13
中学一年生の夏休みが終わり、文化祭まで二週間を切った。夏休みに入る前に行われたホームルームで、北野は文化祭の合唱で指揮者をすることに決定していた。栗本たちに推薦されたのだ。
次の授業は移動教室だ。
「行こうぜ」
前の席の渡辺が立ち上がって北野を振り返った。六月の終わりに席替えが行われていた。
「うん」
北野は理科の教科書とノート、資料集を机から出して立ち上がった。栗本たちは依然として北野と行動をともにしていた。夏休みも何度か彼らに誘われて遊びに行った。
北野の中学校は校舎が二棟あり、一年生の教室と理科室は棟が異なった。
五人は渡り廊下を歩いて別棟へ移る。理科室は三階だ。たらたらと歩くものだから、そのとき北野たちの集団は移動するクラスメイトの中で最後尾に位置していた。
五人で行動しながら、あいかわらず会話はほとんど四人で行われていた。
彼らはまるで自然で、北野が会話に入っていないことに気付いてすらいないのではと思えるほどだった。四人で仲良くするならすればいいのに、なぜいまだに北野に寄ってくるのか不可解だった。
ぼんやりと歩いていた北野だったが、ふと景色にいつもと違うものを感じて眉間にしわを寄せた。
なんだ?
少し考えて、すぐに思い至る。前を歩く連中の中に渡辺がいない。
五人で歩く際のフォーメーションは、前を歩く四人の後ろに北野が一人ついていくか、渡辺と栗本、北野、清水と小林の順に並ぶか、そのどちらかだった。渡辺は野球部のキャッチャーや柔道部と見紛うほど体格が良く、発言力もあって、いつだって先頭にいた。体調不良で欠席か? 違う。先ほど渡辺に理科室に行こうと誘われたばかりじゃないか。
珍しく後ろにいるのだろうか。
なんだか気になって、教科書などを左手に持ち替えると手すりに右手を伸ばす。北野は手すりを使わずに義足で階段の昇降をすることが可能だったが、段の途中で振り返るのにはさすがに不安を感じた。
手すりに触れかけた、そのときだった。
ぐい、と後ろから大きな手でスクールシャツの背中をつかまれた。あっと手すりを握りかけた刹那、力一杯後ろに引き倒される。体が宙に浮く。背中にあった大きな手が離れる。視界の端を渡辺が横切る。
北野は思考より先に顎を引き、教科書を投げ捨てた両手で床を叩いた。だん、ガシャン。体に痺れるような衝撃。キャア、と上空から女子の叫び声。
「北野が落ちた!」
栗本の叫び声。わあわあとみんなが駆け寄ってくる。
「小林、先生!」
「うん!」
清水に指示され、小林が一階へと走る。この棟の一階には職員室がある。
「おい、大丈夫かよ!?」
駆け寄った渡辺が北野の顔を覗き込む。
北野は混乱していた。
何が起こった? 何が起こったのだ?
俺は背後から誰かにスクールシャツをつかまれ、階段を落とされた。背後にいたのは渡辺だけ。いや、俺はぼんやりしていた。もしかすると渡辺以外に誰かがいたのかもしれない。しかし、それなら渡辺は俺を落としたやつを目撃しているはずだ。
「おおい、どうした?」
気の抜けた顔の眼鏡の理科教師が、騒ぎを聞きつけて理科室から顔を出した。
「北野がバランスを崩して階段から落ちちゃって」
平然と言い切った渡辺に、北野は動揺する。
どういうことだ? 俺は自分で落ちたわけじゃない。誰かに落とされたのだ。
お前が、俺を、落としたんじゃないのか?
