「ねぇなんでお父さんばっかりモーハンに会えるの?」
ベッドにうつ伏せ、枕に顔をうずめたままくぐもった声を出す。
「知らないよ。モーハンに直接聞いたら?」
父が愉快そうに笑う。
「聞いてるよ。毎日。でも、いつも『ちょっと待ってて』って」
「なら待ちなさい。彼は術後でいろいろ大変なんだから」
「分かってる、けど、さぁ〜」ばたばたと脚を動かす。「ぼくは一刻も早く会いたいんだけど」
「ぼくに言ってどうするの。モーハンに言いなさいよ」
「言ってるよ。言ってるけど……」
返ってくる答えはいつも『ちょっと待ってて』だ。
四日前、モーハンは十六時間にも及ぶ大手術から無事に目を覚ました。
手術にはモーハンの希望でラジェシュと、ラジェシュの希望でぼくの父が付き添った。父いわく、ラジェシュが『一人で待ってたら心配の堂々巡りでおかしくなりそうだから、ルードヴィグにも一緒に来てもらっていい?』とモーハンに許可を取ったそうだ。ぼくはそれを聞いて、モーハンにチャットで《ぼくも行っていい?》とたずねたのだが、《だめ》と即答されてしまった。
《何時間かかるか分からないし》
《全然待つよ》
《うーん、でも、やっぱり家で待ってて》
手術が始まってから終わるまでの間、ぼくは何も手につかず、食事をとる気にもなれず、ひたすらに彼の無事を祈り続けた。後にも先にも、あんなに敬虔深い時間を過ごしたことはない。
手術の成功は父からの電話で知った。
翌日、モーハンと短いチャットをした。《お見舞いに行ってもいい?》と送ると《ちょっと待ってて》と返された。
昨日、今日は彼と通話をした。「お見舞いに行ってもいい?」、答えはまったく同じ。
モーハンがラジェシュの見舞いしか受け付けていないのであれば我慢できた。だが、ぼくの父は見舞いを許されているのだ。
ついさっき、ぼくは彼に電話でこう言った。
「もしさ。お見舞いに行かせてくれない理由が、ぼくがきみの体を好きだって言ったことにあるなら、何も心配しなくていいよ。それはあくまできみに関心を持つきっかけのひとつであって、きみの体がどう変化しようが、ぼくがきみと仲良くしたいという気持ちに変わりはないんだから」
「分かってる分かってる」モーハンの声は笑みを含んでいた。「別にそういう話じゃないんだ」
スマートフォン越しのモーハンの声音はいつだって鷹揚で、ラジェシュもルードヴィグもあくまでリラックスしていた。アンナの内心はどうだか知らないが、表面上は普段通りに見えた。ぼくだけが彼に会えない欲求不満で毎日やきもきしていた。
彼のいない一日一日はあまりに退屈で、気付けば手術から九日が経過していた。不思議なもので、彼のいない家であってもぼくは『こんな他人の家ではなくて父とホテルに泊まりたい』とは一切考えていなかった。多分、モーハンのことで頭がいっぱいでそれどころではなかったからだ。
今日ぼくと父はスウェーデンに向けて発つ。現在の時刻は午前九時半。乗るのは夕方の便だから、家を出るのは昼過ぎで十分間に合う。
「ねぇぼく病院に行ってくる」
にわかに立ち上がって宣言した。父が軽く目を見開いてから「え?」と笑う。
「車で片道一時間ぐらいかかるよ。電車で行くならもっとかかるかも」
「今すぐ行ったらぎりぎり帰ってこられない?」
「いや、どうかな」父が口元に手をやる。その顔はなぜかにやついている。「病院と空港は、この家から見て真逆の位置にあるから。ぎりぎり間に合わないんじゃないかなぁ」
「え、じゃあぼくだけもう一泊してもいい? フライト代は出世払いにするから」
「いや……」
