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22

 今日の昼過ぎ、温泉施設を出て車に戻った北野は、奇妙な臭いに鼻をひくつかせた。
 ひとつはすえた臭い。これは、入湯前の北野と砂日の体臭が車内に残っていたのだろう。窓を開けて走っていれば、きっとじきに薄まる。
 もうひとつは、何かもたついたような、妙に鼻腔にまとわりつく変な臭い。
 何の臭いだ?
 思案して、間もなく思い至る。
 これはユウの死臭ではないか?
 当たり前だが、この十四年間、北野は死臭を嗅いだことなどない。死体は一度母方の祖父の葬式で見たが、適切な処理をされていたため臭いはなかった。
 インターネットで、死臭はひどい臭いだ、という情報を見たことがある。ただしそれは死後数日後の話で、死んだ直後は不思議と甘ったるいにおいがするのだという情報も。
 北野はホームセンターで、厚手の黒いゴミ袋と無香料の消臭ビーズの詰め替え用、塩分タブレットや眠気覚ましのガムなどを購入した。
 車に戻って早速バックドアを開けかけ、いや、無造作に開けるとユウの上に積み重ねた自転車のパーツが雪崩を起こしかねないな、と思いとどまる。
 運転席側の後部座席のスライドドアから入ると、ユウの上から自転車のパーツをどかしていく。どかしたパーツの置き場に困り、砂日に声をかけて、マックスまで倒された助手席側のリクライニングをいくらか起こしてもらった。砂日はむにゃむにゃと寝ぼけまなこで従い、また寝入った。
 だだっ広いホームセンターの駐車場は半分も埋まっていない。店の入り口はもちろん、駐車場の入り口からも遠い不便な位置に停めた二人の車の周辺に人気はなかった。
 北野は、あらわになったユウの死体入りのビニール袋を不思議なほど無頓着に見た。ビニール袋の中にはいくらかの液体が溜まっている。
 もっと何か、激しい感情が湧き起こってもおかしくはないはずだ。しかし、この物体の異臭対策をしなければならないな、以上の気持ちは生じない。
 砂日の無頓着が移ったのかもしれない。
 ユウの死後間もなくから、砂日はそれに対して「ただの重たい大きな荷物」を見る目しか向けていなかった。ともすれば、彼は荷室に自分が殺した死体があることすらもう忘れかけているかもしれない。
 北野はバックドアを開けずに、後部座席から作業をすることにした。シートを前方に倒した、助手席側の後部座席から作業をするのが一番やりやすそうだ。適当に荷物を寄せて己のスペースを作り、移動する。
 もともとが薄っぺらい上に地面を引きずられ、ところどころが伸びきった百円ショップのビニール袋の上から、先ほど購入した厚手のビニール袋を被せていく。消臭ビーズをざらざらと入れ、上半身と下半身を覆うビニール袋の境目をガムテープで止める。その作業を何度か繰り返す。
 厚手のビニール袋を六重にしたあたりで、まだビニール袋の余分はあったが、そろそろいいだろうと作業を終えた。これでどれほどの消臭効果が望めるのかは不明だが、やらないよりはましだと思いたい。
 ホームセンターのトイレで手を洗う。自動販売機でスポーツドリンクを二本購入すると、そろそろ出発しよう、と砂日を起こした。

 その晩は、サービスエリアの駐車場で寝ることになった。
 突然、砂日が車を出たため驚いた。聞けば、彼は外で寝るのだと言う。
 妙な話なのだが、隣に砂日がいないとなると、荷室の死体が急に気味悪く感じられた。ただの物体として認識していたそれが、にわかにじっとりと厭らしい人間味を帯び始めたのだ。
 こんなところで寝ていられるか、と北野は外で寝る用意を始めた。財布と鍵とスマートフォンをボディバッグにしまい、素肌に装着する。不埒なものが盗みを働くには、北野のTシャツをめくり上げる必要がある。そんなリスクはそう冒さないだろうし、万一めくり上げられればすぐに飛び起きる自信があった。リスク分散として、三万円とETCカードを助手席の前の収納スペースに入れておく。
 レジャーシート代わりの黒いビニール袋を手に、砂日のもとへと向かった。
 空を眺めて、砂日に自身の名前の話をした。
 この発想が初めて浮かんだのは、小学三年生か四年生の頃だ。
 人に話したのは初めてだった。
 俺はきっと、砂日に甘えているのだ。くだらないことを言って、困らせて、楽しんでいる。
 会話に満足して、そろそろ寝ようかとぼんやりしていると、砂日に名前を叫ばれて飛び上がった。何事かと思えば、彼は北野が昔テレビに出ていたのを見たと言う。
「十五分番組の特集でさ、そんなにたいしたやつじゃないから」
「でも、すげーって。だって俺はテレビに出たことないもん」砂日はすっかり興奮している。「お前、メカ得意なの?」
