24 受験戦争

 告白をするのか、と父に聞かれて「しない」と答えた。
「この先どうするかは分からないけど。一旦はしない。だって、今モーハンは手術とかで色々大変そうだし」
 うん、と父が頷く。
「尊重するよ」

 翌々日リビングで映画を観ていると、十時二十分にモーハンがひょこりと顔を出した。
「ダグって数学得意?」
 今日は早めの昼食だな、と腰を浮かしかけたぼくは、テキストとノートを出されて「ん? 普通かな」と座り直す。ぼくの成績は全教科上の下だ。
「最後の応用問題がさ、どんな式立てたらいいのか全然分からなくて」
 とすんとモーハンがぼくの隣に着席する。このソファは三人がけだからスペースには余裕があるのだが、パーソナルスペースの狭い彼は当たり前のように互いの肩が触れ合うほどの距離に座る。ひとりドキドキと胸を高鳴らせながら「どれ?」とテキストを覗き込む。
 テキストはヒンディー語ではなく英語だった。指された文章題を読み始めてすぐに『ん?』となる。一応最後まで読んでから、他の文章題、前ページの基本問題にも軽く目を通す。やっぱりだ。
「ぼく、この単元まだやってない」
「あ。そっか」
 テキストを引っ込めかけたモーハンを手で制す。
「ん?」
「ちょっと他のページ見てもいい?」
 モーハンが不思議そうな顔で「いいよ?」とぼくにテキストを渡す。
 まず目次を見る。インドのほうがやや進んでいる気はするものの、全体的には似たような単元をやっている。自分がすでに学習した単元のページをぱらぱらとチェックする。思った通りだ。
「なんか、全体的に問題が難しくない?」
「え、そうなの?」モーハンが長いまつ毛をぱちぱちさせる。「スウェーデンってもっと簡単?」
「だと思うよ。学校でここまで深い応用問題しないもん」
「え、いいなぁ〜」モーハンがぽすんと背もたれに体を預けて天井を仰ぐ。「ぼくスウェーデンの学校行こうかなぁ」
「え、来る?」
 わりと本気で聞いた。「行かない行かない」とモーハンがころころ笑う。
「だってスウェーデンってめちゃくちゃ寒いんでしょ? ぼく絶対無理」
「まぁ寒い、ね」
 スウェーデンで生まれ育ち、それなりにスウェーデンを愛しているぼくですら、あの寒くて暗くて長い冬には毎年辟易へきえきさせられる。
 ふっと疑問が湧いた。
「きみって雪見たことある?」
「あるある」モーハンが頭を揺らす。「ハリドワールってインドの北部にあるから。ハリドワール自体は冬でも最低気温十度ぐらいあるから、ほぼ降らないけどね。同じ州の中で、毎年積雪する地域は普通にあるよ」
「え、そうなんだ」
「ぼくは断然ベンガルールよりハリドワール派だけど。気候に関してだけはベンガルールいいなぁって、ちょっと思うんだよなぁ」
 モーハンがぼくに視線を向けたままローテーブルに手を伸ばす。指先ですかっとくうをつかみ、一瞬の間を置いてから恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「え、チャイ入れにいく?」
 たずねると、モーハンは一度「ううん」と照れ隠しのように首を振ってから、すぐに「やっぱり行く」とソファから立ち上がった。
 二人でキッチンへと移動する。ついでに昼食も作ろうか、とぼくは野菜室を開ける。今日はアルゴビを作るつもりで、昨日モーハンとスーパーマーケットで買い物をした。モーハンが「あ」と声を上げる。
「ん?」
「なんか今、作るのめちゃくちゃめんどくさいから。レトルトでもいい?」
「いいよ」野菜室の扉を閉める。「ちなみにだけど、ぼくが一人で作るっていう手もあるよ。その間きみはヨーガとか勉強とか好きなことをして待っててもらえれば」
