4 ショッピングモール

 翌日、ぼくたちは四人でショッピグモールへ行った。ぼく、父、ラジェシュ、モーハンの四人だ。アンナは会議だと言い張って来なかった。
 モーハンは初め「行かない」と言っていたが、「ショッピングモールに行くだけだよ。他はどこにも行かない。アンナさんは来れないって。どう? 一緒に行かない?」と誘うと、ちょっと考え込んでから「……じゃあ、行く」と乗ってくれた。
 ぼくが誘ったわけではない。父が誘ったのだ。
 ぼくにも誘うチャンスはあったのに。

 今朝は六時半に起床した。
 隣のベッドの父を起こさぬよう、抜き足差し足でキッチンに移動した。他のみんなもまだ寝ているようで、家の中は静まり返っていた。
 あるものはなんでも好きに食べたらいいよ、と昨日ラジェシュから言われていた。一通りキッチンの中をきょろきょろしたのち、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れて、大袋に入ったバターロールを三つ皿に乗せる。
 もそもそとリビングのローテーブルで朝食をとる。
 カチャン、と玄関のロックを解除する音がして飛び上がった。
 息を詰めて玄関のドアを見つめる。間取り的に玄関からリビングのローテーブル側は丸見えだ。なんのためらいもなくドアが開かれる。すわ泥棒かと体を固くしていたぼくは、扉の向こうに見えた人物にほっと胸を撫で下ろす。
「お、はよう」
 思い切って声をかけた。彼はぼくのことがまったく意識に留まっていなかったらしい。滑るようにリビングを横切って自室へと向かいかけていたモーハンが、びたりと足を止めてバッとぼくを振り返る。ぼくは同じ速度で顔を伏せた。モーハンと目が合うと、なぜだか全身がほてって顔が赤くなってしまうのだ。意味不明なタイミングでの赤面で、彼を気味悪がらせてしまうことは避けたい。
「びっくりした……」
 モーハンがささやいた。ぼくはさらに小さな声量で「え、ごめん」と謝る。緊張で喉が全然開かない。
 沈黙が訪れた。
 どうしよう。ぼくは懸命に頭を働かせる。何から話そう。
 昨日、お寺へ行きたいなどと馬鹿げた提案をしてしまったことに対する謝罪? ぼくの話がつまらなくてごめんね、というび? あるいは、昨日の夕飯時に今日みんなでショッピングモールへ行くことが決まったよ、という報告? よかったらきみも一緒に行こうよ、という誘い?
 いや、それよりも。
 モーハンはこんな早朝から一体どこへ行っていたのだ?
 するり、とモーハンが無言でリビングを出ていった。
 ぼくは「あ」と声にならない声を上げてその後ろ姿を目で追う。彼のトップスはTシャツで、ボトムスは——カラフルな巻きスカート?
 ぼくらを空港に迎えにきてくれたときのモーハンは長ズボンで、昨日の歓迎パーティのときの彼はハーフパンツだった。よく見ると、今の彼の右手首の一本には鮮やかなオレンジ色の花輪が巻かれている。ああいうフェミニンな、あるいはジェンダーレスなファッションも好きなのだろうか。ひょっとすると伝統的な、はたまた宗教的なファッションなのかもしれない。なんにせよよく似合っている。
 モーハンがキッチンに姿を消した。かちゃかちゃというかすかな物音が聞こえる。ほどなく湯気の立ち昇るマグカップとバターロールを手に現れ、そのまま自室へと入ってしまう。
 ぼくはただ、ソファから目いっぱい首を伸ばし、それを見ているだけだった。

「おいしかったぁ」
 モーハンが笑顔でぼくの父を見上げる。父が「おいしかったねぇ」と目尻を下げる。
「ザ・レストランのごはんって感じ。ちょっと重たすぎる気もするけど、たまにはこういうのもいいよねぇ」
 モーハンの言葉に、父が「うんうん、分かる分かる」とやに下がる。