「得意ってほどじゃないよ。手先を動かすのは好きだけど」
「でもさ、なんだっけ? 確か、なんかのコンテストでグループでいい賞取って、お前一人が特集組まれたわけじゃん。お前がすげーってことじゃねーの?」
 きらきらと目を輝かせる砂日に、北野は曖昧な笑みを浮かべる。

 物心つく前から、北野は工作が好きだったように思う。幼稚園の頃、落ち葉や石を使った工作の時間など、すっかり没頭していた。
 本格的に興味が湧いたきっかけは、小学校入学前に両親に買ってもらった学習机かもしれない。大小さまざまなパーツを広げて奮闘する父を見て、母は「だから、組み立てサービスのオプションを付けた方がいいって言ったじゃない!」と怒っていたが、当の父は「分かってないな。自分で組み立てるからいいんだよ」とにやりと笑って反論した。北野は断然父に賛成で、「星は危ないから離れていなさい」と言う母を振り切り、「俺も手伝う!」と腕まくりをして参加した。大きな学習机が完成する頃には汗だくで、ぐったりとしながらも、えも言われぬ達成感で妙にすがすがしかったのを今でも覚えている。
 その日以来、工作キットを始め、牛乳パックや段ボール、厚紙なんかでいろいろなものを作った。小学二年生の秋、北野の誕生日に「まだ危ないわ」と心配する母を押し切って、父が工具セットをプレゼントしてくれた。それからは、釘などを使った木工の工作にも精を出した。
 星は手先が器用だからこういうのも楽しめるんじゃないか、と父が北野をロボットコンテストに連れて行ってくれたのは、小学三年生のときだ。
 北野の参加したロボットコンテストは、初対面の同年代の子供たちと三、四人のグループを作り、ともに一体のロボットを作り上げるというものだった。ロボットに関して北野はまったくの初心者だったが、グループの中には低学年の頃から参加している知識の豊富な子もいたし、先生も丁寧に教えてくれるため、なんら困ることはなかった。
 順位でいえば、六グループ中五位という結果に終わったのだが、悔しさよりも「面白かった」という満足感の方が大きかった。北野が「来年も参加したい」と言うと、父は嬉しそうに笑った。
 三年生のうちにもうひとつロボットコンテストに参加して、四年生でも二つのロボットコンテストに参加した。
 その頃には、北野はよく一人で模型屋やホームセンターに行くようになっていた。
 それから、両親には内緒にしていたのだが(初めて遊びに行ったときは正直に話したのだが、母親に「あんまりガラの悪い子と付き合わないで」と叱られたため、二度目以降は内緒で行った)、ロボットコンテストで知り合った、二つ隣の市に住んでいる同い年の子の家が自動車整備工場をしていたため、そこにもたびたび遊びに行った。
 五年生になって参加したロボットコンテストで、北野のグループは一位こそ逃したものの、審査員から「アイデアは一番」という評をもらった。
 帰宅するため父親と駐車場へ向かう途中、大人の男性から声をかけられた。
 その男性には見覚えがあった。ロボットコンテストの最中、各グループを撮影するテレビ局のカメラの後ろで何やら指示を出していた人物だ。
 男性は名刺を差し出した。ディレクターと書いてある。彼は、夢に向かってチャレンジしている子供を放映する十五分番組に、北野のことを取り上げたいと言った。
 北野と父親は顔を見合わせ、同時に満面の笑みを浮かべた。「いいよね?」と父親に確認する。父は「もちろん」と頷くと、「よろしくお願いします」と男性に自分の会社の名刺を差し出した。
 その場で日取りを決め、四日後に北野の家にテレビ局の取材が来た。
 両親は彼らを応接間に通したがっていたが、彼らの希望で、北野の部屋でインタビューをすることになった。自室を映した方が子供の人間像が見えていいのだと言う。
 北野はわくわくしていた。
 ロボットコンテストで知り合ったみんなとは、SNSで繋がっている。一位になったグループは、ロボットコンテストが終わったその場で一人ずつインタビューを受けたと言っていた。しかし、北野のように後日に個別の取材を依頼されたものは、他にいないようだった。
 一体何がディレクターの目に留まったのだろう?
 審査員に「一番」と褒められたアイデアは、北野が出したものではなかった。それから、北野のグループでもっとも活躍していたのは、北野は同学年の賢二けんじだと感じた。賢二はプログラミングの知識とセンスがずば抜けていた。北野もベストを尽くしたものの、取り立ててピックアップされるような場面はなかったように思う。
 だが、選ばれたということは『何か』があったのだ。自分では気が付けない、ディレクターの目を引く光る何かが、俺にはあった。
 何を質問されるのだろう?
