表紙に戻る

10

 日が頭のてっぺん近くまでのぼった頃。
 ここに入ろう、と二階建ての建物の前で北野が立ち止まった。それほど巨大な建物ではない。彼は電動車椅子のリュックサックをそのままに、駐輪場に自転車を停める。
「何? ここ」
「図書館だよ」
 砂日はあまり図書館に馴染みがなかった。幼稚園ぐらいのときに、絵本を借りに母親と何度か訪れたことがある程度だ。本にはまったく興味がない。
「本借りんの?」
「違う違う。ちょっと休憩」
 休憩は、ほんの少し前に道端にあった木陰のベンチで取ったばかりだ。しかし砂日は受け入れた。
 六年間も家に引きこもっていたのだ。体力はおそろしく落ちていて、少し歩いただけでも全身の筋肉が悲鳴を上げた。それに、昼間はたえず襲いかかってくる太陽の日差しも強烈だ。ただ立っているだけでもガンガンと体力を消耗する。休憩はいくらでも取りたかった。
「あ!」
 図書館の扉を押した瞬間、流れ出てきた冷気に歓喜の声を上げた。「何」と北野が尖った声を出す。
「図書館ではお静かに、だよ」
 北野が自身の唇の前に人差し指を立てる。砂日は無視をして「すーげ、涼しい」とあたりを見回した。
「し、ず、か、に。司書さんにつまみ出されるよ」
「シショさんって?」
「図書館を管理している人」
 想像してみたが、うまくイメージできなかった。
 図書館で働いている人間といえば、貸し出しカウンターに座っている人や、本を整頓している人ぐらいだ。彼らには店番や清掃員という表現が似つかわしく、管理人とは思えない。それに、ぼんやりとした記憶の中の彼らも、この図書館にいる彼らも、とても地味でおとなしそうだ。少々騒いだ人間を手荒くつまみ出すようなタイプにはとても見えない。
 もしかすると、普段は表に出てこない奥の奥に、図書館で騒ぐ輩をつまみ出すシショさんとやらがいるのかもしれない。イメージの中の『シショさん』はマッチョで身長が二メートルぐらいあって、少し見てみたい気もしたが、せっかくの涼しい環境を手放してまで見たいわけでは全然なかった。
 北野がゆっくりと館内を見回しながら奥へ進む。砂日もぼけっとあとに続く。階段をのぼると、棚がひとつもない空間に出た。大きな机がパーテーションで区切られており、区切りのひとつひとつに椅子が置かれている。
「休憩所?」
「自習室」
 北野が少し笑った。
 自習室は薄暗く、空気がこもっていた。席は半分も埋まっていない。学生らしき者が五、六人。それぞれ一人で来ているようだが、一番奥に座った二人組だけはこそこそと雑談をしている。他に大人らしきものが二、三人。大人は全員机に突っ伏している。
「トイレに行ってくるね」
 北野が部屋の隅を指した。砂日は頷いて手近な椅子に腰かける。
 砂日は外で立ち小便をすることに一切の抵抗がなかった。しかし北野は嫌なようだ。
 それに気付いたのは、旅の初日だった。森にそれる道に入ってしばらくすると、北野が「さっきの公園でトイレに行けばよかった」と言い出したのだ。その発言の十五分ほど前に、二人は公園の横を通った。
「そのへんですれば?」
 あっけらかんと提案すると、北野は「今したいわけじゃなくて、ただちょっと、この先も当分なさそうだなぁって思っただけだから」と嫌な顔をした。
「我慢してるとボーコー炎になるぞ」
「我慢とかじゃなくて、まだ大丈夫だから」
 その後キャンプの連中と出会い、「トイレってどうしてる?」と訊ねて「女子は車で公衆トイレか、呑んでからはポータブルトイレ使ってるみたいだけど、俺らはまぁそのへんで」と分かりきった返答をされてようやく、茂みへと向かったのだ。
 一度外でしたら抵抗がなくなる、というわけでもないらしく、キャンプが終わると彼は再びトイレを探すようになった。

