ベッドの上にあぐらをかき、しかめっ面でスマートフォンを睨む。夕飯後のフィーカを終えてゲストルームに入ってきた父が「何見てるの?」とぼくのスマートフォンを覗き込む。
「本当に何見てるの」
父が目をぱちくりさせた。
「……訓練」
「なんの?」
「モーハンを見てもドキドキしないようにするための」
ぼくのスマートフォンにはふさふさのまつ毛の画像がずらりと並んでいた。ちなみにその前はグリーンの瞳の画像を、さらにその前は手足の多いヒンドゥー教の神々の画像を表示させていた。
ふはっ、と父が破顔する。
「努力家だねぇ。どう? 効果は? 期待できそう?」
「いや全然」
きっぱりと言った。そもそもこの訓練は意味をなしていない。なぜなら、ぼくはふさふさのまつ毛を見てもグリーンの瞳を見ても手足の多い神々の画像を見ても、まったくドキドキしないからだ。モーハンを目にしたときだけ、ぼくの胸は激しく高鳴る。
「え、お父さんモーハンの写真とか持ってない?」
ぼくの質問に父が隣室を指した。
「撮ってきたら?」
まったく予想通りの返答に、ぼくはわざとらしく大きなため息をついた。スマートフォンを投げ出し、ぼすんとベッドに横になる。
父が持っていたコーヒーのマグカップをベッドサイドテーブルに置き、自身のベッドに腰掛ける。股のあたりで手を組んで首をかしげる。
「どうしてドキドキしたらダメなの?」
父は楽しそうに口角を上げている。ぼくは寝転んだまま口を開きかけ、思い直して体を起こすと父と向かい合って座った。
「ダメでしょ、それは」
「どうして?」
「だって、容姿に対してなんらかの反応をすべきではないよ」
「発言には気を付けるべきだと思うよ」父が目を細める。「褒めたつもりで発した言葉が、相手を傷つけることもあるわけだから。だけど心の中は自由じゃない?」
「心の中が勝手に表に出ちゃう場合は?」
「え?」父が大げさに目を見開く。「何? 『好きだ』って口走っちゃうの?」
おどけた父に、ぼくは「真面目に話してるんだけど」と眉根を寄せた。父が「ごめんごめん」と体勢を崩す。スウェーデンでの父ならば、きっとこんなふざけ方はしなかった。普段よりも子供じみたインドでの彼を、ぼくはあまり好きではない。
無言で父を睨みつけていると、彼は軽く咳払いをして「ごめん」と姿勢を正した。
「で。心の中が勝手に表に出ちゃう、っていうのはどういうこと?」
「真っ赤になっちゃうんだよ」
ぼくは真剣なトーンで答えた。
「なるほどね」父が頷く。「真っ赤になって、モーハンに不審がられるから困ってるってわけか」
「いや、別に不審がられてはいないんだけど」
むしろ『かわいくて好き』だと言われたんだけど。
その情報を伝えるのはさすがに恥ずかしくて、伏せておく。
父がぽっかりと口を開けた。「え?」とたずねたぼくに彼も「え?」と聞き返す。
「何?」
「いや。……不審がられてないなら、何も気にしなくてよくない?」
「よくはないでしょ」食い気味に答える。「人の容姿に対して赤面するのは、失礼だからやめるべきだとぼくは思う。あと、お父さんは自由だって言ったけど、ぼくは『心の中で人の容姿に関してあれこれ思うこと自体やめたほうがいい』って考えだから」
「筋金入りだよねぇ」父が眉を八の字にして笑う。「覚えてる? きみが四歳ぐらいのとき、ぼくとオリビアさんがテレビに映ったモデルの容姿を褒めたら、きみにこんこんと説教されたんだ」
オリビアとはぼくの母の名だ。ぼくは眉をひそめる。
「そんなことあったっけ」
「あったよ」父が肩をすくめる。「あれ以来、きみの前で容姿の話をするのはぼくたちの間でタブーになったんだけど。ぼくとオリビアさんは『本人に伝えるか否かは慎重に考えるべきだけど、自他の容姿に関してプラスの感情を持つこと自体は悪くない』って考えだから。白状すると、彼女と二人のときにテレビで芸能人を見て『綺麗だね』って言い合うことも、たまにはあるよ」
「うそ」
ぼくは裏切られた気分で呆然と父を見た。直後に「ん? ちょっと待ってよ」と身を乗り出す。
「タブーだったなら、なんで飛行機の中で『きみは絶対にモーハンの容姿が好きだ』なんて絶対にアウトな発言をしたの。あのとき、お父さんのこと結構軽蔑したんだけど」
「ごめん。あれは」父が二メートル超えの体をめいっぱい縮こまらせる。「完全に失言だった。モーハンからかわいい画像が送られてきたっていうのと、もうすぐモーハンに会える、もうすぐきみにモーハンを会わせられる、っていうのでめちゃくちゃ浮かれてて。でもさ、」
でもさ、の続きを父は口にしなかった。ただ笑みを含んだ目で『分かるでしょ?』とでも言いたげにぼくを見る。彼がそれを言い控えたのは、あるいはぼくのプライドをおもんぱかってのことかもしれない。
——でもさ、実際、きみはモーハンの容姿を好きになったでしょ。
「……あ〜……」
頭を抱えてうずくまる。父が「何」とおかしそうに聞く。ぼくは自身の髪をぐしゃりとかき乱す。
「……モーハンの容姿が好きだ、って気持ちをどうにかして消したい」
「消す必要はないでしょ。大切に心にしまっておけば」
「でもさぁ、」
ぼくは唇を尖らせた。そのまま黙る。
容姿に対していずれの感情も持つべきではない。たとえ口に出さずとも、人の気持ちというものは想像以上に目つきや態度に現れる。頭のてっぺんから足の先まで真っ白なぼくを、じろじろと物珍しそうに見る人々にどれだけうんざりさせられてきたことか。
だけど、どんなに考えまいとしても、モーハンのさらさらの黒髪は、どこかおっとりとした吊り目がちの明るいグリーンの瞳は、その瞳を縁取る長いまつ毛は、尾てい骨のあたりから突き出たしっぽのような細い腕は、華奢な体から思いがけずにょきりと生えた二本の右腕や二本の右脚は、『かわいい』『素敵だ』『たまらない』とある種暴力的ですらある衝動を持ってぼくの心を揺さぶるのだ。
「諦めて、受け入れちゃったほうが楽だよ」父が照明のリモコンに手を伸ばす。「十四年かけて育ててきた理念をいきなり変えろって言われても、難しいのは分かるけど。でも、一目惚れの衝撃ってどうにもできなくない?」
父が「消していい?」と手の中のリモコンを示す。
「それとも、まだ話す?」
「……消していい」
投げやりに答えてベッドに突っ伏する。父からの有益なアドバイスはすでに得た。ここから先はぼくのマインドの問題であって、これ以上彼との会話を続けることに意味はない。
——諦めて、受け入れちゃったほうが楽だよ。
——一目惚れの衝撃ってどうにもできなくない?
照明の落ちた部屋の中、父の言葉がぐるぐると頭の中を回る。
そうだ。そうだろうとも。
父の主張がよく分かる。
だからこそ、ぼくは枕に顔を埋めて「う〜ん……」と苦悶の声を漏らすほかなかった。