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11

 今夜の寝床は公園の東屋だ。真ん中に横長のテーブルがあり、その両脇に背もたれのないベンチが並ぶ。
 夏休みなのだから、旅人は多いと思っていた。
 しかし、野宿の場所を調べるために検索していると、自転車旅行やバイク旅行、車中泊の旅行には春と秋が最適という情報があわせて表示された。改めて冷静に考え直せば、七月や八月は夜でも暑いのだから野宿には不向きだ。公園は広く、清潔だったが、北野と砂日以外の人影はひとつもなかった。
 公園のトイレで濡らした手ぬぐいを絞り、ベンチに座って外したライナーと足をぬぐう。
 砂日はといえば、もちろんすでに就寝していた。彼には警戒心というものがないのか、どこでもすぐに眠りに落ちた。
 北野はエコバッグから、今日ドラッグストアで購入した汗疹の塗り薬を取り出した。
 金はない。それは分かっているが、悪化してとびひやなんかになったら余計に厄介だ。
 今日の時点で、たえずある痒みと、少し歩くと汗ばんで生じるチクチクと刺すような痛みで、何度も今にも叫び出してむちゃくちゃにかきむしりたい衝動に襲われた。さっさと治してしまいたい。
 薬を塗り終え、することもなくボディバッグから財布を取り出す。
 砂日に渡すと無計画に使ってしまいそうで、金はすべて北野が管理していた。もとより砂日の所持金は電車で山梨県に来る際に使い果たしており、これは北野の金なのだ。
 見切り品の弁当やパンのみを購入し、水分は空いたペットボトルに公共の場の水道水を入れてやり過ごしたって、二人分の食費は一日千円近くにはなってしまう。所持金はもう五千円を切った。
 旅を始めて今日で三日目。
 埼玉県を出発し、電車で山梨県のK市まで来て、そこからの移動速度はかたつむりのように遅い。このままでは当分山梨県から出られそうもない。
「あと四、五日でお金がなくなっちゃいそうだね」
 今日の夕方、スーパーマーケットで今から食べる割引弁当と明日の朝食の割引パンを選びながら、砂日に言ってみた。
「あ、そう」
 彼はさして興味もなさそうに返した。
「このままのスピードだと、あと四、五日じゃ和歌山県には着きそうもないけど」
「まあ、なんとかなるだろ」
 なるわけないだろ、この馬鹿が、と怒鳴り散らしたいのを懸命にこらえた。言ってもしょうがないのが分かりきっているからだ。こいつに話は通じない。
 ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ、ぶぶぶぶぶ。
 ボディバッグの中でスマートフォンが断続的に震えた。電話だ。
 心臓をばくつかせながら取り出すと、液晶画面に母親のフルネームが表示されていた。そういえば、今日の電話をかけていなかった。通話ボタンをタップする。
「もしもし?」
「もしもし? 星?」
「星だよ」俺のスマートフォンにかけたのだからそうだろう、と笑ってしまいそうになる。「ごめん、電話するの忘れてた」
「ねぇ。私、あなたが電車で山梨県まで行って、そこから自転車で家まで戻ってくるのだと思っていたわ。あなたどこまで行くつもりなの?」
 不安そうに母が聞いた。北野の移動した道のりは、スマートフォンの位置情報共有アプリで彼女に伝わる。とろとろとした速度ではあるものの、どうやら北野が西へ向かおうとしていることに勘付いたようだ。和歌山県まで行くつもりだよ、と正直に伝えれば卒倒しそうだ。そうしたら、彼女はすぐにも父親に車を飛ばさせて北野を迎えにくるだろう。
「うん、まあ、いい天気だしさ、せっかくだからもうちょっと足を伸ばそうかなって」
「いい天気って、あなた、台風が接近しているのよ」
「え?」
「ちゃんと天気予報を確認しなくっちゃ! 今週末には関東に来るって言っているじゃない!」
 母親がほとんど悲鳴に近い声を上げた。寝不足の頭にキンキンと響き、北野はスマートフォンを少し耳から離す。
 台風。
 寝耳に水だったが、七月も半ばを過ぎているのだから台風ぐらい来るだろう。明日砂日に打ち明けようか。「今週末に台風が来るらしいけど、それまでに和歌山県に到着するのは難しいだろうね。どうする?」それじゃあもうこのあたりで自殺しよう、とは絶対にならない。彼にそんな理解力や柔軟性はない。「どうするって何が?」と間抜け面をするのが目に浮かぶ。
「でも、今週末でしょ? 今日が月曜だから……、それまでには帰るって」
「本当に? 大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。いざとなったら、電車に乗ればすぐだし」
