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14

 眩しい。
 視界が白い。
 体を起こそうとして、ぐらり、と脳が傾く。
「おっと」
 男性の声がして光が弱くなった。北野はベンチの背もたれにしがみつき、うつろな目で光の発生源を見定めようとする。
「ごめんごめん。ずっと照らしてたら眩しかったよねぇ」
 次第に目が慣れて、背の低い小太りなシルエットが浮かんできた。やがてその顔も見えてくる。眼鏡をかけた、穏やかそうな男性だ。六十歳前後といったところか。
「きみたち、自転車旅行?」
「はい」
 混沌とした脳みそでとにかく返事をする。
 ここはどこだっけ?
 そう、道の駅だ。
 屋根も何もないコンクリートの上に、横二列をくっつけたアルミベンチが、横に二セット、縦に三セットの計六セット並んでいた。
 何時頃だったか。まだ明るい中、ベンチを見つけてとにかく腰を下ろしたのは覚えている。知らない間に横になってしまっていたらしい。
 ここに着いてから今までの記憶がすっぽり抜け落ちている。ということは、俺はとうとう睡眠に成功したのか。
 三日ぶりの、おそらく三、四時間の睡眠、それもこんなに硬い寝床でとなると、すっきり回復というのはどだい無理な話だった。午前中からガンガンとあった頭痛はまだしっかりと残っている。
「俺も昔はしたもんだよ。日本一周旅行。バイクでねぇ」
「すごい」
 脳みそを使わずにあいづちを打った。砂日はどこだろう? 振り返ると、すぐ後ろのベンチに彼が横たわっていた。呑気に口を開けて寝ている。ここに到着したときベンチには他にも人がいたような気がしたが、今は北野と砂日の二人だけだ。
「お友達?」
「はい」
 答えてから、この男性はなんのために俺を起こしたのだろうとようやく疑問に思う。そもそもこれは誰だろう。警察には見えない。ここの道の駅の管理者だろうか。となると、俺たちの身元を確認するため? それはまずい。俺は学生証を求められたって家に電話をかけられたって堂々としていられるが、砂日は家出中な上、身分証をひとつも持っていない。
「ちょっと待ってな」
 男性がきびすを返した。彼は道の駅の裏手へと向かう。北野はからからの喉を潤すためにボディバッグからペットボトルを出し、中に入った水道水をごく、ごく、ごく、と飲み干した。一息つく。いけない。もしも彼が俺たちの身元を確認するつもりなら、今のうちに逃げなければいけない。何をのんびりしているのだ? まるで頭が回っていない。
 立ち上がろうとして、ふらつく。そうこうしているうちに男性が小走りに戻ってきた。手にレジ袋をさげている。満面の笑みだ。
「これ、これ」
 男性が北野にレジ袋を差し出した。北野は戸惑いながらも受け取る。
「ここの道の駅の弁当。売れ残ったやつで、本当は廃棄しないといけないんだけど、いいよ二つぐらい。きみたちで食べな」
「ありがとうございます」
「じゃあ、な。気をつけてな」
 男性は振り返り振り返り北野に手を振った。北野も微笑を浮かべて手を振り返す。
 ピピ、ガチャ、とリモコンキーで車のロックを解除する音が響いて、男性が車に乗り込んだ。エンジンのかかる音がして、ヘッドライトが灯り、駐車場の端に停まっていたその車は去っていった。
 静寂が訪れた駐車場を改めて見回すと、もう車は一台もなかった。懐中電灯に目がくらんであたりが真っ暗のように感じていたが、落ち着いてみると、完全な夜というほど暗くもない。腕時計を見る。二十時七分。
 スマートフォンを取り出し、母親に電話をかける。大丈夫大丈夫、もう数日もしたら帰るよと嘘をつき、通話を切る。
 五百ミリリットルのペットボトルに半分ほど残っていた水を一息に飲み干したのにも関わらず、まだ喉が渇いていた。水を足しにトイレに行きたいが、立ち上がるのが辛い。

 四日目にして、ようやく砂日は徒歩で和歌山県を目指すことの無謀さに気付いたらしい。
「これ、このペースだときっついな。マジ疲れた」
