あからさまに口数の減ったモーハンと、ぎくしゃくとした空気を抱えたまま帰宅した。
一度思い切って「ごめん。ぼく何か不快な発言をした?」とたずねてみたが、すべてを拒むように「何も」と返され、すごすごと引き下がった。
「おかえり!」
玄関を開くなりラジェシュの明るい声が飛んできた。すぐあとに父の穏やかな「おかえり」と、アンナの少し緊張した「おかえり」が続く。
「今日はごちそうだよ。このあたりで一番人気の北インド料理専門店であれこれテイクアウトしてきたんだ。どれもおいしそうだから決めきれなくて、」
にこにこと上機嫌でこちらに寄ってきたラジェシュが、どんよりとしたぼくたちの空気に気付いて「え」と困惑の声を上げる。
「ぼく手術しないから」
モーハンが強い口調でぶつけた。え、と三人の——いや、ぼくも含めた四人の——口から同じ音が間抜けに漏れる。
モーハンが長いまつ毛を伏せ、誰とも目を合わせないままずかずかとリビングを横切る。ぼくは呆気に取られていたが、はっと我に返ると急いであとを追いかける。モーハンはぼくよりも歩幅が狭いけれど、スタートが遅かったせいでとても間に合わず、ぼくの目の前でバタンと乱暴に彼の部屋の扉が閉められる。
「モーハン」
こん、と扉を一度ノックしないうちに「来ないで」と口早に遮られる。
「どうしたの? 少し話そう」
「話すことなんかない。あっち行ってよ」
モーハンの声は震えていた。ドアレバーが小刻みに上下している。
彼の部屋に鍵はない。おそらく、ぼくの侵入を阻むために強くドアレバーを握りしめているのだろう。
もとよりぼくは彼の部屋に押し入るつもりなど微塵もなかった。
目的は彼の部屋に入ることではない。彼の話を聞くことだ。
「ここにいるから。ちょっとでも話そうかなって気になれたら、いつでも言って。きみの話しやすい形で、扉越しでも、チャットでもいいよ」
返事はなかった。
ず、と鼻をすする音。それから小さくしゃくりあげる声。ドアレバーの揺れが、嗚咽が、徐々に激しさを増してゆく。
ぼくは扉にもたれかかり、ゆっくりとその場に腰を下ろす。
視線を感じてリビングのほうを見た。父がリビングと廊下を繋ぐ扉から心配そうにこちらを見つめている。ぼくが『大丈夫だからあっちに行って』と目と手で示すと、彼は頷きを返しておとなしくリビングに引き下がった。
目を閉じ、モーハンの泣き声に耳を澄ませる。
泣きじゃくる彼の声。しゃくって、しゃくって、次第に小さくなってゆく。押し殺したようなすすり泣きがしばらく続き、一度止まって、またしゃくりあげ、再び止まる。つっかえつっかえの深呼吸。わずかな静寂。「ひっ」と小さな声が漏れ、なんとか押し止めようと息を殺すが、結局はこらえきれずにまた泣き始める。
波の音みたいだな、と思う。
いつしかドアレバーは揺れなくなっていた。代わりに、彼がしゃくりあげるたびに扉がかすかに揺れる。泣き声は今、ぼくの頭よりも低い位置から聞こえてきている。きっと彼も、ぼくと同じように扉を背もたれに座り込んでいるのだろう。
どれだけの波が通り過ぎていっただろう。
突然背もたれが消滅した。驚いて目を見開く。
「わっ」
その声はぼくの口からではなくモーハンの口からこぼれた。
ぼくはとっさに背後に手をつき、振り返って彼を見上げる。彼は目をまん丸にしてぼくを見下ろしている。
「……まだいたの」
戸惑ったようにモーハンが聞いた。
「え、うん」
ぼくは頷きを返す。ここにいる、とさっき宣言したではないか。
十秒ほど、モーハンが毒気を抜かれたようにぼくを見つめた。ふいっと彼がぼくから視線を外す。
「……トイレ」
「あ、うん」
脇に避けて彼の通り道を作る。モーハンがシャワールームに入るのを見送り、手持ち無沙汰にリビングを見やる。いつの間にかリビングの明かりは消えていた。ゲストルームの明かりも消えていて、モーハンの部屋とシャワールーム、それから夫婦の寝室の扉の隙間からのみ明かりが漏れている。スマートフォンで時刻を確認すると二十三時だった。帰宅してから三時間ちょっとが経過している。