 いつからもの作りが好きなのか、これまでどんなコンテストに参加したか、好きな作業は、これまでに作った一番お気に入りのものは、将来はどんな職に就きたいか?
 ドキドキと身構える北野に、ディレクターがマイクを持って近付いた。製作費を抑えるためか、彼はこの番組ではレポーターも兼任しているようだ。
「その足は、生まれつき?」
「えっ?」
 開口一番そう問われ、北野は困惑した。「ああ、ごめんね」とディレクターが顔の前で手を振る。
「失礼だったかな。そういうつもりじゃなくって……。そういうつもりじゃないんだよ。誤解しないで。もっとポジティブな……。そう、きみは素晴らしいよ。ハンディを負っていても前向きにチャレンジする姿に、僕は感動したんだ。そう……、えっと……、その義足カッコいいね」
「どうも」
 取りつくろうようにべらべらと上っ面だけの言葉を並べたディレクターに、北野は白けた作り笑いを返した。
 つまりは、こうだ。
 ロボットコンテストの模様を撮影するうち、ディレクターは北野に目をつけた。今回のコンテストで、もっとも個人の放映に適した人物はこいつだ、と判断したのだ。といって、北野のテクニックやアイデアにそそられたわけではない。ただ、北野の両のハーフパンツから伸びる義足に注目したのだ。
 侮辱されている、と感じた。
 なぜ他の子供たちと同じように趣味に興じただけで、俺は感動されなくてはならないのか。
 真面目に受け答えをするのがすっかり嫌になった。
 とはいえ、動機は失礼だが、せっかく大人たちが時間を作って北野の家まで取材に来てくれたのだ。両親も、北野の部屋に誇らしげな顔を廊下から突っ込んで、様子を見守ってくれている。
 無礼な態度を取りはしなかった。ただ、道徳の授業で称賛されるような、薄っぺらい優等生じみた返答に終始しただけだ。
 ディレクターも両親も、非常に満足そうだった。
 当たり前だが、ディレクターからの質問のほとんどは、もの作りに関することではなく、北野の障害に関することだった。終盤で、おまけのように「今まで作ったものの中で一番の自信作は?」と質問された。北野は学習机の隣に置いていた電動車椅子を振り返りかけて、やめた。これは彼らが北野に求めている成果物ではない。
「えっと、そうですね。まだ自信作っていうのはないんですけど、しいて言うならこの前のロボコンで作ったロボットかな。これからも、もっといろいろなものに挑戦してみたいです」
 後日放映されたテレビ番組は「バリアフリーやユニバーサルデザインなど、誰もが生活しやすい未来をみんなで作っていこう。生まれつきハンディを持った星くんは、自身の経験を生かしてこれから素晴らしい福祉ロボットを作っていくのだろう」とのナレーションで締めくくられていた。
 バリアフリー、ユニバーサルデザイン、大いに結構、ありがたい。しかし、北野は福祉ロボットを作る気などさらさらないのだ。
 それ以来、北野はロボットコンテストに参加するのをやめた。
 ロボットコンテストでできた友達と繋がるためのSNSへの投稿は激減し、数ヶ月後にはアカウントを消した。
 両親は、ぱったりともの作りから距離を置いた北野のことを心配した。北野は、最近はボランティアの方が楽しくなっただけだよ、と嘘をついた。

 せっかく砂日と名前の話をして機嫌が良くなっていたのに、嫌な思い出が蘇ったせいで反吐が出そうだ。
「あの車椅子、さぁ。俺が持ってきたやつ」
 この責任は記憶を思い起こす糸口になった彼に取ってもらおう、と口火を切った。ああ。俺はまた砂日に甘えようとしている。
「うん」
 そんなことを知るよしもない砂日は、まったくの丸腰であいづちを打った。つい先日まであんなに嫌だった、彼の警戒心のないところがすっかり好きだ。
「あれ、電動車椅子なんだけど、実は俺が改造したんだ」
「え!」砂日が目を見開く。「ロケットランチャー出る?」
 百点満点だ。「出ない、出ない」と北野は笑う。
「ロケットランチャーは出ないけどね、時速が四十キロ出るんだ」
「それって速いの?」
 思わぬ茶茶を入れられて、おや、と思った。しかしよく考えてみると、カーレースゲームを好む砂日にとって、時速四十キロはたいした速度ではないだろう。「速いよ」と教えてやる。
「普通の電動車椅子って、時速六キロがマックスだから」
「ええ? じゃあめちゃめちゃ速いじゃん!」
「めちゃめちゃ速いよ。公道走ったら捕まると思う」
「カッケー」と砂日が視線を宙に投げる。
 会話が終わった。またも北野は満たされた。
 公道を走れない時速四十キロの電動車椅子を一体なんのために作ったのか、などという退屈な質問を彼はしない。だって、分かりきったことじゃないか。北野が時速四十キロの電動車椅子を作った理由はただひとつ、「速いとカッコいい」、それだけだ。