一階から教頭と養護教諭が駆けてきた。
「何があった!?」
教頭が鋭い声で聞いた。あまりの剣幕に生徒たちは一瞬黙る。すぐに女子の学級委員が一歩前に出た。
「北野くんが足を滑らせて階段から落ちたそうです」
いつもキビキビと行動する彼女の腕に、教科書や筆箱の姿はなかった。きっとすでに理科室に着席していて、北野が落ちた物音を聞いて駆けつけてくれたのだろう。
「北野くん、大丈夫?」
養護教諭がそっと北野の足に手をかざした。北野は「ああ、えっと」とへらりと笑う。反射のような笑顔だった。
「大丈夫です。ごめんなさい、お騒がせしちゃって」
「今日はおうちの人に迎えにきてもらって帰りなさい。病院にも行った方がいいよ」
「そんな、大丈夫ですよ。少し痛いだけで歩けるし」
義足のリハビリテーションの中には、転んだ際の受け身の取り方もあった。とっさに行動に移せたおかげで、頭は打っていない。引き落とされたせいで速度はあったが、落ちた段数自体は六、七段だ。したたか打ち付けた背中と腰は痛むものの、耐えられないほどではない。おおごとにしたくなかったし、母親に余計な心配をかけたくなかった。
しん、と周囲が水を打ったように静まり返った。
北野は当惑してみんなの顔を見回す。
俺は何かおかしなことを言ったか? クラス全員が沈黙するほど、珍妙な発言をしてしまったのか?
教頭が動いて何かを拾い上げた。北野はそちらに視線を転じ、ああ、と深い息をついた。
「今日は迎えにきてもらって帰りなさい」
養護教諭が優しく繰り返した。「はい」と北野は頷いた。
受け身は取った。床に叩きつけられる瞬間、顎を引いて、きっと両足も上げていた。とにかく頭をぶつけてはまずいと思った。頭を守ろうと、足への意識がおろそかになった。反動で下りた足は、勢いよく階段のへりに叩きつけられたのだろう。
右足は見たところなんともなかった。左足の義足が飛んで、今は教頭の手の中にある。
打ちどころが悪かったのだろう。丈夫なはずのソケットには、大きな亀裂が入っていた。
文化祭では車椅子に座って指揮者をした。
修理よりも作り直した方が早いと、ソケットは作り直すことになった。北野が「高いのにごめん」と謝ると、母親は「そんなこと気にしないの。どうせ成長の過程で作り直すものなんだから。それより、早く腰が治るといいわね」と労った。折れてはいなかったがひどい捻挫で、完治には一ヶ月かもう少しかかるだろうという話だった。
ソケットは今まで使っていたものをもとに複製するのではなく、成長もしているだろうから一から型を取り直そうということになった。当然、型取りは捻挫の腫れが完全に引いてからだ。ソケットの制作期間も考えると、一ヶ月半から二ヶ月もの間車椅子で過ごさなければならないのかと思うと憂鬱だった。
渡辺たちはいたって平常通りだった。あまりに堂々としているものだから、北野は渡辺に落とされたのは自分の思い違いだったのではないかとすら考え始めていた。
校舎には各棟にひとつずつエレベーターがあり、北野の教室からは遠いものの職員室のそばに多目的トイレもあったため、車椅子での学校生活にそれほど困難はなかった。昇降口から外に繋がる五段の階段も、もともと右端にスロープが設置されていた。
ある日のことだ。
「きーたの、帰ろうぜ」
教室で、栗本に陽気な声で誘われた。普段なら彼らは部活動があるため帰りは別だ。しかし、隔週の水曜日だけは職員会議のせいで部活動がなかった。
「うん」
北野は机のフックからリュックサックを外し、一度机の上に置いた。この中学校では置き勉が許可されているため、筆箱だけをリュックサックにしまい、車椅子をバックさせて膝の上にリュックサックを移した。席替えは行われていないが、車椅子であることをふまえて、北野の席は一時的にもといた列の一番後ろになっていた。車椅子を漕いでいるうちにリュックサックが落ちないよう、胸の前にリュックサックがある状態でショルダーストラップを肩にかける。
下駄箱で、四人が上履きから外履きに履き替えるのを待った。車椅子のフットサポートに足をかけていて床には付いていないからと、北野は教師から外履きのまま校舎に入る許可を得ていた。