水を流す音がして、ひょこり、とモーハンがうかがうように廊下に顔を出した。さっきの位置から一ミリも動いていないぼくを認め、「なんで入らないの?」と眉根を寄せる。
「ん?」
「今チャンスなのに」
「だって、まだ入っていいよって言われてないし」
そもそもきみのいない部屋に入ってもなんの意味もないし。
至極当たり前の返答をしたぼくに、なぜだかモーハンはふっと噴き出す。
「なに。きみ吸血鬼とかなの?」
「吸血鬼の中でもクラシックなタイプだね。最近の吸血鬼はもっと縦横無尽に動けたりするから」
たいして面白くもない冗談なのだが、モーハンはくっくと顔を伏せて笑ってくれる。
「え、入ってもいいの?」
わざと改まってたずねると、「いいよ」とモーハンが上機嫌に頭を揺らす。
「入りなよ」
「じゃあ、お邪魔します」
彼の部屋のドアレバーに手を掛けかけて「あ」と止まる。
「なんか食べる?」
「食べ——」モーハンが自身の腹に手を当てる。「る!」
二人でキッチンに移動した。
冷蔵庫の中には、先ほどテーブルに広げられていたテイクアウトのパックが山と積まれていた。中身を確認し、彼はラジマを、ぼくはパラクパニール(ほうれん草とチーズ)を選択する。
ラジマとパラクパニールを電子レンジで、チャパティと野菜のフライをオーブンで温める。チャパティはぼくの知っているものよりも分厚かった。聞くと「これ、多分アル・パラタだよ。中にマッシュポテトが入ってるやつ」とのことだ。
ぼくが茶葉とホールスパイスからマサラチャイを入れている間に、モーハンは温まったものから順番に自分の部屋へと運んでゆく。すべてを運び終えたかと思うと、またキッチンに顔を出し、ヨーグルトとクッキーとシュガーポットを手に今度こそ自室に帰る。
ぼくはたっぷりのチャイをマグカップいっぱいに注ぎ、彼の部屋の前に立つ。
「Let me in?」
芝居がかった声でたずねた。モーハンが笑いながら「いいって」と扉を開けてくれる。
並んで食事をとりながら、しばらくとりとめのない話をした。
「なんか、」
あらかた食べ終えた頃、モーハンがはにかんでクッキーに手を伸ばす。
「いっぱい泣いちゃったから、恥ずかしい」
「別に恥ずかしいことではないよ」
さらりと答えてから彼の顔色をうかがう。きっと、本題に入るベターなタイミングは今だ。
「……手術、受けるの怖い?」
思い切ってたずねると、モーハンが「んー……」と小さく唸った。ふるっと首を横に振る。
「……怖くは、ない。ただ嫌なだけ」
「何が嫌?」
んー、とまた唸る。彼はゆっくりとあぐらから三角座りへと移行して、こてん、と左の膝小僧に左の頬をくっつける。
「……ぼく、さぁ。今日で神さま終わりにしよう、って考えてたんだよ」
伏目がちにつぶやいた。ぼくは「……ちょっともったいない気もするけどね」と答える。
「夕方にも言ったけど。確かに先々を考えるとリスキーな働き方ではあると思うよ。だけど需要は、少なくとも現時点では間違いなくあるから。だから、別に今『やめる』って決めなくてもさ。例えばだけど、本職は別の仕事をしながら、趣味で二週間に一回ぐらいお寺に神さまをやりにいくとか……」
「切るんだよ」
彼の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
ちら、とモーハンがこちらに視線を向ける。ぽかんとしたぼくと目が合うと、ちょっと笑って肩をすくめてみせる。
「ここと、ここと、ここを切る」
とん、とん、とん、と内側の右腕、しっぽの腕、内側の右脚、それぞれの付け根をリズミカルに手刀で叩く。
ぼくは完全に混乱していた。
モーハンに反応を求めるような目を向けられ、やっとのことで「……なんで?」と絞り出す。
モーハンがふっと遠くを見やった。そのまま話し始める。