 みんなでショッピングモールの中にあるレストランで食事をしていて、気付いたことがある。モーハンはぼくだけではなく、ラジェシュともほとんど目を合わせない。昨日のアンナしかり、モーハンの不登校をきっかけに家庭内がぎくしゃくしてしまっているのだろう。
 モーハンはぼくの父に対してのみ、初めてぼくと会ったときのような人懐っこい態度で接する。
 いいなぁ。
 羨ましく思って眺めていると、会計を終えたラジェシュが店の外で寄り集まっているぼくたちのところまでやってくる。「どうする?」と父が一同を見回す。インドでの父は、スウェーデンでの父の五倍は仕切り屋だ。
「ぼくたちの見たい店と、きみたちの見たい店はきっと違うよね。二組に分かれようか?」
 え、とぼくは父を見上げた。父がぱちんとウインクをする。ぼくは体温が上昇するのを感じた。父は、ぼくとモーハンを二人きりにしようとしてくれているのだ。
「ぼくは……一人でお茶でもしようかな」ふっとモーハンがそっけない顔でよそを向いた。「帰る頃にチャットを入れて。それまで適当に過ごしておくから」
 しん、とみなが黙りこくる。
 とん、と父に軽く背中を叩かれた。ぼくは驚いてまた父を見上げる。父がほほえみ、ぼくに向かって浅く頷く。
 そうだ。勇気を出して行動しなければ。
「お、お、お、お茶が好きなの?」
 決死の覚悟で声をかけた。目が合うと絶対に余計に緊張してしまうから、視線は彼の足元に据える。同じデザインの靴が三つ並んでいる。左足用の靴がいつも一足余るな、とどうでもいいことを一瞬だけ考える。
「え……」
 モーハンの声は明らかに困惑していた。「……まあ、うん」と頭を揺らしたのち(これはラジェシュもよくするのだが、インドにおける『イエス』のジェスチャーだ)「あの、でも」と続ける。
「お茶は、好きだけど。でも、それ以前にさ。ほら、あんまりうろうろすると疲れるから」
「運動不足?」
「ん?」
 モーハンが怪訝けげんそうな声を出した。ぼくの視界の端から父とラジェシュの靴が消える。つと顔を上げると、父がジェスチャーで『あっちの店に行ってくる』と示していた。ぼくは頷く流れで再び視線を落とし、モーハンとの会話に戻る。
「父から、きみがあんまり学校に行けてない、って話を聞いた。学校だけじゃなくて、家から出ること自体ほとんどなかったりする?」
「……ん?」
「えっと、だから、」
 ぼくの会話能力が低すぎるせいで、全然思うように話を展開できない。しどろもどろで説明を重ねる。
「えっと、つまり。あの、きみがずっと家にいて、だから運動不足なのかな、って。ほら、運動不足だとちょっと歩いただけですごく疲れたりするじゃない」
「いや、それは分かるけど……」
 話が伝わっていた喜びに、ぼくは顔をほころばせた。しかし、ぼくの表情のとぼしさを考えると、モーハンからは多分無表情に見えている。
「えっと、」とにかく会話を続けたい。なんの話題がよいだろう。できれば楽しい話をしたいが、ぼくがインドに呼ばれたそもそもの目的は『不登校のモーハンの悩みを聞いてあげるため』である。となれば、まずは不登校の詳細を聞くべきだろう。「不登校になってから、結構長いの?」
「いや?」モーハンが簡単に首を横に振った。「今年の夏休みが終わってからだから。五月……二十六日から」
 ぼくは目を剥いた。
 今日が六月の二十三日。父からインド行きを打診されたのが、六月十一日だ。
 父の深刻そうな口ぶりと、ぼくがインドに行くと聞いたときの喜びようから、てっきり二年も三年も不登校なのだと思い込んでいた。たかだか二週間の不登校で、父はあんなにシリアスになっていたのか。ラジェシュとアンナから真剣に相談され、彼らの不安が伝播でんぱした結果だとしても、それはそれでラジェシュとアンナは心配性かつ過保護すぎるのでは?
