7 赤くなっちゃう

 昨晩、帰宅した父に「お互いとんでもない誤解をしていた」と報告した。
「誤解は解けた?」
「うん」
「それはよかった」
 父が目を細める。ぼくはほくほく顔で「うん」と頷いた。

 十一時二十三分。どきどきしながら時計を見つめる。
 昨日、モーハンに「お昼はいつもこのぐらいなの?」と質問した。彼は「いや」と恥ずかしそうに首を横に振った。
「いつもは十二時ぐらいだよ。今日は集中してたらこんな時間になっちゃってて。きみこそ、お昼はいつもこのぐらい?」
「いや、ぼくも大体十二時ぐらいだよ。今日は動画見てたらうっかり、って感じ」
 それなら明日も一緒にお昼ごはんを食べよう、ということで話がまとまった。ぼくは涼しい顔を装いながらも、本当は小躍りしそうなほどに嬉しかった。
 十一時三十四分、十一時四十八分、十二時、十二時十三分。
 十二時三十八分、ようやくモーハンの部屋の扉がかちゃりと開いた。
 ぼくは駆け出していきたい気持ちをこらえ、ぼうっとタブレットを見るふりをしながら全神経を廊下に集中させる。モーハンは落ち着いた足取りでまずシャワールームに寄って、それからリビングにひょこりと顔を出す。
「お昼にするー?」
 ぼくは初めて気が付いたように顔を上げ「ああ、じゃあそうしよっか」とソファから立ち上がる。
 ちなみに、今朝もぼくたちはここで顔を合わせた。モーハンは昨日までとは打って変わって「おーはよっ」とにこにこしながらレジ袋を掲げた。
「ダヒとクッキー買ってきたよ」
「え、もうお店開いてるの?」
 ぼくは意識的にレジ袋に視線を据えた。モーハンの顔を見たら緊張してしまうのは言うまでもないが、彼の朝の定番コーディネート、Tシャツと巻きスカートもなかなか刺激的だ。ハーフパンツと膝丈の巻きスカートではそう露出度は変わらないはずなのに、スカート自体が持つ危うさのせいか、その薄っぺらい布からすらりと伸びる褐色の足を見ると妙にどぎまぎしてしまう。レジ袋を持つ彼の手首には、今日もオレンジ色の花輪が鮮やかに巻かれていた。
「うん。あの売店六時には開くから」
「へぇ。ありがとう」
 何気なくヨーグルトとクッキーに対するお礼を述べてから、いや待てよ、と慌てる。
「お金。お金払うよ。スウィッシュするから番号教えて」
「スウィッシュ?」
 モーハンが首をかしげた。そうだ。登録にスウェーデンの銀行口座が必要なキャッシュレス決済・送金アプリをモーハンが入れているわけがない。
 きみの使っている送金アプリを教えて、とたずねかけてやめた。聞いたところで、それを使うにはインドの銀行口座が必要かもしれない。
「財布取ってくる」
 ゲストルームに行くため腰を浮かせたぼくを、モーハンが「待って待って」と制する。
「いい。いらない」
「でも……」
「別にぼくのおこづかいから出したわけじゃないから。ぼく、食事はいつも一人でとるから、ごはんに使ったお金はあとで父さんに言ったら返してもらえるシステムなんだよ。だから大丈夫」
 じゃあまたお昼に、とひらりと手を振ってモーハンが去っていった。
「晩ごはん、」
 目の前で昼食を求めて冷凍庫をがさごそやっているモーハンの背中に、思い切って声をかけた。ぼくは家族以外に声をかけるときは、いつも勇気と気合いがいる。
「……みんなと一緒に食べない理由は、聞いてもいい?」
 ぴたりとモーハンが動きを止めた。
「……親と一緒に食べたくないから」
 モーハンがそっけなく言った。ぼくは彼の様子をうかがいながら質問を続ける。
「それは……、……不登校になってから?」
「そのちょっと前から」モーハンがこちらを振り返らないまま答える。「この話やめない?」
「オッケー。やめよう」
 ぼくはすみやかに引き下がった。
 再び冷凍庫をがさごそやりだした彼の華奢な背中と、腰のあたりから突き出してだらりと下がるしっぽの腕をぼんやり眺める。しっぽの腕があるために、彼のTシャツはそこでめくれて、ズボンは少し下がった状態になる。しっぽの腕の付け根を中心に、ゆるやかなダイヤモンドマーク状に肌が露出している。
 こくり、と知らず喉が鳴った。
 ぼくは動揺してそこから視線を外す。軽く頭を振って、思考を冷静なところに戻す。
 モーハンの不登校の理由を知りたいし、『アンナがモーハンの体を嫌い』だというトピックにも関心がある。だけど、そこまで踏み込んだ話をするのはまだ早いのかもしれない。
 くるりとモーハンが振り返った。その口角はにこりと上がっている。
「プラオにする?」
 がしゃがしゃ、と同じパッケージの商品を二つワークトップに置く。
「プラオ?」
「ライスを野菜とスパイスと一緒に炊いたやつ。これなら全然辛くないよ。ライス好き?」
「好き好き」
 グルテンフリーでよい食材だ。ライスサラダやライスクッキーなどよく食べる。
 パッケージの写真を見ると、ピラフに似ていた。プラオ、ピラフ、プラオ、ピラフと頭の中で唱える。もしかしたら語源は一緒かもしれない。