 今日の午前中。北野がスマートフォンのマップでこれまでの道程を見せてやると、砂日は額の汗をぬぐってそうぼやいた。彼は毎日たっぷりと睡眠を取っているように見えたが、やはりベッドではない硬い寝床だということもあってか、じわりじわりと疲労が蓄積しているようだ。
「この調子だと、和歌山県に着くには一ヶ月以上かかるかも」
「うぇえ、マジ? さすがに無理だわ、それは」
「やめる?」
 ずっと聞きたかった「無理」という言葉をもらえた喜びに、被せるように質問した。やめて、もうどこか近くの駅で電車にでも飛び込む? 北野がそう続ける前に、砂日は「やめないけど」と頑固に首を横に振った。
「移動手段がな、問題なんだよなぁ。もっと速い、車とかがありゃあいいんだけど」
「車はないよ。そもそも、俺たち中学生だから運転できないし」
 こいつは何を馬鹿げたことを言っているのだ? そのぐらいのこと、考えなくても分かるだろうが。
 当たり前の指摘をした北野に、しかし砂日はまるで聞く耳を持たずに歩き出した。どうするつもりかとあとをついていくと、彼はホームセンターの駐車場に立ち入り、手近な車のドアハンドルに手をかける。
「ちょっと」
 北野はたしなめた。田舎の平日のホームセンターは老人たちで繁盛している。駐車場にはたくさんの人がいた。
「人がいるから。捕まるって」
 砂日は言われて初めてそのことに気が付いたような顔をして、あたりを見回し、黙って駐車場を出た。
 諦めてくれたかと胸を撫でおろしたのも束の間、しばらく歩くと彼はコインパーキングに足を踏み入れ、またも車のドアハンドルに手を伸ばした。
「だから……」
「人がいなけりゃいいんだろ?」
 砂日が平然と言いきった。田舎であるせいか、コインパーキングの周辺にあまり人影はない。
 北野はもう、嫌になって、近くの植え込みに腰を下ろすと頭を垂れた。

 今日砂日が回ったコインパーキングは六つ。成果は無論ゼロ。
 砂日が「そうだ、ヒッチハイクをしよう」と言い出さないかひやひやしていたのだが、幸い彼にその知識はないようだった。
 初日のキャンプの大学生のように信頼の置ける人物の車ならともかく、知らない人の車には乗りたくない。どこに連れていかれるか分かったものではない。
 ようやく立ち上がるだけの気力が湧いてきて、北野はペットボトルを片手に立ち上がった。こけないようにベンチの背に手を添わせ、ベンチが無くなると道の駅の壁伝いにトイレを目指す。
 用を足し、手を洗う。ペットボトルの口を開けてちょろちょろと水道水をそそぐ。
 ほんの数日前まで、薄汚れたトイレで歯を磨く人を見ただけで「ここの水道水で口をゆすぐのか」と嫌な気持ちになっていたのに。
 夏なのだ。水分は絶対にとらなくてはいけない。いちいちペットボトルを購入していてはいくら金があっても足りない。
 最初のうちは、なるべく綺麗なトイレを探して水を得ていた。それが今では、こんなにアンモニア臭の充満する小汚いトイレで飲料用の水を補給している。
 顔を上げると、痛々しいほど真っ赤に日焼けした赤鬼のような生き物が鏡に映った。
 人間の尊厳というものが、日々失われていくかのようで辛かった。
 風呂にももう四日も入っていないのだ。うがいはしているが歯だって磨けていない。
 二日目の夕方、砂日に言った。「お風呂に入りたいね」と。彼は「あ、そう?」と首をかしげた。「俺、一週間とかザラに入んねーからまだ全然いけるわ。冬はもっと入んなかったりするし」。こいつに話は通じないと、北野は砂日に風呂の話を振るのをやめた。
 顔は毎朝水で洗い、体も折りを見て濡れ手ぬぐいで拭いてはいるが、全身がぬるぬると脂に覆われているようで気持ちが悪い。両腿の汗疹は、悪化こそしていないが治る気配はない。
 壁伝いにベンチへと戻った。
 砂日はなおも熟睡している。そういえば、明るいうちにここで寝たものだから北野は夕飯を買っていないし、食べていない。砂日はどうしたのだろうか?