彼らがスニーカーを履いたのを見届け、一緒に昇降口に出る。右端のスロープに向かいかけると、「あ、なぁ、四人で持ったら階段下りられるんじゃねぇの?」と栗本が提案した。「そんな」と北野は口の渇きを感じる。
「悪いよ」
「遠慮すんなって。せーのぉ」
「わっ! ちょっと!」
ふわり、と問答無用で車椅子が宙に浮いた。彼らの腰の高さまで持ち上げられる。背の順は、渡辺、小林、栗本、清水で、渡辺と清水の間には二十センチ以上の開きがあった。車椅子は傾き、北野は「危ないって……」とアームサポートにしがみつく。
「下ろして。ほんと。危ないから」
「なぁ。今、このまま手ぇ離したらどうなると思う?」
右前に立つ渡辺が下卑た笑いを浮かべて振り返った。北野は呼吸が苦しくなる。ああ、やはりそうだったのだ。やはり、あの日階段から北野を引き落としたのは彼だったのだ。「あ、それ面白そう」と小林が歯を剥いた。
「お前ら何やってんだ?」
背後から野太い声が聞こえた。びくん、と車椅子を持つ彼らの手が震えた。北野は車椅子にしがみついたまま振り返る。体育教師の安田が不思議そうな顔で北野たちを眺めていた。
「ちょっと、四人で持ち上げたら北野も階段下りられるんじゃないかなって思ってやってみただけです」
栗本がしれっと答えた。「そうそう」と清水が同調する。
「じゃれるのはいいけど、一歩間違えると危険だからな。せっかくスロープがあるんだからわざわざ危ない真似をするな。下ろしなさい」
はーい、と四人は車椅子を地面に下ろした。教師の目があるうちに、安田がどこかへ行ってしまわないうちに、北野は素早くスロープを下りた。
五人はグラウンドを横切る。
会話が安田の耳に入らない距離まで来ると、「ちぇ」と渡辺が舌を打った。
「つまんないの」
二年に進級してクラス替えがあったが、五人は同じクラスのままだった。
どうして、と北野は目の前が暗くなった。
どうしてか? 間違いなく、『仲のいい子たちをなるべく同じクラスにしてあげよう』という教師の優しい取り計らいだ。
二年に進級して一週間ほどの間、北野は職員室の前を無闇にうろついた。よっぽどその扉を開けて、「僕のクラスを変えてもらえませんか。今のクラスじゃなければどこでもいいんですけど」とお願いしようかと思った。しかし行動には移せなかった。だって、「なぜ?」と聞かれてしまう。
「今のクラスには仲良しの四人がいるだろう。なぜ?」
「その四人にいじめられているんです」
「本当? 何をされたの?」
物理的な暴力は階段から落とされた一回だけで、あとはいじめと呼んでいいのか判断に困るような冷たい態度だけだ。そのぐらいのことで教師にクラスを変えてくれと頼みに行くのは、とてもみっともないことのように思われた。
「北野、北野」
清水の家の子供部屋で、小林に呼ばれた。
今日は部活動のない日で、帰りのホームルームが終わるなり栗本から「今日は清水んちで遊ぼう。こいつんちこの時間誰もいないから」と誘われたのだ。
ゲームセンターや映画館、カラオケやボウリングなどには、部活動のない日に五人でよく行っていた。どうせいないものとして扱われるのは分かっていたが、断る気力も湧かなかった。
しかし家に呼ばれるというのは初めてのことで、なんだか嫌な予感がした。
行かない。忙しいから。
その言葉が喉に張りついて、なぜだか口にすることができなかった。なんだか、彼らに背くとまた階段から落とされるような気がして、おそろしかったのかもしれない(今思えば、あのとき階段から落とされたのは『彼らに背いた』からではない。もとより北野は何もしていなかった。ただ彼らが『そういう遊びをしたくなった』、それだけのことだ)。あの日以来、学校の中やあいつらと遊びに行くとき、北野は必ずしっかりと階段の手すりを握って昇降するようになっていた。
「お前らほんとに仲良いなぁ」
言葉を失った北野の横を、担任が微笑ましそうな顔で通り過ぎた。「そうなんすよ。な? 北野」と栗本が北野の背中を小突いた。
断るタイミングを逸し、結局清水の家に上がるはめになった。
「なぁ、おい、北野。見ろよこれ」
小林が北野を手招く。その手にはスマートフォンが握られている。北野は「何?」とうつろな目でそちらを見る。
清水の部屋は五畳か六畳ほどで、学習机やベッドが置かれている中に中学生の男子が五人もいるのだから窮屈だ。先ほどまで四人は輪になってスマートフォンのゲームをしていた。北野は子供部屋のドアに寄りかかって一人でぼんやりしていた。