 モーハンが電子レンジでプラオを温めている間、ぼくは電気ケトルで湯を沸かしてマサラチャイを入れた。
「スプーンってどこ?」
 昨日はバターロールだったから手で食べられたけれど、今日はライスだ。当然至極な質問をしたぼくに、モーハンはなぜか「ん?」と不思議そうな顔をした。直後に合点がいったように頭を揺らし「そこ」と引き出しのひとつを指す。ぼくはそこからスプーンを二つ取り出し、ひとつをモーハンに渡す。
 モーハンが冷蔵庫からヨーグルトの小分けパックを二つと何かのビンを取り出す。ビンを開け、スプーンでガバッとすくうと自分のプラオに乗せる。
「食べる?」
 彼にたずねられて、オレンジ色のソースをまとった一口サイズのそれをじっと観察する。
「何?」
「アチャールだよ。マンゴーのアチャール」
「マンゴーの何って?」
「アチャール。えーっと、あの、ピクルスとかみたいな」
「え、辛い?」
「すっぱくてちょっと辛い」モーハンがからかうような目つきでぼくを見上げる。「ちょっとだけにする?」
「……ちょっとだけにする」
 こくりと頷くと、モーハンがからから笑ってぼくのプラオにアチャールを一切れだけ乗せた。ふわふわと心が浮き立つ。こんなじゃれあいを父以外とするのは生まれて初めてだ。母は愛情深い女性だが、おそろしくクールなためこういったやりとりは一切しない。
 モーハンは同じスプーンで自身のプラオの上にヨーグルトをかけると、カシャリとシンクにスプーンを置いた。
 え、とぼくは静止する。
 モーハンがアチャールのビンを左の小脇に抱え、右手の一本にプラオのトレー、左手にチャイのマグカップを持って冷蔵庫に向かう。空いている右手で冷蔵庫のドアを開け、アチャールをしまう。こちらを振り返り、立ち尽くしているぼくに「ん?」と首をかしげてから「先行ってるねぇ」としっぽの手でリビングを指した。
 ぼくはキッチンでしばらく待った。モーハンがはにかみながら「うわ、めっちゃ天然しちゃったよ」と新しいスプーンを取りにくるのを。
 待てど暮らせどモーハンはやってこなかった。
 彼の分のスプーンを持っていくべきかどうか散々悩んだ末、結局持たずにリビングへ向かう。
「なんかあった? 遅かったね」
 ダイニングチェアに座ったモーハンが、口をもぐもぐさせながらぼくを見た。ぼくは愕然がくぜんとする。彼の右手の指先がプラオの中に突っ込まれていたからだ。
 モーハンはフリーズしたぼくの視線を「ん?」と辿り、「ああ」と口元を緩めた。
「安心して。別におかしくなってないから。インドでは、手で食べるのが正式な作法だよ」
「え?」
「本当だって。調べてごらん」
 ぼくはダイニングテーブルにトレーとマグカップを置くと、すぐさまスマートフォンで検索した。表示された結果に「本当だ……」と驚愕きょうがくの声を漏らす。
「でしょ」モーハンが得意げに笑う。「最近はスプーンを使う人も多いけど。ぼくは手のほうが慣れてるし、楽だなぁ」
 ぼくはぽかんとしながら席についた。
 モーハンの指先が器用にライスをすくい、口に運ぶ。またライスに指を突っ込んで、こちょこちょ動かし、適当な量を的確にすくうと流れるように口へと入れる。あんなに細かくてパラパラしたものをよくもこぼさずスムーズに手で食べられるものだ、と見とれていると「ん、」とモーハンが顔を上げた。ぼくはとっさに目を逸らす。モーハンが小首をかしげる。
「不愉快? 不愉快だったらスプーンで食べるけど」
「え、違う」ぶんぶんぶんと首を横に振る。「器用ですごいなって、見とれてただけ」
「そう? ならよかった」モーハンがほほえむ。「ダグってかなり無表情なタイプ?」
「だと思う」
 心の中では百面相なのだが、どうにも感情が表に出づらい。
 少しの間を置いてから、モーハンが言いにくそうに口を開く。
「……冷たい顔でさ、凝視されたりそっぽ向かれたりすると、嫌われてるのかなとか、怒ってるのかなってちょっとなる」
「え、嫌ってないよ。怒ってないし」ぼくは慌てふためく。「え、ど、どうしよう。無表情の直し方ってあるのかな。表情筋のトレーニングとか、そういうのって効果ある?」
「台詞は慌ててるのに顔は無表情なんだよなぁ」モーハンがふにゃりと笑う。「いいよ。大丈夫。もうきみがそういうタイプだって分かったから。でも……」
「でも?」
「目は、できれば逸らさないでほしいかなぁ……。ぼく、人に目を逸らされるの結構苦手で」
 ぼくはぐっと息を止めてモーハンを見た。黒々とした長いまつ毛越しに覗く明るいグリーンの瞳は何度見ても本当に綺麗で、みるみる顔が熱を持つ。
 逸らしてはいけない、と懸命に彼の目を見つめながら、鼻のあたりに手をやってなるべく自分の顔を隠す。
「……赤面、き、気持ち悪くない?」
 決死の思いでした質問に、モーハンは「ないない」とあっさり首を横に振った。
「逸らされるほうが何倍もやだし。ていうかぼく、無表情なきみが赤面してるの、かわいくて結構好きなんだよね」
 軽やかに笑ったモーハンに、ぼくの顔がさらに赤くなる。
 かわいくて好き?