「……ぼくのさ。心臓に穴が開いてるから心筋が厚くなってきてるっていうのは、嘘」三角座りの膝の上にちょこんとあごを乗せる。「生まれつき心臓に穴が開いているのはほんとだよ。でもたいしたサイズじゃないから、放っておいても影響なんかほとんどないんだ。あさって、メインの手術のついでに一応塞ぐけどね。心筋が厚くなってきている本当の原因は、この手足」
モーハンが四つの手をグッパーグッパーと開いたり閉じたりしてみせる。
「数が多い上に、全部自在に動かせるから。普通に生活してるだけで、めちゃくちゃ心臓に負荷がかかった状態になっちゃうんだよね」
口元に寂しげな微笑を浮かべ、視線を床に投げる。
「ハリドワールで死ねていればよかったのにな」
ぽすり、と膝を抱える腕の中に顔の下半分をうずめる。
「何も知らない“神さま”のまま、母なるガンガーのほとりで、きれいな体のまま死ねていれば一番よかったのにな」
静寂が部屋を満たす。
ゲストルームはもとより、モーハンの両親の寝室からも物音ひとつしない。もう寝てしまったのか、はたまた息をひそめてぼくたちの会話に耳をそばだてているのか。
モーハンが短く何かを言った。
くぐもったその声が聞き取れずに「ん?」と聞き返す。その上にモーハンが言葉を重ねる。
「嫌だ」
「え?」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」
ばっと顔の上半分も腕の中に隠してしまう。
「嫌だ。切りたくない。手術なんかしたくないよ。このまま放っておいたら突然死の確率が上がるからって、実はとっくに手遅れで、手術なんかしてもしなくても寿命は全然変わらなかったらどうするの? それとも、手術中に死んじゃったり、手術の三日後にたまたま隕石が落ちてきて死んじゃったら? 馬鹿みたいじゃん、そんなの。それなら初めから手術なんて受けないほうがいいんじゃん」
「それは、」
「怖くなかったのに。ハリドワールにいた頃は、なんにも怖くなんかなかったのに」ふるふるっと腕に額を擦りつける。「すべてが自然だったんだ。ぼくの体も、ぼくが信仰されることも、死すらも自然だったんだ。ここではぼくの体は気持ち悪がられて、ぼくが信仰されることは異常で、死には抗うべきで」
「モーハン」
「大丈夫だよって、おじいちゃんとおばあちゃんは、ぼくがひどい発作を起こしても『大丈夫だよ』って落ち着いて言ってくれてたのに。『大丈夫、死んでもただ輪廻か解脱をするだけだから、なんにも心配いらないよ』って」
ぐす、と鼻をすすり上げる。
「あの頃のぼくは、死ぬことなんか全然怖くなかったんだ。こっちに来て、父さんからもお医者さんからも『このまま放っておくと死んでしまうから早急に手術をしよう』って何度も何度も力説されて。だんだん、だんだん死ぬのが怖くなってきて。ハリドワールにいた頃は当たり前だった“切らない”って選択が、ひどく愚かなことのように思えてきて」
彼の細い肩が小刻みに揺れる。
「死にたいわけじゃない。ぼくは、積極的に死にたいわけではないよ。ただ、輪廻と解脱を心から信じられていたハリドワールでのマインドのまま、平和に死んでおきたかっただけで」
ぎゅ、と膝を抱える彼の腕に力がこもる。
「……手術が大成功して、寿命がぐっと伸びたとして。……“まとも”な体になったぼくに、アンナが急に真っ当な母親の顔で親しげに接してきたらどうしようって、それもすごく嫌だ……」
ひっ、ひくっ、と膝小僧に押し付けられた彼の唇から嗚咽が漏れる。ぱたん、と彼のしっぽの前腕が肘を起点として右から左へ移動する。ぱたん、と今度は左から右へ。かわいい。素敵だ。だけど。ぱたん、ぱたん、と幾度もの移動を経てこちらにやってきた手をそっとつかまえる。
モーハンが濡れた瞳でぼくを見上げる。
「ぼくはね、」彼の手首はすべて細いのだけれど、しっぽの手首はとりわけて細い気がする。折れそうなその手首を人差し指でなぞる。「ぼくは一応クリスチャンだから、『死んでも輪廻とか解脱をするからいいじゃん』とか、そういう感覚はまったく分からない。だからぼくのスタンスで話すね。ぼくは……、……できれば、手術を受けてほしいなって思う」
