなのだ。
 言われてみれば、彼の言う通り。
 一人で死ぬのは、少し怖いようだ。