 ぼくはモーハンと時間を共有するのが好きだから、できれば一緒に作りたい。いや、実際に調理をするのはぼく一人でも構わないのだけれど、ただ隣にいてたまにちょっと手を出したり、どうでもいい話を振ったりしてほしい。だけどまあ、彼が別室にいて、本当に一人ぎりで料理をするというのもなしではない。だってそうすれば、またモーハンにハグして匂いをかいでもらえるかもしれないし。
「お腹はすいてるんだよ。今すぐ食べたい」
 モーハンがあっさりと首を横に振った。
 彼に好きなレトルト食品を選んでもらい、器に開けて電子レンジで温めてもらう。ぼくはミルクパンでチャイを入れる。
 完成した食事を持ってリビングへと戻る。さっきと同じソファに、さっきと同じ距離感で腰掛ける。
 彼の選んだレトルト食品はチャナマサラだった。一昨日も食べたでしょ、とはまったく思わない。世の中には異様にバラエティに富んだ食事を日常的にとる家庭もあるようだが、ぼくの家ではほとんど毎日を同じメニューで回している。
「なんの話してたっけ」チャナマサラをバターロールにディップして食べる、という動作を三回繰り返してからモーハンが聞いた。「勉強の話?」
「も、してたね。キッチンに移動する直前は気候の話だったよ」
「あ、そうだそうだ」モーハンが頭を揺らす。「ベンガルールってめちゃくちゃ過ごしやすい気候でしょ? これ、今だけじゃなくて一年中こうなんだよ。一番暑い四月でも最高気温三十五度だからまぁ耐えられるし、なにより冬でも最高気温が二十七、八度あるのがすごくいいよね」
「……暑すぎない?」
 ぼくの意見にモーハンが「そう?」と目をぱちくりさせる。
「ハリドワールだと五月の最高気温が四十度とかになるから。五度の差って結構大きいよ。冬は冬で、最高気温二十度の最低気温十度だから寒すぎるし」
「最高気温二十度の最低気温十度って、スウェーデンの夏なんだけど」
「嘘でしょ?」
 モーハンがオーバーにのけぞってみせた。
 食事の合間にビスケットをかじる。ふと疑問が浮かぶ。
「ハリドワールにいた頃ってさ。冬でも沐浴もくよくしてた?」
「ん? うん。冬はしないって人も多かったけど、ぼくはしてたよ」
「冬に川で沐浴するの、怖くなかった?」
「何が?」
「心臓への負担」
 真冬のスウェーデンでサウナから湖へのダイブをしているぼくが言えた義理ではないが、冬場に川や湖、海に入るのは心臓発作や低体温症のリスクが高い危険な行為だ。健康体でも控えるべきだし、心臓に疾患があるのであればなおさらだ。
「全然」
 モーハンがにこりとほほえんだ。ぼくは軽く目を見開く。
「本当? 冷たい水に浸かったときって心臓がきゅうってなるっていうか、うわ、今めちゃくちゃ負担かかってるなって感じしない?」
「するけど。でもガンジス川ガンガーの中だし」
「うん?」
 意味が不明で首をひねった。モーハンが口元に笑みを浮かべて「どう説明すればいいかな……」と視線を宙に投げる。
「心臓に負担がかかるとしんどいし、発作が起きると痛かったり苦しかったりするから。普段は発作が起きそうだなってときとか、軽い発作が起きた段階で早めに休んだり、リスキーな行動自体を最初から避けたりするんだけど」
「うん」
「でもガンガーの中なら、別に」
「……うん?」
「えっとね」モーハンがくすくす笑う。「まず大前提として。ヒンドゥー教ってお墓がないんだけど」
「そうなんだ」
「そうそう。火葬して、その骨をガンガーに流す。ガンガーから遠い地域の人は近くの指定された水場に流したりもするけど、一番名誉で素晴らしいのはガンガーに流すことで」
「うん」
「それで。例えばさ……冬場だけじゃなくて、雨でガンガーが増水したときなんかも、流されやすくて危険だからって理由で入らない人はたくさんいた。でもぼくは入ってた。だってさ、」
 モーハンが熱を帯びた瞳をきらきらと輝かせる。
「ガンガーで沐浴中に絶命して、そのままガンガーの波に飲まれる、っていうのはなかなか素敵なことなんじゃないの」