「お金はあるの?」
「あるよ。忘れてたんだけど、ICカードに結構入っててさ。まだ全然余裕だから」
 大嘘だ。
 ICカードを持っているのは本当。しかし、埼玉県でハンバーガーを買う際に使用し、レシートに印字された残高は四一〇円だった。
「本当にもう、お父さんに似たのかしら、楽観的なんだから……」
 母親がぶつぶつと小声でぼやいた。
「じゃあ、もういい? 切るよ?」
「足は? なんともないの?」
 口早に彼女が聞いた。北野は一瞬呼吸を止めてから「なんともないよ」と返す。
「あんまり無理しちゃ駄目よ。疲れたらすぐにお友達に言うのよ」
「大丈夫だって。みんな分かってくれてるから、こんなにゆっくり進んでるんだしさ」
「そう? それならいいんだけれど……」
「じゃあ、もう電池もなくなっちゃうし切るね。また明日」
「はーい。気をつけてね。おやすみ」
「おやすみー」
 通話終了のボタンをタップする。
 金はない。今週末には帰れない。足はひどい。
 今母親についた嘘は、どれも旅を続けるために必要なものだ。
 しかしそれ以前に、自分はプライドが高いのかもしれない。
 今日、図書館で砂日に洗いざらい話してしまおうかと思った。
 足が痛くて、これ以上旅を続けるのは辛い。治るのを待って、徒歩と自転車で和歌山県までの旅を続けるだけの金はない。もう無理だよ。もうやめない? きみの希望に添えなくて悪いんだけど、和歌山県は諦めて、どこか適当なところで自殺しない?
 だが、どうしても言えなかった。
 だってそんなことを言えば、俺が貧弱みたいじゃないか。俺が腰抜けみたいじゃないか。何年も引きこもっていた不登校の砂日より、俺が劣っているみたいじゃないか。
 いけない、と首を横に振る。
 くだらない考え事をしていてはいけない。そんな暇はないのだ。今は夜なのだから、すぐにも眠らなくてはいけない。
 昨晩、北野は一睡もできなかった。
 今日の日中、眠たくて眠たくて、立ちながら何度も瞼が下りそうになった。図書館で机に伏して仮眠を取ろうとしたのだが、さりさりとノートを擦る芯の音がいやに耳に障って、結局少しも寝られなかった。
 夜の公園は静かだ。砂日はいびきをかくタイプではない。蒸し暑さはあるが、田舎だからか熱帯夜というほどの寝苦しさはない。
 眠たいのに、寝たいのに、寝られそうなのに、目をつむってベンチに横たわるといやに頭が冴え渡る。心臓がそわそわと落ち着かない。
 ざっ、ざっ、ざっ。
 ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ。
 へっ、へっ、へっ。
 何やら音が近付いてくる。
 薄目を開けて視線を転じると、少し離れたところに小型犬を連れた青年が歩いている。くんくん、とにわかに犬が高い声で鳴く。青年がきょろりとあたりを見回す。東屋に停まった自転車、大きなリュックサック、そしてベンチに寝そべった北野たちに気が付いたようで、しばらく遠巻きに眺めたのち、ざっ、ざっ、ざっとこちらに歩み寄る。
 どうしてこちらに来る? 来るな、来るな、来るな。
「わっ」
 青年が真上から北野の顔を覗き込んだのと、北野がぱっちりと目を開けたのはほとんど同時だった。青年が驚きの声を上げて飛びのく。北野は上半身を起こしながら「こんばんは」と挨拶をした。
「びっくりした」
「何かご用ですか?」
「いや、なんか、誰か寝てたから気になって」
「お邪魔してすみません。僕ら旅行中で、ちょっと素敵な公園を見つけたので野宿させてもらっていたんです」
 ああ、そう、ごゆっくり、と青年は気抜けしたように言って去っていった。小型犬が振り返り振り返りこちらに尻尾を振っていた。
 公園が良くない。公園が良くないのだ。
 北野はじっとりと手ににじんだ汗をテーパードパンツでぬぐう。ライナーを手に取りかけ、やはり戻してテーブルの上に乗る。行儀は悪いが、せっかく薬を塗ったところを通気性の悪いライナーで覆うのが嫌だった。
 テーブルを這って砂日のところまで行く。昨日バス停でだって北野は眠れなかったが、きっと公園が良くないのだ。だって、公園は、とても良くない。
「砂日」
 ぽかんと口を開けて寝ている砂日の肩を揺する。彼が「ん……?」と呻き声を上げる。
「何……?」
「寝る場所変えよう」
「やだよ……」
 あっさりと却下された。三秒もすれば、彼はすーすーと寝息を再開する。
 そう。そりゃあそうだ。ここには屋根もベンチも、水道もトイレもある。わざわざ移動する必要はまったくない。
 テーブルを這って自分のベンチに戻る。落ち着け。冷静になれ。