 しばらくすると、隣から砂日の寝息が聞こえてきた。
 北野は彼ほど寝つきが良くない。
 睡魔の訪れをぼうっと待つうち、ロボットコンテストでできた友達はいいやつらばかりだったな、ということに今更ながら思い至る。

 当時一番仲が良かったのは、翔真しょうまという同い年の少年だ。
 翔真は北野の二つ隣の市に住んでおり、彼の家は自動車整備工場をしていた。
 翔真とは、四年生の七月に開催されたロボットコンテストで仲良くなった。翔真はプログラミングは苦手だが、ロボットをいじる手際がとんでもなくよかった。「上手だね」と北野が驚いていると、彼は「俺の父ちゃん、車の整備しててさ。休みの日とか俺も一緒にやってるから」と照れくさそうに鼻を擦った。
「車? 車って、本物の車? きみが車を整備してるの?」
「そうだよ。給料くれてもいいんじゃねぇの、ってぐらいコキ使われてる」
 同い年の少年が車の整備をしている。北野は翔真を尊敬の眼差しで見た。
 ロボットコンテストの二週間後に、電車で翔真の家まで遊びに行った。二時間ほど、作業をしている翔真の父親を飽きずに眺めた。
 時折、翔真が父に呼ばれて手伝いをした。一度、翔真が「やってみる?」と北野に工具を差し出したが、父親に「遊びじゃないんだぞ。お客さんからお金をもらってやっていることなんだから」と叱られて「はぁい」と唇を尖らせていた。
 翔真は「ケチだよな」と北野に耳打ちした。北野は、彼の父親の言うことは正論だと思ったため「そうかな」と返した。
 当たり前に『仕事』に参加している翔真はすごい、と改めて感じた。
 二つ隣の市、というのは小学生にとってかなりの距離だ。
 それでも、少なくとも月に一度は翔真と遊んだ。彼が北野の街に来ておしゃべりをすることも稀にあったが、ほとんど北野が彼の家に行った。それは北野の希望を汲んでのことだ。車の整備を間近で見るのは面白かった。
 翔真の父親は、気難しい顔をした体格のいい男性だった。愛想のいい方ではない。「お邪魔します」と北野が頭を下げても、こちらを見もせずに「おー」と言うだけだ。作業に集中しているらしいときは、その簡単な返事すらもなかった。
 翔真と知り合って、半年が経過した頃だ。
 いつもと同じように「お邪魔します」と頭を下げると、翔真の父が「お前、よく来るなぁ」とニカッと歯を見せて笑った。
 北野は驚いた。それから嬉しくなった。
「面白いか? そんなにしょっちゅう来てさ。代わり映えしないだろ」
「面白いです」
 即答すると、翔真の父は「ああ、そう」とくすぐったそうに笑った。
 その日以降も、翔真の父に車の整備を手伝わせてもらったことはない。北野はそれが不満ではなかった。当たり前だ、と思う。
 その日、翔真の父は普段とは異なる作業をしていた。
 北野は車に詳しくない。いつもだって、何をしているのかきちんと理解はできていない。
 ただ、明らかに様子が違ったのだ。
 普段の彼は、慣れた手つきでさまざまな作業を進めていく。時折考え込むように静止するが、長くはない。
 しかしその日ばかりは、少し手を動かしては止まり、難しい顔で何度も唸っていた。手伝いに翔真を呼ぶこともなかった。
 作業中に声をかけると邪魔になりそうで、北野は翔真の父が休憩に入るタイミングを待ってそばに寄った。
「今日は何をしているんですか?」
 お邪魔します、お邪魔しました、以外の言葉を自分から翔真の父にかけるのは初めてだった。それまで「あれは何をしているの?」という質問は、ひそひそ声で翔真にしていた。翔真の父は迫力があって、無口で、少し怖かったのだ。
 だけど、今日は歓迎してくれた。それで北野は勇気を出してみたのだ。
 翔真の父は「リミッターカットだよ」と答えた。
「リミッターカット?」
 翔真の父は少し黙って、「時速って分かるか?」と訊ねた。
「はい」
 時速は算数で習った。翔真の父は「時速って、制限があるよな」と続ける。
「何キロ以上出したら警察に捕まるぞ、という決まりがあるんだ。それより速いスピードも出せるけど、ある一定のスピード以上は出ない。出す必要がないし、マシンにも負荷がかかるからリミッターが付いてるんだ」翔真の父が先ほどまでいじっていたバイクを指す。「そのリミッターを解除して、マシンの限界までスピードを出せるようにする作業をしてた」
「そんなことできるんですか?」
「あんまりやらない。お得意さんだけ」
「でも、できるんだ」
「一応は、できる。リミッターの構造は車種によって違うから、難しいのもある。俺は専門じゃないしな。こいつはちょっとややこしい」
 翔真の父が眉間にしわを刻む。北野は、少し迷ったのちに聞いてみる。
「あの、そのリミッターカットっていうやつ、バイク以外にもできるんですか?」
