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 北野は《龍》、改め砂日に自殺の予定地を聞いてすぐにも出発するつもりでいた。
 しかし、彼が気味の悪いものでも見る目でこちらを凝視するばかりで話にならないため、やむなく「見ていて」とリュックサックと自転車を託すと、駅前のファストフード店で朝限定のハンバーガーとドリンクのセットを二つテイクアウトして戻った。
 遠目で改めて砂日を見る。彼はまるで異常者だ。
 ドクロマークと支離滅裂な英字が長々とプリントされた真っ赤なTシャツ。それに七分丈のベージュのチノパンと、どこのブランドだよというマジックテープのスニーカーを合わせるセンスが意味不明。ボサボサの黒髪は肩を超えて伸び散らかり、邪魔ではないのか、顔の半分を覆う長さの前髪の隙間からは不気味な三白眼がギョロついている。
 埼玉県○○市△△区在住、メールの文面からしておそらく同年代、《左手がない》。
 最後の特徴が《龍》から届いた瞬間、よもやと思って「砂日くん?」と浮かんだ名前を噴水の連中に投げかけた。
 噴水には一人だけ長髪の男がいて、思い返せば入学式でちらと見た砂日も長髪だった。しかし、入学式の彼は制服のブレザーを着ていたせいかもう少しましに見えていた。まさかあの異常者ではないはずだ。不登校で引きこもりの砂日がこんなところにいるはずもなく、北野の呼びかけにはきっと誰も応じない。そりゃあそうだよな、いくら世間は狭いといえど、匿名のチャットアプリでたまたま同級生に巡り会うだなんて奇跡はそう起こらないよなと、噴水を一周して『左手のない初対面の男』を探す。
 そんな筋書きを思い描いていたのだが、真っ赤なTシャツの異常者は即座に振り返った。
 冗談だろ?
 俺の自殺の相方、これ?
 いや、いや、贅沢は言えない。
 ネットで知り合った自殺志願者。どんな猟奇的な変態が来たっておかしくはなかった。となると、風貌は異常だが同じ学校の同級生、短気で幼稚そうではあるが変態趣味はなさそう、これはかなりのアタリだろう。
「はい」
 北野は砂日の隣に腰を下ろすと、ハンバーガーの包みを差し出した。
「あ、聞いてなかったけどアレルギーとかない?」
 砂日はその質問を無視して、胡乱うろんげな目つきのままハンバーガーの包みを受け取る。
「コーラかアイスコーヒーか」
 お好きな方をどうぞ、とばかりに二つを並べて差し出しながら、北野はコーヒーを飲みたかった。砂日の隣に置かれていた炭酸ジュースの缶から予想した通り、彼は迷わずコーラを取った。
 砂日がコーラにストローを刺して飲む。続いてガサガサとハンバーガーの包みを開ける。北野も包みを開けながら「でも、よかったぁ」と意図的に明るい声を出す。
「ネットの人と会うわけじゃん。どんな人が来るか、実はちょっと不安だったんだよね。知ってる人でよかったぁ」
「……俺は知らないし」
 ようやく砂日が口をきいた。北野は「あ、そう」と肩をすくめる。
「それにしたって、そんな顔しなくてもよくない? もともと知らない人と会うつもりで来たわけでしょ? そんな、警戒心むき出しっていうか……。きみって人見知り?」
「お前、マジで自殺したいの?」
 きわめて普通の声量で問うた砂日に、北野は驚いて周囲をうかがった。
 夏休みの初日。平和な活気に満ちた人々は、幸い誰もこちらを気にしていない。
「したいよ」
「全っ然、見えねぇんだけど」
 ああ、それでそんなに猜疑に満ちた目つきをしていたのか。
 ようやく彼の態度に合点が行き、「したいよ」と繰り返す。
「いろいろあるんだって、俺も」
「だから見えねぇって」
「見えなくてもあるんだよ。きみもそうでしょ? きみと一緒で、俺もあるから」
 メールのやりとりの中で、砂日は自殺の動機をおくびにも出さなかった。すなわち話したくないのだろう。きみが言わないなら俺も言わない、という道理が通るはずだと期待したのだが、意外にも彼は「俺は、別に」と無頓着に語り出す。
「学校サボりすぎて、戻り方が分かんなくなったっつーか。毎日寝て起きて飯食ってゲームして、もうしょうがねーし、生きてても」
 砂日が口を尖らせる。
「でも、お前は違うじゃん。なんかめちゃくちゃ充実してそうじゃん。何不自由ないっつーか」
「不自由はあるよ」
「たとえば?」
「たとえば、きみと似てるけど」