「これ、これ」
反応の薄い北野がもどかしいようで、小林はこちらに身を乗り出すと北野の鼻先にスマートフォンを突きつけた。近すぎてよく見えない。しばらくすると、少しずつピントが合ってくる。
《生まれつき両足がないカタワだけど質問ある?》
「きみたちが立てたの?」
低俗なスレッドだね、と吐き捨ててしまいたいのを懸命にこらえた。「そうそう」と小林はスマートフォンを持って輪に戻る。栗本がスマートフォンを覗き込み、そのスレッドについたらしいレスポンスを読み上げる。
「ほら、これ、《社会のゴミ》《キモい》《生きてて楽しいの?》《税金泥棒》、ギャハハ、《死ね》だって!」
「死ね」
「死ねー」
みんなが口々に繰り返した。あはは、と北野は乾いた笑いを漏らす。渡辺がサイダーのジュースを一口飲む。そのコップは四人の前に置かれているが、北野の前にはない。
「あ、なぁ、画像。《証拠アップして》って」
「北野、はいピース」
北野はとっさに顔を背けた。かしゃ、とピースを待たずにシャッターが切られる。すぐに「バカ」と栗本がののしる。
「キモい足出せって。カタワの証拠写真撮れっつってんのに、それじゃなんも分かんねーじゃん」
「あ、マジだ。おい北野、とっとと脱げよ」
渡辺がニヤニヤと笑いながら言った。即座に四人が「脱ーげ、脱ーげ」の大合唱を始める。北野は「何言ってるの?」と困惑する。
「脱ぐ必要はないよね。義足を撮りたいなら、ズボンの裾をまくればいいだけじゃないの」
「それじゃつまんねぇ、っつうの!」
渡辺がこちらに飛びかかってきた。視界が反転する。天井。「渡辺ナイス!」と声が飛び、北野の胸に馬乗りになった渡辺が「栗本! 早く!」と振り返る。ガチャガチャと乱雑にベルトを外す音。尻に冷たいフローリングの感触。シャッター音。
「消してよ!」
北野は体を起こそうとめちゃくちゃに暴れるが、優に七十キロはある渡辺の巨体に乗られてはなすすべがない。早く、早く、とみんなの興奮した声。拳を固めて渡辺の胸や腹をあてずっぽうに殴るが、すぐに「いてーな」と彼の両手で手首を押さえ込まれてしまう。
「……はーい、オッケー。カタワ男子中学生のハダカ、アップ完了でーす」
「どれ? うぅっわ、キッモ。てかお前、モザイクぐらいかけろよ。すぐ消されるんじゃねーの」
「だってお前らがさぁ、急かすからさぁ」
「どれ? どれ? 見せて?」
渡辺が北野の上からどいた。北野は間髪入れずに起き上がる。脛の真ん中まで下ろされたズボンとボクサーを素早く上げると、リュックサックを背負い、ベルトの穴にバックルのピンを通して立ち上がる。
「あ、おい、逃げんなよ」
清水が気持ちの悪い上目でこちらを睨んだ。北野は構わず子供部屋を出る。「いいって、あいついても臭いし。ほっとこうぜ」と小林の声。
玄関を出ると、足早に通路を歩いてエレベーターの前まで行った。ホールボタンを押す。エレベーターが到着するまでの間、そわそわと清水の部屋のドアを見続ける。
もしあいつらが追ってきたら非常用階段から逃げよう。ああでも、そうしたところですぐに追いつかれてしまう。そもそも非常用階段はどこにあるのだろう、と周囲を見回しているうちにエレベーターが到着した。
乗り込んで一階のボタンを押し、がちゃがちゃがちゃとせわしなく《閉》のボタンを押す。エレベーター内の鏡に映る自分を見て、ズボンのボタンとチャックを閉めていないことに気付く。余ったベルトもだらしなく垂れたままだ。慌てて整える。
一階に到着し、何食わぬ顔でマンションのエントランスを出た。
しばらく歩いて、電車に乗る。自宅の最寄駅でおりる。
ホームから改札までの慣れた短い道のりを歩いていると、先ほどの出来事がすべて悪い夢だったように思えてくる。
何もなかった。俺はどこにも行かなかった。学校が終わって、今まっすぐここまで帰ってきた。
そうだ、ICカードを出さなくてはいけない。
リュックサックのフロントポケットからICカードを出す。こうこうと目に痛いほど白い駅の灯りの下で、うっすらと手首に残るあざに気付かないふりをする。
もうすぐ夕飯の時間だ。少し肌寒いから、家に帰ったら、夕飯の前にまずは長袖に着替えようか。