 予想外の質問だったらしく、翔真の父がちょっと目を丸くした。翔真も、どういう意図の質問か、といった面持ちで首をかしげている。
「バイクでも、車でも、原付でもできるよ」
「電動車椅子は?」
「電動車椅子?」
 翔真の父がますます目を丸くする。北野は「電動車椅子です」と繰り返す。
「俺の家にあるんですけど、もうずっと使っていなくて。でも、そのリミッターカットっていうやつができたら楽しそう」
「最高じゃん! 爆速車椅子」
 翔真が手を叩いた。北野は「でしょ」と笑う。翔真の父が困り顔で唸り出す。
「うーん、でも、高価なものだし……。ずっと使ってないって言っても、たまには使うんだろ? 下手に改造したら、最悪動かなくなるぞ」
「いいんです。本当に使っていないから、壊れたらそれはそれで」
「そうは言ってもなぁ……。お前が知らないだけで、実は案外使っているかもしれないし」
「それはないです。僕のだから」
「え?」
 翔真の父が頓狂な声を上げた。北野は自身のパンツの膝をつまみ上げ、裾から義足を露出させる。北野の義足は装飾用の体を成していない。機械的な見た目のままの方が格好いいから、北野の希望でそうなった。
「俺、今は義足ですけど、低学年までは車椅子だったんです。ずっと手漕ぎで……、二年の誕生日プレゼントに、簡易式の、普通の車椅子に後付けできる電動ユニットを買ってもらったんですけど、あんまり使わなくて」
 そのプレゼントは北野がリクエストしたものではなかった。リクエストの誕生日プレゼント——工具セット——をもらった上で、追加でくれたのだ。
 もらったその日は嬉しかった。だが、数日後には電動と手動を切り替えるレバーは手動に固定された。
 電動での走行は面白いが、体力を消費しない。動きたい盛りである小学二年生の北野にとって、電動車椅子は運動への欲求不満がつのるばかりで、それほど便利なものではなかったのだ。
 小学三年生になり、義足で歩く練習を始めた。歩けるようになるうち、いよいよ車椅子の出番は少なくなった。
 四年生の六月に、車椅子は北野の部屋のウォークインクローゼットにしまわれた。北野の家の玄関は、車椅子を出しっぱなしにしておけるように広く作られていた。車椅子のない玄関をいやにガランと感じたのもほんの数日で、じきに見慣れた。
 翔真の父は、北野が義足であることにこのとき初めて気が付いたようだった。夏と秋の初めはハーフパンツで整備を見学していたのだが、彼はそこから伸びる義足にまったく注意を払っていなかったらしい。
 彼はしばらく目を白黒させたのち、気を取り直して「じゃあ、ご両親がいいって言ったらいいよ。ただし動かなくなっても責任は取らないからな」と言った。
 その晩、北野は翔真にメッセージを送った。
 両親が電動車椅子を改造してもいいと言ったこと。そして、非常に申し訳ないのだけれど、翔真の父の車で、北野の家まで電動車椅子を取りに来てもらえないか、というお願い。
 十五分後に翔真から「オッケー」の返事が来た。
 北野は小躍りしたい気持ちを抑え、自室で静かに上半身を弾ませた。
 改造の許可は、無論出ていない。両親にその話をしてすらいない。
 翔真の父に車椅子を取りに来てもらう日取りを決めた。北野の父親が出張中で、母親がコーラスのレッスンに行くタイミングを指定した。
 当日、北野は約束の時刻の少し前から、キッチンの小窓を開けて張りついていた。ここからなら玄関がよく見える。
 しばらくすると、玄関の前に車が停まった。降りてきた翔真に「いらっしゃい! チャイム押さなくていいよ。すぐに出るから」と声をかける。
 チャイムを押されると、映像の履歴がインターホンに残ってしまう。履歴を消すこともできるが、消してから母親の帰宅までに誰もインターホンを押さなかった場合『空白の一件』が生まれてしまう。
 早歩きで玄関に向かい、ドアを開ける。電動車椅子はすでにウォークインクローゼットから玄関に移動させてあった。
「こんにちは。ご両親は?」
 翔真の父がきょろきょろと室内を見回す。北野は「父は出張です。母は、ついさっき買い物に行っちゃって」と嘘をついた。翔真の父が見定めるように北野を見る。北野はちょっとまごつく。
 ふぅ、と翔真の父が芝居じみたため息をついた。
「男の子だねぇ。あとで叱られても知らないぜ」
 北野は全身からどっと汗が噴き出すのを感じた。
 嘘がばれたのだ。両親の許可が下りていないとなれば、車椅子の改造の話もおじゃんだ。
 がっくりと肩を落としたが、信じられないことに翔真の父はそれ以上何もとがめず「じゃあ、預かるな」と北野の電動車椅子に手をかけた。「いいんですか?」と質問しかけた北野だったが、下手に確認をして「やっぱり駄目だ」と拒絶されたらかなわない。ただ「ありがとうございます。お願いします」と頭を下げた。