 北野は己のテーパードパンツの両膝をつまんで持ち上げた。露出した北野の足元を、砂日が不審そうに覗き込む。北野の義足は装飾用のていを成していない。裾から五センチほど覗いたアルミ製のチューブを見て、砂日があんぐりと口を開ける。
「ね? 見えなくても、いろいろあるから」
 予期せぬものを見せられた衝撃、および、彼の場合は自身と同じ身体欠損者への仲間意識。このどちらか、あるいは両方でなあなあに丸め込めるのではないか、という作戦だった。
 北野の義足にすっかり動転したらしい砂日は、一度は呑まれたように頷きを返した。
『俺にもいろいろあるってわかってくれた? それじゃあ、そろそろ出発しようか』
 安心してそう言いかけた北野だったが、「あ!」という砂日の大声にさえぎられる。
「北野! 北野星! 俺、お前知ってるよ! 北野って、なーんか聞いたことあると思ってたんだよ!」
「砂日くん、声、声。外だから」
 小学校低学年までの小さな子供ならいざ知らず、どう頑張ったってその年齢には見えない上、ただでさえおかしな風貌の砂日が周囲をはばからない大声を出したものだから、まわりの目が一斉にこちらを向いた。北野は立てた人差し指を己の唇に当て、静かに、というジェスチャーをする。砂日が声のトーンを戻して「お母さんがさ、お父さんにしょっちゅう言ってた」と続けた。注意を聞き入れたというわけではなく、ただ自然にそうなったという調子だったが、大声をやめてくれたのならばそれでいい。彼の声量が正常になったおかげで、一度集まった視線はすぐにそれぞれの生活へと戻っていく。
「学校に義足のすごい子がいるんだって。ベタ褒めだったぜ」
「あ、そう? ありがとう」
「でも、じゃあ、やっぱ嘘じゃん。死にたいなんて」
 話が戻った。
 勘弁してくれよ、と北野は頭を抱えたくなる。
 とはいえだ。一体砂日の母親がどのように北野のことを語っていたのかは知らないが、客観的に見て、北野の学校生活が「死にたい」とは相反するものだということも事実だ。
 一年二年とクラスの学級委員。成績は常に学年で五番以内。毎年五月に行われる体育祭では健常者の生徒と変わらないほど多くの競技に出場し、今年はクラス全員リレーのアンカーまでやった。昨秋の校内合唱コンクールでは指揮者をつとめ、今年も推薦されたため快諾した。部活動には所属していないが、学外でのボランティア活動に尽力し、母親に同行する形で障害者の交流会やシンポジウムなどにも多く参加している。授業態度、生活態度も良好で教師からの評価は上々。そして、クラスの中心的グループに属している。
 自殺する理由がない。そう思われても仕方がない。
 しかしだ。
「いじめられてるんだよ」
 いじめられてる、と声に出すのはこれが生まれて初めてだった。耐えがたいほどの屈辱とぐちゃぐちゃに崩壊した自尊心に、ひとりでに口が歪む。北野の告白にか、はたまた表情にか、砂日が困惑の色を見せる。
「で、行くの? 行かないの?」
 これ以上この話題を掘り下げられると泣いてしまいそうで、砂日からの追求が飛ぶ前に話を根本のところに戻した。砂日がハッと我に返り、「行くよ」とハンバーガーの最後の一かけらを口に放り込む。
「電車乗るから、切符買いにいこうぜ」
「オッケー。じゃあ自転車停めてくるから、きみはこれ捨ててきて」
 北野はとっくにハンバーガーを完食した上で、その包み紙をきちんとたたんでファストフード店の紙袋に入れていた。まだ三分の一ほど中身が残っているコーヒーも紙袋に入れて、砂日に渡す。リュックサックを背負い、自転車に体重を預けながら立ち上がる。歩いて駐輪場へと向かいかけ、そうそう、と振り返る。
「で、結局どこなの? 目的地は」
「ああ、そう。あのな……」
 砂日がぱっと目を輝かせて北野を手招いた。普通に言ってくれればいいのに、と呆れるが、やり合うのも面倒で彼の隣に座り直す。立ち止まった状態かつたいした荷物がなければ、北野の義足は中腰になることも可能だ。しかし重たいリュックサックを背負った状態でとなると、不可能といってもいいほど難易度が跳ね上がる。
 砂日が右手を添えて北野の耳元に口を寄せる。
「和歌山県の、山なんだけど」
 うわあ、いいね、最高じゃん。すぐに行こうよ。
 喉のところまで用意していた台詞を、しかし北野は引っ込めた。
 和歌山県?
 悪い冗談か、と砂日の表情をうかがう。残念ながら、にこにこと満面の笑みで北野の視線を受け止めた砂日からは、悪ふざけをしている様子など微塵も感じられない。
 北野たちが住んでいる埼玉県は関東地方。
 和歌山県は、近畿地方だ。