「あれ?」黙りこくったぼくにモーハンが眉をひそめる。「なんか変だな。あれ? えっと……、きみはなんのためにインドに来てくれたの?」
「……不登校のきみを励ますために」
「ルードヴィグさん!」
 今まさに紳士向けファッションの店に足を踏み入れかけていた父が、「はい!」と叫んでぼくらのところまで駆けてきた。
「呼んだ?」
 目をきらきらとさせながらたずねた父に既視感を覚える。
 ああ、そうだ。
 五年前、ぼくは子猫を拾った。動物病院で診てもらってから、家族会議で『うちで飼おう』と決定した。その一週間後にぼくに軽い猫アレルギーがあることが判明し、子猫は母の友人のところにもらわれていったのだが、我が家にいる間に一番溺愛していたのは間違いなく父である。猫がニャアと呼ぶたびに飛んでいっては「なんだい? どうした?」と目尻を下げていた父の記憶が、今鮮やかによみがえった。
「あの、ダグにどこまで話してあるの?」
 モーハンの問いかけに父があっさりと首を横に振る。
「どこまでっていうか、ほとんど何も話してないよ。きみが今学校に行ってないことと、きみに今友達がいないことは話した」
「それだけ?」モーハンがぽかりと口を開ける。
「うん。だって、ぼくの知っているきみの情報はほとんどラジェシュからの又聞きだから。真偽のほども分からないし、中にはまだきみがダグには教えたくない情報もあるだろうし」父が微笑する。「言いたくないことを無理に言う必要は全然ないからね。もしダグに聞かれても、言いたくなかったら『言いたくない』って断っちゃって大丈夫。だって、プライバシーは尊重されるべきだからね」
 モーハンが目をぱちくりぱちくりさせた。そのたびに長いふさふさの上まつ毛が下まつ毛と絡まって、間近にいたらまばたきの音が聞こえてきそうだな、とぼんやり見とれる。と、その目がゆっくりと細められる。
「……ありがとう」
 はにかんで礼を言ったモーハンに、ぼくの心臓がどくりと跳ねる。笑顔がたまらなくかわいい。いや、そんな造形に関わるような感想を抱くのは、下品だからやめたほうがよい。頭を軽く振って気持ちを切り替え、父の言葉を咀嚼そしゃくする。はたとあることに気が付き「ちょっと待ってよ」と思わず言った。
「『ダグに聞かれても“言いたくない”って断っちゃって大丈夫』ってどういうこと? ぼくには『仲良くなりたいならいろいろ聞け』って言っておいて」
 スウェーデン語で聞いたぼくに、父が英語で「三人で話しているときに、一人だけが分からない言語を使うべきではないな」と返した。ぼくはなおもスウェーデン語で続ける。
「一瞬。一瞬だけ。これはお父さんとだけ話したい」
 この会話をモーハンに聞かれるのはとても恥ずかしいような気がする。父がちょっと考えてからモーハンに声をかける。
「ごめん。一瞬だけダグとスウェーデン語で話をしてもいい?」
 モーハンが困惑した様子で軽く頭を左右に揺らした。父がぼくに向き直り、スウェーデン語で話し始める。
「ぼくは『言いたくないことは言わなくて大丈夫』って言ったんだ。無理強いをすべきではないし、初対面の人にも言える情報、知り合いになら言える情報、友達になら言える情報、親友にしか言えない情報、色々あって当たり前だよね。きみに知りたいことがあるとして、モーハンが言いたいなって気持ちになるまで待てない?」
「待てる」
 即答した。「待てるね」と父がくしゃりと笑う。
「なら、待ちなさい。もちろんただ黙って待っていても、一生何も分からないままだよ。ちゃんと対話して、時間を共有して、仲良くなる努力をしながら待ちなさい」
 ぼくはこくりとつばを飲み込むと、意を決してモーハンに向き直った。顔が熱い。モーハンがぎょっとしたように身構える。ぼくは勇気を振り絞って英語で誘う。
「あの。……よ、よかったら、ぼくも一緒に……お茶をしてもいい?」
 モーハンが視線を泳がせた。それから言いにくそうに口を開く。
「……うーん、できれば、ぼくは一人でお茶をしたいかな……」