 その二週間後、翔真から連絡が来た。まだリミッターは全然外せていないけれど、近いうちに遊びに来られないかという内容だった。北野は塾にボランティアに交流会にとそれなりに忙しい毎日を送っていたが、翔真に提案された三つの日付のうちひとつは朝から空いていたため、その日に遊びに行くことにした。
 整備工場に到着すると、翔真の父と翔真、隅で作業をしている一人の従業員、そして見知らぬ長髪の男がいた。四十代半ばぐらいだろうか。
「こんにちは」
 北野が挨拶すると、長髪の男は「おっす」と片手を上げた。前歯が一本ない。奥に見える歯も、多くが黒や銀の色をしている。翔真の父は、その男を「これ、俺の友達」と紹介した。
「ハマちゃん、見た目は怪しいけどリミッターカットの腕はピカイチだから」
「怪しいってなんだよ」
 ハマちゃんと呼ばれた男が翔真の父を小突いた。
 北野はハマちゃんと整備工場の隅に移動した。そこには北野の電動車椅子、黒くすすけた工具箱、なんだかよく分からないパーツがたくさん入った汚いリュックサックが置かれていた。
 改造の主導はもちろんハマちゃんだったが、彼は北野にもたくさん作業をさせてくれた。彼の呼び名に困って「ハマさん」と呼ぶと、「ハマさんってなんだよ。ハマちゃんでいいよ、ハマちゃんで」と笑われた。
 北野は手先が器用な方だが、機械いじりの知識や経験は決して豊富ではない。何をしろと命じられているのか、自分は今一体何をどうするための作業をしているのか、ほとんど分からないながらも一生懸命取り組んだ。十五分に一度は「そうじゃねぇよ、バカ」とハマちゃんに小突かれたが、彼は最後まで匙を投げなかった。ハマちゃんは面倒見がいい。
 翔真の父は、整備工場の別の場所で自分の作業をしていた。時折こちらの作業を覗きに来ては「おいおい、そんなことしたら危ないんじゃないか」と眉毛を片方上げた。
「いいんだよ。速い方がテンション上がるだろ?」
 ハマちゃんに訊ねられ、北野は「はい」と即答した。翔真の父が「怪我だけさせるなよ」と呆れたように言い、また自分の作業に戻る。
 翔真は、北野の作業を見に来たり、父親の手伝いをしたり、母親にどやされて片隅で宿題を始めたりとちょろちょろしていた。
 昼食は、翔真の母親がもやしと豚肉がたっぷり入った焼きそばを作って整備工場まで持ってきてくれた。
 作業は朝の九時から始まり、夕方にようやく終わった。途中電動車椅子は何度も動かなくなったが、そのたびにハマちゃんが汚い言葉で毒付きながらも試行錯誤し、解決してくれた。
「乗ってみろよ」
 ハマちゃんが電動車椅子を指した。
 試運転はすでにしていた。電動車椅子を丸椅子の上に逆さに置いてジョイスティックを倒すと、ものすごいスピードでタイヤが回り始めたのだ。
 翔真の父に「あたりにぶつけるなよ」と注意され、一同は整備工場の外に出た。割合広い駐車場には、隅に数台の車が停まっているだけで、客は一人もいない。
 間違っても車に当たらない場所まで移動して、北野は電動車椅子に乗り込んだ。
「おーっし、来いよ」
 六、七十メートル先でハマちゃんが両手を上げる。中間地点では翔真がスマートフォンのカメラを北野に向けている。振り返れば、翔真の父が北野を見て頷いた。
 意を決して、電動車椅子のジョイスティックをわずかに前方に倒す。緩やかな加速。とはいえ本来のマックス速度、時速六キロよりはスピードが出ている。そのままジョイスティックを限界まで倒す。
「うわ!」
 びゅん、と体が加速して思わず声を上げた。
 冬の風が顔と手指に突き刺さる。耳がちぎれそうだ。寒い。だけど、気持ちいい。
 気付くとハマちゃんが目前に迫っていた。我に返ってジョイスティックを立てる。急ブレーキ。体が投げ出される感覚。すべてがスローモーションになる。一メートル前方、そこから三、四十センチほど右にずれた場所に立っていたハマちゃんが、色を失って北野に突進してくる。
「あぁっ、ぶね!」
 ざしゃあっ、とタイヤとコンクリートの擦れる音がした。
 宙に浮いた北野は、ハマちゃんのタバコ臭い胸に顔を押し付け、座面に戻った。時間の感覚が元通りになる。呆然とハマちゃんを見上げる。彼は北野の前に立って車椅子のアームサポートをつかんでいる。ごつん、と彼の拳骨が北野の脳天に落とされた。
「そっと止まれよ、バカ!」
 拳骨を落とされる、という生まれて初めての経験に脳がぐわんと揺れながらも、北野は「ごめんなさい」と謝罪する。続いて、ハマちゃんが親指を立てるとニッと笑った。
「でも、大成功じゃん。時速四十キロは出てんじゃねぇの」
 後ろから翔真とその父が駆け寄ってくる。大丈夫か、やったじゃん、と口々に声をかけられる。北野はぽーっと高揚した頭で「ありがとう」「ハマちゃんのおかげだよ」と答える。灯った街灯にふっと目が留まり、「ヤバイ!」と叫んだ。
