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19

 暑さで目が覚めた。
 北野は腕時計を見る。七時二十三分。流れで腹の上のスマートフォンを手に取り、用もなくスリープを解除する。なんだか手への収まりが悪い。こんな画面だったかな、と寝ぼけまなこで首をかしげる。ほどなく思い出した。
 これはユウのスマートフォンだ。

 昨晩。
 公園を出発してすぐ、北野はあることに気が付いて大慌てで自分のスマートフォンの電源を落とした。北野の位置情報と移動した道のりは、位置情報共有アプリを通じて母親に知らされる。北野が突然自動車の速度で移動してしまうと、彼女は不審に思うだろうし、弁明が大変だ。
 とはいえ、位置情報が追えなくなり、連絡もつかないとなると、パニックにおちいった彼女が捜索願を出しかねない。幸いその日の彼女への電話は公園でユウを待つ間に済ませておいたため、ただちに捜索願を出されることはないだろうが、なるべく早く対処しておきたい。
 どうする? 位置情報共有アプリを削除して、母親に「なんだか知らないけど使えなくなった」とでも連絡するか?
 あまりに白々しい。すぐに嘘だと見抜かれるだろうし、そんな嘘をつくということは何かやましいことがあるのかと余計に疑われてしまう。
 位置情報共有アプリがインストールされているかどうか分からない、という砂日のスマートフォンを一か八かで起動し、彼のスマートフォンから北野の母親に「スマホが壊れちゃって、今友達のスマホからかけてるんだけど」と連絡するか?
 上手くいけばいいが、万が一位置情報共有アプリがインストールされていて、現在地が砂日の両親に通知されるとまずい。五日間失踪した息子の突如現れた手がかりに、彼らはすぐにも車を出して駆けつけようとするだろう。電話が終わった直後に電源を切ったとしても、砂日の家から現在向かっている道の駅までは車を飛ばせば三時間程度。砂日の運転は危なっかしく、とりあえずの目的地に設定した静岡県の道の駅に今日中に無事到着できるかどうかも怪しい。電話を切ってほどなくの地点で、なんらかのトラブルが起きてやむなく運転を中止し、そこらで仮眠を取っているところを砂日の両親に追いつかれて見つかってしまう、という可能性もなきにしもあらずだ。せっかく車を入手してここまで来たのだから、そんな危ない橋は渡りたくない。
 とすれば、ユウのスマートフォンか。
 北野は足元に転がしていたユウのショルダーバッグを拾い、中を探った。
 すぐにスマートフォンを見つける。もちろんロックがかかっている。適当なパターンをなぞってみる。外れ。もう一度。外れ。
 数回間違えると、PINコードの入力を求められる。ショルダーバッグからユウの財布を探り出し、運転免許証を出して彼の誕生日を入力する。外れ。生まれ年。外れ。
 諦めて、ユウの財布を自身のボディバッグに移し、ひとまずスマートフォンの電源を落とす。北野はこのメーカーのスマートフォンを使ったことがない。しかし往々にしてスマートフォンというものは、再起動してすぐになんらかのボタンを同時に押せば強制初期化が可能なものだ。スマートフォンのボタンなどそうたくさんもない。何度目かの挑戦で成功する。
 このかん、北野は砂日のずさんすぎる運転に何度も注意の声を飛ばしていた。
 無事に初期化が完了し、初期設定を進めていく。
 そんな折、砂日が突然運転を放棄したのだ。
 愕然としたが、道のど真ん中で放棄されたものだから、とにもかくにも一刻も早くこの場を移動しなければならない。なだめすかしにも失敗し、もうこうするほかない、と砂日に運転の交代を申し出た。
 北野は両の腿から下が義足だ。
 大腿を動かせば、車のペダルを踏むことは可能だ。しかし加減が難しいし、知らぬ間に振動でペダルから足が外れていたとしても、「ペダルを踏んでいるのになぜか一向に反応しない」という最悪の事態におちいるまでそのことに気が付けない。気が付いたところで、健常者のように足裏の感覚だけで素早くペダルに足を乗せ直す、といった芸当はできない。前方から目を離し、足元をじっくりと覗き込んでペダルに足を乗せ直す必要がある。夜ならばなおのこと、足元をライトで照らす手間もかかるのだ。あまりに危険すぎる。
 苦肉の策として、ブレーキのペダルを左足、ブレーキのバーを左足首、アクセルのペダルを右足、アクセルのバーを右足首にビニール紐で固定した。これならば、よほどのことがない限りペダルから足が外れることはない。
 もちろんそうしたところで、これで一安心、とは到底思えなかった。当たり前だが、そもそも北野は免許を持っていないのだ。カーレースゲームもほとんどしたことがない。運転自体が恐怖なのだ。
 最初の目的地、静岡県の道の駅まであと一時間の道のりを運転する勇気はとてもなかった。カーナビで周辺を検索し、現在地から十五分ほどの場所にある山梨県の道の駅を見つけ、そちらを新しい目的地に設定した。
 運転しながら、生きた心地がしなかった。どうにかこうにか山梨県の道の駅に到着する頃には、緊張からの肩こりによる頭痛がひどく、太腿は今にもつらんばかりに疲弊しきっていた。
 砂日は自動販売機のアイスを二つ平らげると、車に戻った。北野はベンチに座り、ユウのスマートフォンの初期設定を完了させてから母親に電話をかけた。彼女の電話番号は暗記している。
「車道に落として、拾おうとしたら車に踏まれちゃったんだよね。今友達のスマホからかけてて」
「あら!」母親が高い声を出す。「大変じゃない。大丈夫だった? 怪我は?」
「怪我はないよ。でもスマホがさ」
「いいわよスマホぐらい、また買ってあげるから。あなたが帰るまでに買い換えておきましょうか。今使っているメーカーの新しいものでいい?」
「別に、なんでもいいけどさ」北野は苦笑する。「もう切るね? 友達に悪いから」
「あ、待って、お友達のお名前は? お母様にお礼とお詫びをしなくっちゃ」
「いい、いい。俺が帰ってから一緒に行こう」
「でも……」
「ほら、もう、電話代まずいから、バイバイ! おやすみ! また明日ね!」
 おやすみ、の返事を聞くとすぐに切った。北野は車に戻る。
 砂日は運転席でリクライニングを少しだけ倒してすでに寝ていた。後部座席のリュックサックと自転車が邪魔で、あまり深くは倒せないのだ。
 北野は助手席に座り、座席を一番前まで滑らせた。助手席から降り、後部座席に乗り込む。
 リュックサックから工具を取り出し、自転車をざっくりと分解して荷室のユウの死体の上へと積んでいく。自転車のバスケットでくったりとしているエコバッグを見て、初日の大学生の集団を思い出す。ここ数日、玉姫のメッセージを見もしていなかった。
 今更どうしようもない。
 北野にちょっとした好意を抱いてくれたらしい彼女のことは嫌いではなかったが、母親に徒歩ではない速度で移動したことが発覚するリスクを冒してまで、彼女と連絡を取りたいわけではなかった。
 自転車の分解が終わった。ついでにリュックサックから電動車椅子のパーツをいくつか出し、後部座席と荷室に散らしてかさを減らす。
 助手席に戻る。施錠して、いや違う、と寝ている砂日の上に身を乗り出し、運転席側のドアをロックする。がちゃん、とすべてのドアがロックされる音。
 助手席に座り直し、義足を外す。ラスト二枚のデオドラントシートで大腿とライナーをぬぐい、汗疹の薬を塗る。もぞもぞとした痒さはまだあるが、気が狂いそうなほどの痛痒さはいつの間にか治まっていた。リクライニングを倒せるだけ倒す。
 目と鼻の先にはユウの死体がある。とても寝られたものではない状況だ。
 それでも、目をつむってすぐに北野は熟睡した。
 きっと、隣に砂日がいるせいだ。
 砂日は自分勝手で、北野を困らせてばかりで、道路の真ん中で運転を放棄するといった非常識なことを平然としでかす、頭のおかしな人間だ。
 だけど、助けてくれた。
 ユウを殺して、北野を助けて、金と車を手に入れてくれた。
 これまでずっと、北野は砂日のことを足手まといでしかないと感じていた。彼の人間性には問題がありすぎる。
 それでも、それを補って余りあるほど、彼の振りおろしたキリは偉大だった。

