モーハンに声をかけるタイミングを逃さないよう、ゲストルームではなくリビングにずっといた。
しかし肝心のモーハンは、いつもそうなのか、はたまたぼくがリビングに陣取っていたせいなのか、自室にこもりきりだった。
もちろん折々でトイレに立つ音はする。だがその一瞬を狙って声をかけるのは至難の業で——いや、言い訳だ。入るタイミングで声をかけるのは難しいにしても、出てくるのを待って声をかけるのは十分に可能だったはずだ。臆病なぼくは、彼がキッチンに飲み物を作りにいった五分間ですら、リビングのソファから一ミリも腰を浮かせることができなかったのだ。
彼のことばかりが気にかかって、動画を見ても勉強をしてもネットサーフィンをしても、まるで頭に入ってこない。
十一時二十七分。
お昼だ、と自分に言い聞かせる。お昼の準備にはきっと五分以上かかる。そのタイミングでキッチンに顔を出して、『あれ、きみもごはん? ちょうどいいから一緒に食べない?』と誘って……。シミュレーションをしながら時計を睨む。
十一時三十一分。十一時四十五分。十一時五十二分。十一時五十八分。十二時七分。十二時十六分。十二時半。十二時四十八分。十三時。十三時半。十四時。
あれ?
知らぬ間にモーハンは食事を終えたのだろうか。いや、これほど近距離で全神経を集中させていながら、彼がキッチンに移動したことに気が付かないのはありえない。
そろり、と廊下に出る。
モーハンの部屋は静まり返っている。
そろり、ともう一歩。
かちゃり、とにわかに彼の部屋の扉が開いた。
驚きすぎて声も出ない。息を呑んで立ち尽くしていると、部屋から出てきたモーハンが何気なく顔を上げて「わっ」と肩をびくつかせた。黒々とした髪の間から覗く宝石のようなライトグリーンの瞳に射られ、反射的に顔を伏せる。と、彼の三本の足がシャワールームに向かいかける。
「あの、」
ぼくは慌てて呼び止めた。頑張れ、ここを逃したらもうチャンスはないと思え。
「あの、あのあのあの」
言葉に悩んで口をつぐんでいる間に去られてしまう、という経験は嫌というほどしてきた。とにかく時間を稼ごう、と意味のない言葉を繰り返す。
「何?」
モーハンが怪訝そうに聞いた。そちらを見る勇気はないが、目力のある彼の視線を痛いほど肌に感じる。ぼくは「あのあのあの、」と続けながら必死に頭を働かせる。
どうしよう。何から話そう。彼について知りたいことが多すぎて、どこから取り組めばよいのか見当もつかない。そう、そうだ。さっき立てた計画を思い出せ。まずは食事に誘うのだ。
「あ! の、……よかったら、ご、ごはん、一緒に食べない?」
一昨日はお茶を断られて、昨日は一緒に出かけるのを断られた。答えを聞くのが怖すぎて、破裂しそうなほどに暴れる心臓を服の上からぎゅっと手で押さえる。
「え?」モーハンが意外そうな声を出した。「まだ食べてないの? もう十四時だよ」
『きみが出てくるのを待っていたんだ』?
『きみだってまだ食べていないじゃない』?
どちらを返そう。どちらもストーカーみたいで気持ちが悪い気がする。
返事に窮していると、再び彼の足がシャワールームに向かいかけた。ぼくは急いで「あのあのあの」と唱え始める。
普段のぼくなら、もう諦めていただろう。なんだよ、返事も待ってくれないのか、じゃあもういいよ、と友達になるチャレンジを放棄していただろう。だけど、今目の前にいるのはモーハンだ。
「ルードヴィグさんにぼくと仲良くしろって言われた?」
乾いた声でモーハンが聞いた。
ぼくは「えっ?」と面食らってから「うん」と頷いた。父はぼくがモーハンと友達になることを応援してくれている。
短い沈黙があった。モーハンが投げやりに言う。
「あのさ。ルードヴィグさんに言われたからって、無理してまでぼくと仲良くなろうとしてくれなくてもいいよ。そういうの全然嬉しくないから」
無理?