「北野くん」

 記憶の中で名前を呼ばれた。
 あいつらが、まだ無邪気な顔で寄ってくる。

◇ ◇ ◇

「北野くん。新入生代表挨拶、よかったよ」
 入学式の直後。帰りのホームルームを終えてざわざわとみんなが帰り支度をしている中、後ろの席の男子に声をかけられた。名札を見ると『栗本くりもと』とある。北野とは違う小学校出身の生徒だ。
「ありがとう」
 戸惑いながら礼を言った。「ああ、えっと」と栗本が頬を赤らめる。
「北野くん、テレビに出たことあるよね?」
「あ、出てた出てた。一回だけね。小五のときに」
「T小の同い年のやつがテレビに出てるって、俺らの学校でちょっと話題になってたんだよね」
「そうなの?」
 少し照れくさかったし、そのテレビ番組に思うところもあったが、よその学校で話題になっていたと聞いて悪い気はしなかった。
「あ、栗本、北野くんとしゃべってんの?」
 どやどやともう二人寄ってきた。名札を見ると『清水しみず』と『渡辺わたなべ』だ。「小林こばやし、小林」と清水がもう一人呼ぶ。最後の一人には見覚えがあった。彼とは同じ小学校で、一・二年生のときにクラスが同じだった。
 四人はミニバスケットボールで同じチームに所属していたのだという。
 彼らはとてもフレンドリーで、北野はすぐに仲良くなった。

 一週間後。
 委員会を決めるホームルームで、渡辺が手を挙げた。
「学級委員は北野くんがいいと思います」
 突然のことに北野は驚いた。続いて栗本も手を挙げる。
「僕も北野くんがいいと思います。新入生代表挨拶もしていたし、しっかりしているから」
 賛成、いいんじゃない、とあちこちから声が上がった。みんな学級委員はしたくないようだった。
「北野くんは?」
 担任の四十代半ばの女性教師が北野に聞いた。
「本人の意見も聞かなくっちゃ。北野くんはどう?」
「僕は……」
 教室を見回す。絶対に学級委員が嫌というわけではない。しかし雑事が多そうで、あまり気は進まない。とはいえ四方から圧のこもった視線を向けられる中、嫌ですと言うのは気が引ける。
「……別に、構いませんけど」
「じゃあ男子の学級委員は北野くんに決定。拍手!」
 ぱちぱちと拍手が起こった。後ろからつんつんと肩をつつかれる。振り向くと、栗本が「北野くんは学級委員にぴったりだよ。よかったじゃん」と歯を見せて笑っていた。
 俺が立候補したわけじゃないから別に何もよくないんだけど、などと厭味ったらしい台詞を吐けるわけもなく、北野は白けた顔で「ありがとう」と返した。