 ボディバッグから財布を取り出して残金を確認する。減っていなかった。
 空腹を我慢させてしまったな、と申し訳なく思った直後、自転車のバスケットにあるエコバッグのかさがいやに減っていることに気が付く。中を覗くと、未開封だったはずのポテトチップスとあたりめが忽然と姿を消していた。二つ食べたのか? 一人で丸々二つとも?
 砂日を振り返る。まるでマイペースに寝ている。なんだか無性に腹が立ってくる。どうにもならないほどはらわたが煮えくり返る。
 レジ袋から弁当を取り出し、割り箸を割ると口に運んだ。
 唐揚げ弁当だ。割引された中でもなるべく安いものをと、この三日間内容量も栄養も少ない貧相な食べ物を選択してきた。砂日にももちろんそうするよう促したが、彼はボリュームのある高価なものを「絶対これ食いたい」とゆずらないときもあった。
 大きな弁当で、米のスペースも広くて、唐揚げが五つも入っていて、ポテトサラダとだし巻き玉子もついていて。
 夢中で口に運んだ。あっという間に完食する。二つ目の弁当に手をつける。味もおいしいに違いないのだが、味覚がおかしくなったのか、粘土のように何も感じなかった。ただただ口へ運び続ける。空腹を満たすためというより、砂日への腹いせに近い。
 お前ばっかり勝手をして。俺ばっかり我慢をして。それならこのぐらい、構わないだろう? お前の分の弁当を食べてしまうぐらい、構わないだろう?
 弁当を二つとも平らげ、カラン、と空いた容器と割り箸をわきに置いた。胃が苦しい。ペットボトルを取り、ごくごくと水を流し込む。突如、喉の奥からせり上がるものを感じる。いけない。いけない。
 とっさに弁当のレジ袋を取り、口にあてがう。胃の中のものが噴出する。レジ袋が生ぬるい重みを増して、気持ちが悪い。また少し吐く。
「はぁ……」
 ぼろぼろと涙が出ていた。喉が痛い。口の中がぐじゃぐじゃと不快だ。にじむ視界でぼんやりとレジ袋を見下ろす。まだほとんど形を保ったままの唐揚げが、二、三、吐瀉物の中でぷかりと泳いでいる。
 何度かに分けて、しばらく吐いた。レジ袋はすっかりたぷたぷになって、やがて胃液しか出なくなった。
 レジ袋の口を縛る。片手にレジ袋をさげ、もう片手に弁当の空き容器を持つ。ゴミ箱まで歩いていき、どちらも捨てる。どしゃ、とレジ袋が大きな音を立てる。
 口元をぬぐうと吐瀉物が手に付いた。なんだか冷え切ったような、それでいて熱を帯びたような頭で、汚れた手を無頓着にテーパードパンツに擦りつける。
 ボディバッグからスマートフォンを取り出す。
 その番号は、電話の着信履歴からは削除してある。
 設定をタップ。着信拒否をした電話番号の一覧を開く。登録は五件。栗本たち四人と、あの男。再び吐き気をもよおす。
 顔を背けて深呼吸をする。落ち着け。
 なるべく番号を視界に入れないように焦点をずらしながら、目的の番号の右端にある矢印をタップする。もう一度深呼吸。
 北野は発信ボタンに指を下ろした。