「ヤバイ、ヤバイよ。今何時?」
 北野はスマートフォンを持った翔真に訊ねた。翔真がスマートフォンを見て「五時二十分!」と答える。
「ヤバイって。門限五時だよ。お母さんに電話して……」
 自身のミニリュックを取りに戻るため、早歩きで整備工場へと向かう。そのわきを翔真がパタタとすり抜け、あっという間に整備工場に到着すると、北野のミニリュックを手に駆け戻ってきた。「ありがとう!」と受け取る。
「五時二十分なら、ついさっき電車が出たところじゃないか?」
 翔真の父が駅の方角を見ながら言った。このあたりは快速電車が停まらないため、電車の本数が少ない。ハマちゃんが「俺が送るか?」と提案してくれる。
「お前の車だとこいつの車椅子が乗らないだろ」
 翔真の父が呆れ顔をした。北野は首を横に振る。
「今お母さんが家にいるから、持って帰ったらヤバイですよ。こんなの持ってどこで何してたのって聞かれちゃう」
「ひとまず乗れよ、星」ハマちゃんが急かす。
「ありがとうございます! すみません、電動車椅子、なるべく早く取りに来ます!」
「取りに来るって、また俺が届けるんだろ?」
 翔真の父がコミカルに肩をすくめた。
「あっ、ほんとだ。お手数おかけします! すみません!」
「別にいいけどよ」
 北野は何度も頭を下げながら、ハマちゃんの車の助手席に乗り込んだ。
 友達の親などに乗せてもらう際は、指定されない限り後部座席に座る。しかし、ハマちゃんの車は運転席と助手席の二シートしかなかった。車内は酔いそうなほどに芳香剤が香っている。走り出すと、バリバリと耳をつんざく音がした。乗り込むと同時に母親に電話をかけていた北野は目を剥く。まずい、と思う間もなく母親が電話に出る。
「もしもしっ? 星? どこにいるの?」
「ごめん、午前中は自習室で勉強しててさ、昼から友達の家に遊びに行ったんだけど、本を読んでたら時計を見るのを忘れてて。今から帰るよ」
「え? 何? 聞こえないわ! あなた、これなんの音?」
「ごめん、暴走族が走っててさ! とにかく、今から帰るから! 心配しないで!」
 叫んで、通話を切った。
 改めて着信の履歴を見ると、十七時と十七時八分、十七時十五分に母親から着信があった。
 一息つく。そういえば、と慌ててシートベルトを締める。びゅんびゅんと窓の外を景色が流れていく。ハマちゃんの車は、少しの隙をついて次々と前を走る車を抜かす。
「ハマちゃん、これスピード大丈夫?」
「心配すんなよ。このへんネズミ捕りいないから」
「ネズミ捕り?」
「で? お前んち、どっち?」
「あ、○○市です」
 ひとまず大通りを目指していたらしいハマちゃんは、ようやく判明した目的地に「オッケ」と頷いた。
「とりあえずそっち方面に行くわ。細かい道案内は、その都度言って」
「はい」
 ネズミ捕りの意味が分からない。まあいいか、とシートに体を沈み込ませる。一日中頭と指先を酷使したため、さすがに疲れた。
 ハマちゃんの運転する車は、あっという間に北野の自宅周辺に到着した。北野の父親の運転の三倍は速かっただろう。
 自宅の真ん前にこれほど派手でやかましい車を停められると問題になりそうで、少し離れた人気のないところで降ろしてもらった。
「ハマちゃん、今日は本当にありがとう。助かったよ」
「おう」
 ハマちゃんは歯を見せて笑った。北野が助手席のドアを閉めると、車は余韻もなくバリバリと走り去った。
 なるべく早足で自宅へと向かう。母親が、玄関の小窓からこちらを睨んで待ち構えていた。家の前まで送ってもらわなくてよかった、と北野は胸を撫でおろす。
「もう! 心配したのよ!」
 母親が茶碗にご飯をよそいながらぷりぷりする。
「ごめんごめん。友達の家でさ、読書に熱中しちゃって」
 北野は洗面所で手洗いとうがいをしながら答えた。
 食卓につく。今日のメインは鮭の竜田揚げだ。
「あなた、何か油臭くない?」
 北野の正面に座った母親が鼻にしわを寄せた。
 一日中整備工場にいたため、オイルの臭いが染みついたのかもしれない。北野はぎくりとしながらも「ええ?」と空とぼける。
「油なんか触ってないよ。揚げ物の匂いじゃない?」
「そうかしら……」
「そうだよ」北野は鮭の竜田揚げを口に放り込む。「おいしい」
「よかった。あなた最近よく食べるから、お母さん作り甲斐があるわ」
 母親が微笑んだ。北野はこのまま話が流れてくれることを期待したが、彼女は「それにしても」と再び目を尖らせる。
「本当に心配したのよ。門限を過ぎても帰ってこないから……」
「ごめんって。本が面白くってさ」
「そんなこと言って! 本当はゲームでもしていたんじゃないの? ゲームは一日一時間! おうちだけじゃないわよ。お友達のところで一時間したら、おうちではなしよ」
「分かってるよ」
 ゲームどころか!