無理とは?
混乱していると、モーハンが真面目なトーンで聞いた。
「ぼくの体が気持ち悪い?」
驚いて顔を上げる。モーハンが苦々しく笑う。
「図星だ」
「違う」急いで否定する。
「違わない。隠さなくてもいいよ。別に慣れてるから」
「違うよ」ずっと見ていると緊張するから、ほんの一瞬だけ視線を上げて彼の顔色を確認してはまた伏せる、ということを繰り返す。「本当に違う。ぼく、人の見た目で態度を変えるやつとか大嫌いなんだ」
「“あたらしい”人だね。だけどそんな理想を掲げていても、生理的嫌悪はどうにもならない」
“あたらしい”人とは? 先進国の人間を指す言葉だろうか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。ぼくは「違うよ」と言い続ける。モーハンはちっとも聞き入れてくれない。
「別にいいんだ、本当に」モーハンが長いまつ毛を伏せて歪に口角を上げる。「気にしないで。当たり前のことだよ。アンナだって、ぼくの体が嫌いだ」
「アンナさんが?」
びっくりして聞き返すと、モーハンがハッとして逃げるようにシャワールームの扉を開けた。ぼくはとっさに彼の細い手首の一本をつかむ。モーハンが虚を衝かれたように振り返る。ぼくは「違う」と繰り返す。アンナの件も気になるけれど、まずは彼に「違う」と分かってほしい。何をどう話せば納得してもらえるのか、頭がぐちゃぐちゃでまったく思考がまとまらない。ただ引き止めるために「違う」を繰り返す。
「違うよ。違う。違うから」
馬鹿みたいに「違う」を繰り返すぼくに、モーハンが困ったように眉を八の字にした。何十回目かの「違う」を口にする頃、ようやくぼくは少し落ち着いてくる。ひとつ深呼吸をしてから話を始める。
「違うよ。本当に違うんだ。きみの体を気持ち悪いだなんて、一度たりとも思ったことがない」
むしろ初めてきみを見たとき、あまりの美しさに神像だと誤解したぐらいなんだ。
無論、そんな気持ちの悪い発言を口にはしなかった。
「嘘だ」モーハンの瞳が揺れる。
「嘘じゃない」
「嘘だよ。絶対嘘。だって、初めて会ったとききみはぼくを見て勢いよく顔を背けたでしょう。初めてのときだけじゃないよ。きみはいつだって、ほんのちょっとでもぼくを視界に入れることを嫌がっているんだから」
愕然とした。
「違う」激しく首を横に振る。「違うよ、それ。ぼくがきみを見ないのは、きみの体が気持ち悪いからじゃない」
「じゃあどうして?」
「緊張するから」
つい正直に告白してから、この発言は気味悪がられる類のものではないか、と背筋が寒くなる。
「緊張?」モーハンが眉をひそめる。「なんで? ヒンドゥー教じゃないでしょ?」
「ヒンドゥー教?」質問の意味が分からない。
「なんで緊張するの?」
『きみの顔と体があまりにタイプだから』
そんな下劣な発言をできるわけがない。つい先刻『見た目で態度を変えるやつとか大嫌い』と言ったのはなんだったんだよ、と呆れ果てられてしまう。
人の見た目にいずれの感情も持つべきではない、という考えは今も健在だ。にも関わらず、モーハンの容姿にひとりでに心が動いてしまうものだから、本当に頭を悩ませている。
「……人と目が合うと緊張するタイプなんだ」
どうしても適当な返答を思いつけずに嘘をついた。実際には、他人と話すのは緊張するけれど、モーハン以外の誰と目が合っても緊張なんてしない。
「本当に? だって、ぼくの父さんとかアンナに対しては普通じゃなかった?」
「……親世代は、大丈夫。同世代だけ緊張する」
嘘に嘘を重ねる。モーハンが真偽を確かめるようにぼくを見つめる。ぼくは目を伏せてその視線から逃れる。
ふと、彼の手首をずっと握り続けていたことに気が付いた。慌てて離す。と、モーハンがぼくに向き直ってぱっとぼくの両手を取る。どくりとぼくの心臓が大きく跳ねる。
「こっち向いて」
え?