おかしそうに首を振る父を無視して、パッキングを済ませたバックパックを置き去りに財布とスマートフォンだけを持ってゲストルームを飛び出す。「待って待って」と背後から父の声。構わずリビングを突っ切る。だって、今日を逃したら次いつモーハンと顔を合わせられるか分からない。
ばん、と勢いよく玄関の扉を開ける。廊下をエレベーターに向かって走りかけたところで、腰のあたりから「わっ」と聞き覚えのある声がした。つんのめるように停止する。
「え、ダグどっか行くの?」
たずねたモーハンが、中腰になったぼくに抱きすくめられて「わぁ」と頬を緩める。
「会いたかった」
「うん、うん。ありがとう」とんとん、とモーハンの手のひらが優しくぼくの背中を叩く。
誰かが隣をすり抜ける気配があった。あるいはラジェシュかもしれないが、今はそんなことはどうでもいい。ただモーハンを抱きしめる。
ひとしきりそうしたのち、ようやく少し落ち着いて彼から離れる。その場にしゃがんで彼を見上げる。モーハンは病院からレンタルしたらしい無骨な車椅子に座っていた。その腕や脚はたったの二本ずつで、しっぽの腕も跡形もない。
「なんか変な感じ……」
思わず漏らして、すぐに「あ、違う」と慌てて首を横に振る。
「変ってあの、別にそういう意味ではなくて」
「いいよいいよ」モーハンが穏やかに目を細める。「変だよ。変に決まってるって」
「いや、ごめん。不適切な発言だった」
「どちらかというと、ぼくは『変』って言ってもらえたほうが嬉しいんだけど」モーハンがこてんと首を傾ける。「お医者さんも看護師さんも父さんもルードヴィグさんも、みんな『手術が成功してよかった』ってそればっかりでさ。生まれてからずっとあったものがなくなったわけだから、ぼくはすっごく『うわ、変な感じ』って思ってるのに。誰も同じ意見をくれないから」
「いや、そりゃ、普通は言うべき言葉じゃないから」
浮かんだ冷や汗をあたふたと腕で拭う。謝罪と弁明を重ねかけて、ふとモーハンの柔らかな視線に気付き、口を閉ざす。
照れたような、こそばゆい空気感の中、二人無言で見つめ合う。
ぼくの口からぽろりと言葉があふれる。
「会いたかったよ」
出合い頭にぶつけた台詞を繰り返した。「うん」とモーハンがほほえむ。
「ねぇ、なんでお見舞いに行かせてくれなかったの?」
非難がましく言ったぼくの肩に、モーハンが「ごめんごめん」と伸ばした左手をそっと添える。
「手術の直後は本当にボロボロだったから。鎮痛剤もあんまり効かないぐらいあちこち激痛で、管もいっぱい付いてるし、意識も朦朧としててさ。四日目ぐらいから意識はましになってきたけど、痛いのは痛いし、シャワーも浴びられなかったから汚いし、トイレとかも……一人で行けないからオムツしてたりして。かっこ悪いじゃん、なんか。そんな状態できみに会いたくなかった」
「格好なんてどうでもいいからぼくは会いたかったよ。ほんの一瞬、遠目に姿を見るだけでもさ」
「ごめん」モーハンが笑う。
「ていうか、ぼくの父もダメっていうならまだ納得できたんだけど。なんでぼくはダメでお父さんはよかったの?」
「だってルードヴィグさんは親世代だから、どんな姿を見られてもどうでもいいじゃん。でも、きみは同い年の友達だから」
彼の主張も感覚もよく理解できる。しかしだ。
「ぼくは会いたかったよ」
馬鹿の一つ覚えのように繰り返した。モーハンがぼくの肩をつかみ、「ごめんってば」とあやすように揺する。
ぱっとモーハンが中空に視線を投げる。
「あ〜あ、もう神さまじゃなくなっちゃったから、これからは死に物狂いで受験勉強しなきゃいけないのかぁ」
冗談めかして言った彼に、ぼくは真顔で提案する。
「スウェーデンに来る?」
ふにゃりとモーハンが破顔して、「寒いじゃん」と首を横に振った。
(了)