 モーハンがぼくのことを、かわいくて、好き?
 ぐるぐると混乱状態のぼくに対して、モーハンはなんでもない顔で食事を再開する。
 ぼくは赤面とパニックをごまかすようにプラオを頬張る。なるほどこれは辛くない。ばくばくと食べ進めるうちに知らずアチャールを口に入れていた。突如現れた刺激物に目を白黒させる。それを和らげるため、またプラオをかき込む。
 モーハンはぼくの一連の動作を『おいしくてがっついている』と判断したらしい。「おいしいねぇ」と嬉しそうに目を細める。
 昨日誤解が解けてから、モーハンはすっかり初めて会ったときと同じ態度に戻っていた。人懐っこくて優しくておしゃべりで、にこにことよく笑う。
 ふと疑問を抱く。
「きみって友達がいないんだよね?」
 ぼくの問いかけにモーハンがサッと暗い表情になった。ぼくは「あ、違う」と打ち消すように素早く右手を振る。
「ぼくもいないんだけど。きみは人好きしそうっていうか、友達が多そうなタイプに見えるから不思議で」
「え、ダグもいないの?」
「いないよ。一人もいたことない」
「一人も?」
 モーハンが目を見開いて大きな声を出した。
 そんなに驚かれると『友達がいたことがない』という己のステータスがひどく恥ずべきもののように思えてきて、「いや、まぁ、うん」とごにょごにょ言ってから「きみは?」と彼の話題に戻す。
「今いないだけで、昔はいたの?」
「いたよ。たくさんいた。みんながぼくのまわりに集まって、すごくよくしてくれて……」誇らしげに胸を張る。直後にきまりが悪そうに目を伏せる。「……まあ、正確に言うとあれは『友達』じゃないんだけど」
 どういうこと、と追求してもよいものなのか悩む。
 モーハンが上目でちらりとぼくを見る。薄く唇を開き、言葉を探すようにちょっと動かし、結局何も言わずに閉じて、また目を伏せる。
 思い悩むように黙りこくった彼の、目元に落ちるまつ毛の影をじっと見る。知らず『綺麗だな』と見とれていた自分に気付き、嫌悪した。苦悩する人と相対しながらその容姿を評価するなど、なんという浅ましさだ。
 なかば無意識にプラオを食べ進めていたらしいモーハンは、三度指先でくうをつかんでから「ん、」とトレーに視線を落とした。からのトレーを目視し、マグカップを覗き込む。わずか二口ばかり残っていたマサラチャイを一息に飲み干すと、右手のひとつにトレー、左手にマグカップを持って立ち上がる。
「じゃあ、また明日ね」
 微笑して、空いているほうの右手をひらりと振る。
 引き止めたい。
 だけど、引き止めたとしてぼくは何を話せばよいのだろう。『正確には友達じゃない』という発言の意味を掘り下げて聞くべきなのか、はたまたまったく違う話題を振るべきなのか。
 正直なところ、ぼくはモーハンと同じ空間にいられるだけで幸せだから、無理に何かを話す必要はないと思う。しかしモーハンからしてみれば、引き止めたぼくが無言でいては『こいつは会話をするわけでもないのになぜぼくを引き止めたのだ?』と不気味だろう。
 モーハンがリビングを去ってゆく。
 ゆらゆらと揺れるしっぽのような彼の腕を、ぼくはただ黙って見送った。