思いもよらない要求にぼくはフリーズした。「こっち向いて」とモーハンが繰り返す。
ごくり、とつばを飲み込む。三度深呼吸をしたのち、おそるおそる視線を上げる。長いまつ毛に縁取られた美しい瞳とまともに相対し、急いで逸らす。
「逸らさないで」
モーハンがきっぱりと命じた。どくどくどく、と自身の心臓の音がやかましい。ぼくはもはや泣きそうになりながら、やけくそに近い気持ちでぐっと彼の顔面を直視する。顔が熱い。今ぼくの顔を擦ったら、キャンプファイヤーぐらいできそうだ。
「ああ、本当だ」ふにゃりとモーハンが笑う。「目が合うと、緊張して赤くなっちゃうの?」
モーハンに視線を据えたまま浅く頷く。
「もう逸らしてもいいよ」
彼の許可が下りるなりぼくは顔を伏せた。ぜえぜえと呼吸が荒い。
「ごめんね」
唐突にモーハンが謝った。
「え?」
「だから、ごめん。ぼく、きみのことを誤解してめちゃくちゃひどい態度を取っちゃってた」申し訳なさそうに首を縮める。「ぼく、きみがてっきり、——不登校のぼくを励ますために、だっけ? そのつもりで来てくれたきみが、実際にぼくを見たら無理すぎて、だけどルードヴィグさんに頼まれてるから嫌々声をかけてくれてるのかなって、そう思い込んでたから」
「違うからね」
「うん、違うんだね」モーハンが頭を揺らす。「本当にごめん」
「いや、全然いいよ。もともとはぼくの態度が紛らわしかったのが悪いんだし」
二人の間にほのぼのとした沈黙が流れる。
「えっと……、ごはん、食べるんだっけ?」
モーハンが照れくさそうに聞いた。二人でぎこちなくキッチンに移動する。
「どれがいい?」
モーハンが引き出しを開けて、ずらりと並ぶレトルトカレーを見せながら聞いた。どれがなんなのかちっとも分からない。「きみの好きなのでいいよ」と返すと、モーハンが「んー」とちょっと悩んでから「じゃあ、これ」とひとつを取り出した。
それを器に開けて温めてから、半分だけ別の容器に移す。ぼくが不思議に思って見ていると、彼が「あ、これ一袋で二人分なんだよ」と説明してくれた。
「一人のときは半分冷蔵庫に入れておいて、あとで食べるんだけど。二人だと一度に食べ切れていいね」
久方ぶりに人懐っこい笑顔を向けられ、ぼくは赤面する。
カレーの器とバターロールの大袋、ミルクティのマグカップを二人でリビングまで運ぶ。ちなみにミルクティはお湯で溶くスティックタイプのもので、お気に入りらしく引き出しの中に大量にストックされていた。シナモンや、なんだかよく分からないいい香りがほわりとする。
「これなんのフレーバーティ?」
ダイニングテーブルに向かい合って着席する。
「フレーバーティ?」モーハンが小首をかしげる。「チャイだよ。マサラチャイ」
「マサラチャイ」聞き慣れないその単語を繰り返す。「いい匂いだね」
「でしょ」
モーハンが嬉しそうに目を細めた。
食事を始めかけて、あ、スプーンを忘れたと腰を浮かせる。と、モーハンがちぎったバターロールでカレーをディップした。なるほどそれでいいな、と座り直して真似をする。一口食べて悲鳴を上げる。
「か、っら」
「え」モーハンが目を見開く。「大丈夫?」
「いや、うん、いや、」
大丈夫ではない。めちゃくちゃ辛い。まだ何も付けていないバターロールを口に入れて辛さを和らげようとする。ダメだ。全然効かない。喉と口がヒリヒリと痛い。