 日に日に四人に違和感をつのらせた。
 休み時間になると、四人は北野の席にわっと寄る。昨日のスポーツ中継の話や、週刊マンガ雑誌の話など、くだらないことで盛り上がる。楽しく話しているのだが、彼らが北野の発言に対し、突然興醒めしたように沈黙することがしばしばあった。
 沈黙のトリガーが分からず、北野は混乱した。
 おかしな、あるいは場の流れに反するような発言をして、そうなってしまうのならば理解できる。しかし、誰か一人が言ったことに他の三人が同調し、北野も同調をした、瞬間に、彼らが冷めた表情で黙りこくることもままあったのだ。
 四人はバスケットボール部に所属していた。
 北野は部活動に所属していなかった。四人にバスケットボール部に誘われたこともあるが、断った。北野は走るのは(スポーツ用の義足を用いた場合)速かったが、それ以外の競技はそう得意でもない。単純に、塾に学級委員に学外のボランティア活動にと、忙しかったこともある。
 ボランティアをやめれば時間ができる、と考えたことはない。なぜならボランティア活動が好きだからだ。
 始めたきっかけこそ母親だが(幼稚園の年長のとき、公園清掃のボランティアで母に車椅子を押されながらトングでゴミを拾った)、小学校の中学年からは己の意志で一人でボランティア活動に参加している。といって、別段福祉精神にあふれているわけではない。たださまざまなコミュニティや年代の人と出会い、協力して何かをする、というのが面白くていい息抜きになるからやっているのだ。
 部活動の仲間、というのは非常に強い繋がりらしい。
 栗本たちは、初め北野と友達になろうと寄ってきてくれたものの、学校生活を送るうちに四人の絆が強固になり、北野との間に隔たりができたのだろう。
 それならそれで構わなかった。
 北野には小学生の頃の友達もいる。人と打ち解けるのは得意な方だから、新しい友達だってすぐにできるだろう。
 しかし北野が校内で誰かとしゃべっていると、なぜか栗本たちは目ざとく見つけては割り込んでくるのだ。北野は『誰か』としゃべりたいのに、『誰か』は「あ、じゃあ、またね」と遠慮がちにそそくさと去っていった。
「あ、そんな。きみも一緒にしゃべろうよ」
 いつだって北野は慌てて引き止めた。しかし『誰か』は「そんな」と首を横に振るのだ。
「邪魔しちゃ悪いから」
 傍目には、北野と四人はいつもつるんでいる、とても仲良しのグループに見えていたのだろう。
 しかし寄ってくるのは四人の体だけで、心の中には常に何か冷たい一線を引かれているように北野は感じていた。四人がなぜ北野に寄るのをやめないのか、意味が不明で落ち着かなかった。
 もちろん、塾やボランティアに行けば、栗本たちに邪魔をされずに話せる相手もいた。
 しかし、北野は学校に、できれば同じクラスに友達が欲しかった。学校は平日毎日行くが、塾は週に二回だけだし、ボランティアに至ってはせいぜい月に一〜三回程度しか行けないからだ。そもそも塾は勉強をする場だからそんなに長くはしゃべれないし、ボランティアだって毎回知り合いに会えるとは限らない。
 北野はおしゃべりが好きだ。楽しくしゃべっていると頭がクリアになって、気が晴れる。
 ホームルーム前に、授業の合間の休み時間に、「俺が口をきけばまた妙な顔をされるのではないか」などと緊張することなく、気楽にしゃべれる友達が欲しかった。

◇ ◇ ◇

 アラームがうるさい。
 机に突っ伏していた北野は、うっすりと目を開く。がん、と拳で己の頭を殴る。いやに重たい。疲れは一切取れていない。
 夢ではない。回想だった。今日も俺は眠れなかった。
「んん〜……」
 いつまでも鳴り続けるアラーム音に反応してか、ばん、ばん、と砂日がベンチに寝転んだままでたらめにテーブルの上を叩き出す。北野はぼうっとそれを眺める。砂日がしかめ面で起き上がって初めて、ああ、アラームを止めなくてはいけないと思い至る。
「田舎だからか、朝は結構寒いね」
 北野はアラームを止めて言った。指先が少しかじかんで、画面をタップしにくいほどだった。
「はぁ?」
 砂日がスーパーの袋から今日の朝食のパンを取り出し、気味が悪そうに北野を見た。
 東屋の横を、散歩の老夫婦が通り過ぎていく。彼らは半袖で、剥き出しの腕で額の汗をぬぐっていた。