 ごとん、と大きな音がした。
「すみません」と北野の声。
 砂日はいつの間にか机に伏してうとうとしていたらしい。目を開くと、隣の席に北野がいた。
「ごめんね、うるさくしちゃって」
 椅子に座ったまま右手を床に伸ばしていた北野が、砂日の目覚めに気付いて謝罪をした。見ると、彼の義足が床に転がっている。
「外してたの?」
 今日で旅は三日目。北野は就寝中義足を外しているようだが、日中に外しているのを見るのは初めてだ。彼が義足を拾い上げる。
「ちょっとさ。水拭きしてたんだけど、手が滑って倒しちゃって」
 テーブルの上に湿った手ぬぐいがあった。
「そんなの持ってたっけ?」
「梨彩ちゃんがくれたやつ」
 キャンプの大学生のうちの誰かだろう。女性は三人いた。どれが梨彩かは分からないが、分からなくてもなんの支障もないため流しておく。
 沈黙が訪れた。
 話は終わったものと判断し、再び机に突っ伏する。
「あのさ」
 北野が少し焦ったような声を出した。
「何?」
 顔を上げる。心なしか、彼は思いつめたような表情をしている。
「……あのさ」
「うん」
「ちょっと、ちょっとだけなんだけど、足の調子が悪いんだよね」
「マジで?」
 覗き込むと、北野はテーパードパンツを腿の付け根までぐいっとたくし上げた。うえ、と砂日の口から苦い声が出る。北野の足はびっしりと赤いぶつぶつに覆われていた。
「何それ。キッモ」
「汗疹だから、今のところうつったりはしないんだけど」
「アセモって?」
「汗で蒸れてなるやつ。ライナーっていう、これ、義足つけるときに足を保護するためのパーツなんだけど」机の上に置かれた、大きなシリコン製のカバーのようなものを指す。「これの通気性が悪いからなっちゃったみたいで」
「いつから?」
「気付いたのは今朝」
「痛そう」砂日は眉間にしわを刻む。「痛くはねーの?」
 もしも痛むのならば、今朝バス停を出発するときにでも申告していただろう。今まで黙っていたということは、グロテスクな見た目に反して苦痛はないのかもしれない。
 しかし北野は「ちょっと。ちょっとだけ、痛い、かも」と返した。
「早く言やいいのに」
「いや。まあ、うん、最初はね、痒いぐらいで大丈夫かと思ってたんだよ。でも、義足はめて歩いてたらだんだん痛痒くなってきて」
「じゃあ治るまで外してたら?」
「外してたら歩けないよ」
「あれあるじゃん。リュックの車椅子。あれ使えばいいじゃん」
「あれはね、タイヤがないから」
「はぁ?」
 それまで北野は少し控えめの声で、砂日は普通の声でしゃべっていたのだが、つい大きな声が出た。ゴホン、とはす向かいに座った眼鏡の学生らしき男が咳払いをする。スミマセン、と北野が謝る。砂日は構わず話を続けた。
「タイヤないの?」
「タイヤないよ」
「なんで。意味ないじゃん」
「あれはね、思い入れがあるから持ってきただけなんだよ。使うつもりはなかった」
「タイヤも持ってくりゃよかったのに。こういう事態をソーテーしてさ」
「リュックに入らなかったから」
「バカじゃねーの」
「まあ、うん」
 砂日は呆れながら「それで?」と先を促した。
 それで、この話の着地点はどこだ?
 北野が少し黙った。
 何かを言いたげに口を開いては、閉じる。それを何度か繰り返してから、ようやく「しばらくここで休んでいかない?」と言った。
「いいよ」
 もともとここには休憩で立ち寄ったのだろう。一体何を言いあぐねていたのだ、と不思議に思いながらも頷きを返す。
 自習室の壁掛け時計を見る。十一時四十分。
「何時まで?」
「一時か、二時かな」
「結構ガッツリじゃん」
 外は暑いため、涼しい室内で過ごすことに異存はなかった。ただ腹が減る。
「先に飯食ってりゃよかったなぁ」と、北野のテーブルに置かれたエコバッグに目が留まる。「あ、そうだ。お菓子あるじゃん」
「館内は飲食禁止だよ」
「ええ? だりーなぁ。じゃあ外で食ってくるから」
 手を突き出す。
 北野は冷めた目で見返したが、やがてエコバッグから個包装のチーズおかきを三つ取り出すと砂日の手に乗せた。これでは足りない。
「ポテチ」
 試しに言ってみた。しばらくの睨み合いののち、疲れたように北野がポテトチップスの袋を取り出して砂日に渡す。ポテトチップスは二つとも未開封で、コンソメ味の方をくれた。
 まるまる一袋食べれば多少は腹も膨れるだろう。
 砂日は上機嫌で受け取ると、自習室の階段を下りていった。