モーハンがゆっくりと長いまつ毛を伏せた。ぼくは彼の手を強く握りかけ、その華奢さにひるみ、結局はほんの少しだけ力を込める。
「きみの体が失われるのは惜しいよ。でも、ぼくはこの世界で少しでも長くきみと一緒にいたいから。手術で寿命が伸びる可能性が高いなら、できれば手術を受けてほしい、って思うんだ」
モーハンがきゅっと下唇を噛んだ。薄く唇を開きかけ、不意に止まる。「え」と目を見開いてぼくを見上げる。
「え?」
「今、なんて言った?」
「え?」ぼくは今しがた自分が発したばかりの言葉をリプレイする。「この世界で少しでも長くきみと一緒にいたいから、できれば手術をしてほしい……」
改めて口にするとものすごくキザな台詞な気がしてきて、顔を赤らめる。「じゃなくて」とモーハンが簡単に首を横に振る。
「その前」
「その前?」視線を宙に投げて記憶を辿る。「えっと。ぼくはクリスチャンだから、輪廻とか解脱とか……」
「そのあと」
「そのあと?」
眉間に皺を寄せて『ぼくはクリスチャンだから』から頭の中で再生してゆく。
「ごめん」
すぐに思い至って勢いよく頭を下げた。
「ごめん。完全に失言だった。人の造形についていずれの発言もすべきではないのに」
「惜しいって何?」
「だから、ごめん。不適切な発言だった。忘れて……」
「惜しいって何」モーハンが前のめりに聞く。「五体満足の人間が手術で体の一部を失うことを聞いて、気の毒がるのは分かるよ。熱心なヒンドゥー教徒が、ぼくの手術を知って『もったいない』って思うのも分かる。でもきみは違うじゃん。なんでキリスト教徒のきみが、奇形のぼくが手術で五体満足になることを聞いて『惜しい』って思うの?」
ぼくは恥入って深く頭を垂れながら、突き刺さるモーハンの視線をちりちりと肌に感じる。
どうすればいい? どうするべきなのだ?
勇気を出して、ちらっと一瞬だけのつもりでモーハンの表情を盗み見る。真意を探るような真剣な瞳にぶつかり、ハッとする。
今、絶対に、嘘をつくべきではない。
「好きなんだよ……」
真っ赤な顔を片手で覆い、消え入りそうな声で告白した。
「え?」
「ごめん。本当に。人の容姿についてあれこれ言うのはダメだって、ちゃんと分かってはいるんだけど」
「好きなの?」モーハンが長いまつ毛をぱちくりさせる。「ぼくの体が?」
「体が。顔も」
ヤケクソでぶちまけた。
「なんで?」
ことりとモーハンが首を傾ける。その頬に涙のあとは残っているが、その目にもう涙は溜まっていない。
「なんできみがぼくの体を好きなの? だってヒンドゥー教徒じゃないでしょ?」
「知らないよそんなこと」焼けるように熱い顔を両手で包み隠す。「なんでとか、そんなこと聞かれても困る。一目惚れなんだ。生まれて初めて一目惚れしたんだ。一目見た瞬間にはもう好きだった。綺麗だな、美しいな、チャーミングだな、神秘的だなって一瞬で夢中になって、」
がばり、と胸に細っこい熱の塊が飛び込んできた。
面食らって顔から手を離す。予想に違わず、そこにはすっぽりとモーハンが収まっている。
「早く言ってよ」
「だって人の容姿についてあれこれ言及すべきでは、」
「早く言って」
「ごめん」
すり、とモーハンがぼくの肩に頬を擦り付ける。
「そっか。“あたらしい”きみがぼくのことを、……そっか」
その“あたらしい”とかで大雑把にぼくをくくるのをやめてよ、と抗議しかけて、モーハンの満ち足りた笑顔を見て止めた。きっと彼にとっては大切なことなのだ。“あたらしい”ぼくに神的な体を褒められた、ということが。
モーハンに誘われて、その日は彼の部屋の大きなベッドで一緒に眠ることになった。
「覚えていてね」
モーハンがふざけるようにぼくに体を寄せては、たくさんの腕や脚を無邪気に絡ませる。二十分ほどのち、彼はぼくにハグをしたまま健やかな寝息を立て始める。
深く息を吸う。
薄っぺらなタオルケットの中、充満する彼の甘ったるくてスパイシーな香りに陶酔しながら、特異で魅惑的なその腕を、脚を、何度も何度も指で辿った。