 北野はほくそ笑んだ。

 その三週間後に、両親が不在の隙をついて翔真の父に電動車椅子を届けてもらった。「そこらへんで走るなよ」と彼は注意した。「危ないからな」と。
 北野はその言いつけを守った。
 家人が不在のときに電動車椅子を逆さにして空回しをすることはあったが、乗って走行したのは整備工場の駐車場の一度きりだ。バッテリーは正規のもののままなため、五分も空回しをすると充電切れで止まった。実用性のないところが、馬鹿らしくてかえって好きだった。
 あいかわらず、翔真とは月に一度は遊んだ。一番仲が良かったのは翔真だが、他にもロボットコンテストでできた友達はたくさんいた。何ヶ月かに一度遊んだり、直接会うことはなくともSNSでやりとりをしたりしていた。友達の中には、暇さえあれば機械いじりやプログラミングや工作をしているものが多く、彼らのSNSは見ていて飽きなかった。塾にボランティアに交流会にと駆け回りながら、隙間時間に何かを作る北野は相当ライトでイレギュラだった。
 先述の通り『テレビ番組事件』があってから、北野はロボットコンテストの知り合いと繋がるためのSNSから距離を置き、最終的にアカウントを消した。変わらずいきいきともの作りに熱中する彼らを見るのは、眩しくて辛かったのだ。
 翔真とはLINEでも繋がっていたため、「どうした? 大丈夫?」と心配の連絡が来た。既読にすらせず放置していると、それきり途絶えた。
 みんなが好きなものを作れば微笑ましく見られる。しかし俺が同じことをすれば、「感動した」と言われるのだ。馬鹿馬鹿しい。やっていられない。
 今思えば、あのときの俺は一人で拗ねていただけだ。
「感動した」などと見下すような発言をしたのは、くだんのディレクターただ一人ではないか。
 ロボットコンテストでできた友達の中で、北野の障害に頓着しているものなんて一人もいなかった。
 彼らは、何を思いつくか、何を作るか、という点で人間を評価していた。性格の合う合わないはあるが、外見に関してはまったくどうでもいいようだった。三年生の初めに参加したロボットコンテストなど、まだ義足でまともに歩けなかったため車椅子で出場したのだが、誰もなんにも気にしていなかったじゃないか。義足に言及されることはたびたびあったが、それは「かっこいい」「どういう構造なの?」というメカに対する興味でしかなかった。
 今日、温泉で己をかえりみながら「俺はずっと、砂日のように障害に頓着しない友達が欲しかったのだ」と思った。
 あの頃、俺にはたくさんいたではないか。
 よく考えろ。
 小学三年生の、義足を使い始めるきっかけとなった会話をしていたクラスメイトだって、目撃したのは二人だけだ。
 学校の友達にも、塾の友達にも、ボランティアの友達にも、どこにだって、北野を『障害者』ではなく『北野星』として見てくれた人は、たくさんいたのではないか。ただ『北野星』に優しくしてくれただけなのに、「俺が障害者だから優しくしているのだ」などとねじ曲げた解釈をして、一人でふて腐れていただけなのではないか。
 勝手に壁を作って一線を引いて、過剰に気を張って心の殻に閉じこもって。
 時間を巻き戻したい。
 どこまで戻ればやり直せる?
 考えたところで、タイムマシンはない。
 車にはユウの死体がある。
 進むしかない。