 朝の日差しの中、義足を履いて車を出る。
 しっかりと睡眠を取ったすがすがしい頭で、トイレの鏡に映った自分を見て笑ってしまう。ホームレスのように汚い。
 こんななりで、よくも平気でファストフード店やファミリーレストランに入るどころか居座ったなと、昨日の店員、および居合わせた客に今更ながら申し訳なさを感じる。
 おかしかったのだ。ここ数日の俺は、おかしかった。
 自動販売機でスポーツドリンクを二本買って車に戻ると、砂日が起きていた。彼は左手の先端でぼりぼりと頭をかいている。その刺激で、べたっとしたフケがいくつも彼の肩に落ちる。北野の頭だってそう変わらない状態だ。別段顔をしかめることもなく、「おはよ」とスポーツドリンクを差し出す。彼は「はよ……」と受け取った。
「あっつぅ……」
「ここの売店、九時まで開かないからさ。食堂は十時半」自動ドアに書かれていた情報を伝える。「出発して、コンビニかどっかで朝ごはん買おうか」
「今何時?」
「七時半」
「オッケ……」
 砂日がエンジンスタートボタンに手を伸ばす。「トイレは?」と促すと「おー……」と車から降りた。
「行ってくる……」
「はーい」
 手を振って、スマートフォンに目を落とす。マップアプリを起動。
 コンビニは、国道沿いを走っていればどこかしらにあるだろう。ファストファッションの店名を検索する。この不潔さで服屋に入るのははばかられるが、どうしても着替えが欲しいのだ。
 コンビニで朝食を買って、ファストファッションの店で適当な服を手早く購入し、温泉か銭湯に行こう。温泉か銭湯は少し大きめの、レンタルできる入浴用車椅子シャワーキャリーが置いてあるところがいい。
 思い立って、検索欄に『和歌山県』と打ち込む。現在地からの経路を表示。
「何笑ってんの?」
 トイレから帰った砂日がいぶかしげに聞いた。北野は彼に画面を見せる。
「六時間だって」
「何が?」
「ぶっ続けで運転すればだけどね。でも、余裕見ても明日明後日には着くよ、和歌山県」
 最後の単語を聞いて、砂日がちょっと目を見開いた。すぐに「近いな」とにんまり細める。
「きみのおかげだよ。きみが車ゲットしてくれたから」
「車くれるやつ呼んだのはお前じゃん。まあ、ちょっとアレなやつだったけど」
 二人は笑顔で顔を見合わせ、なんとはなしに拳をぶつけ合う。
 嬉しかった。
 自殺の地への到着が現実味を帯びたことが、北野には胸が苦しくなるほど幸福だった。