「え、ダグ辛いの苦手?」
モーハンがあたふたとぼくにチャイのマグカップを差し出す。ぼくは受け取りながら「いや、うん、いや、」と繰り返す。
苦手ではない。苦手ではない、つもりで十四年間を生きてきた。これまでの人生で食べたピリ辛料理は好きだったし、インドに来てから食べたバターチキンカレーもおいしかった。だけどこのカレーは度を越している。
ごくりとマサラチャイを飲む。スティックの粉末の中にあらかじめ甘味料も入っていたようで、甘い。ごく、ごく、ごくと一気に飲み干す。
いつの間にかモーハンが姿を消していた。しばらく待つと、彼が右手の一本に電気ケトル、もう一本にシュガーポット、左手にマサラチャイのスティックを何本か持って現れた。
「ダヒがあったらよかったんだけど。ちょうど今切らしてて。お菓子も今、スパイシーなスナックしかなくて」
「ダヒ?」
「ダヒ。英語で……なんだっけ? あれ、あの、牛乳を発酵させたやつ」
「ヨーグルト?」
「それそれ。売店で買ってこようか?」
「いや、大丈夫」
モーハンがぼくのマグカップに新しくマサラチャイを作ってくれた。「ありがとう」と受け取る。モーハンがバターロールで激辛カレーをディップして、平気な顔でぱくりと食べる。
「パヴバジは結構スパイシーだよね。ぼくは好きだけど。このメーカーのレトルトの中では、一番辛いかも」
パヴバジ、というのがこのカレーの名前らしい。ぼくはバターロールを大きくちぎり、どきどきしながらカレーをほんのちょっとだけディップする。「え?」とモーハンが笑う。
「食べるの? いいよ、残しても」
「いや、食べ残しは環境保全的にあまりよくないし」きみが初めて半分こしてくれた、記念すべきカレーだし。「さっきはこんなに辛いと思ってなかったからびっくりしただけで、心の準備をして食べたら大丈夫だと思う」
「大丈夫かなぁ」モーハンがぼくのマグカップに山盛り二杯の砂糖を入れる。「パヴバジにも入れる?」
「え?」冗談なのか本気なのか分からない。「それってありなの?」
「ありあり。インドでも小さい子はよく料理に砂糖を入れるよ」
「……うーん。でも、まずはこのままいってみる」
普段のぼくならば『味覚は人それぞれなのだから』と迷わず砂糖を入れていただろう。しかし今、モーハンの前で小さな子供と同じ行動を取るのは、なぜだか無性に嫌だった。
意を決してぱくりと食べる。あまりの辛さに悶絶する。「ほらぁ」とモーハンが呆れ笑いを浮かべる。
「だから言ったじゃん。もう残しなよ」
「いや、うん、いや、」
意地を張り、続けざまにカレーをディップして食べる。ぱくぱくと口に放り込むうち、次第に辛さを感じなくなってくる。舌が慣れてきたのか? いや、いや、いや。一時的に舌が麻痺していただけで、やっぱり全然辛い。
ぶぶ、とモーハンのスマートフォンが短く震えた。
彼がスマートフォンに目を落とす。ぼくは素早くシュガーポットに手を伸ばし、山盛り四杯の砂糖をカレーに入れる。
視線を感じて顔を上げた。
笑みを噛み殺してぼくを見ていたモーハンが、視線が交わるのと同時にすいっと長いまつ毛を伏せる。はいはい、見なかったことにしてあげるよ、とでも言いたげな表情で静かに笑う。
とくりと胸が高鳴る。
よかった、容姿だけではない。
ぼくはモーハンという人間が、好きだ。