 返事に窮したぼくにモーハンが補足する。
「ほら、女神ガンガーの腕に抱かれて死に行く感じがさ」
 なおも黙っていると、彼が「分かんないか」と微笑して肩をすくめた。
「ごめん……」
 一生懸命説明をしてくれたのに少しも分かってあげられなかったことが申し訳なくて、小声で謝る。
「いいよ。きみはヒンドゥー教じゃないんだし」
 さくさくっとモーハンがビスケットをかじった。切り替えるように聞く。
「きみって大学には行くの?」
 突然変わった話題に「ん、」と一瞬止まってから返答する。
「どうしようかなって、まだ考え中。きみは?」
「ぼくはもともと行かないつもりだったんだけど」ぽす、とモーハンがソファの背もたれに体を預ける。「今行ってる学校が『全員いい工学部か医学部を目指すのが当たり前』って雰囲気で。……ちょっとしんどい」
「何がしんどいの? 進路の選択は人それぞれなんだから、何も気にする必要ないと思うよ」
「そうなんだけど。教室の空気感っていうか、圧がさぁ」モーハンが天を仰ぐ。「インドって受験戦争がかなり激しいんだけど」
「受験戦争?」耳馴染みのない言葉だ。
「受験戦争」繰り返したモーハンがぼくに視線を流す。「インドって、もともと親の職業を継ぐのが当たり前みたいな感じだったんだけど。ITっていう新しい職業が出てきて、しかも稼げるっていうので、みんながいい工学部——すっごいお金持ちの家庭は医学部——を目指すようになって。人口的に若者が多いから競争率がとんでもないんだよ。最難関のインド工科大学は倍率百倍とか」
「百倍?」想像を絶する数字すぎて笑ってしまう。
「百倍」モーハンも笑う。「今インド全体がそういうムーブメントだから。ハリドワールにいた頃もそういう子はいたよ。プライベートな時間をすべてなげうって勉強するとか、試験の結果が悪くて自殺するとか」
「自殺?」急に笑えなくなった。
「自殺は極端な例だけどね。でも、実際に身近でもあったよ」モーハンがチャイを一口飲む。「だけどぼくは、ハリドワールでは受験戦争と無縁だったから。ぼく自身そういう意識だったし、おじいちゃんもおばあちゃんも、先生もクラスメイトも近所の人も『そりゃそうだよね』って感じで。学校の勉強は普通に頑張ってたけど、家庭教師とかはつけてなかったし、授業が終わったら家業継ぐ組の子たちとめちゃくちゃ遊んでたし」
「じゃあ、その頃のきみは家業を継ぐつもりだったんだ?」
 彼の父ラジェシュはIT系だが、おじいちゃんとおばあちゃんの代までしていた家業があるのだろう。そう考えての質問だったのだが、モーハンは「家業っていうか」と眉を八の字にした。
「ほら。ぼくは神さまだから」
 ぼくはフリーズした。
 モーハンが敬虔けいけんでクラシックなヒンドゥー教徒から神として扱われていることは、何度も聞いたしすでに心得ている。しかし、『神さまだから』?
「ダグ?」
 名前を呼ばれて我に返る。
「『神さまだから』、何?」
 シンプルな疑問をぶつけたぼくに、モーハンが「ん?」と首をかしげる。
「えっと。つまり、神さまだから進学も就職もする必要はない、ってこと」
「なんで?」彼の言い分をまったく理解できない。「だって“神さま”で食べていけるわけじゃないでしょ? 親がいる間はなんとかなるとして、最終的には就職をしなくちゃいけないんじゃないの」
「食べていけるよ。だって、ぼくハリドワールの屋台でお金払ったことないもん」あっけらかんとモーハンが言った。「みんなが食べ物をくれる。ぼくが祝福を与える。それで成立だ」
 成立、するのか? 完全に納得したわけではないが、話を進めるために一旦飲み込む。
「じゃあ、ごはんには困らないとして。住むところは? 服とかものとか、何かが欲しくなったらどうするの?」
「住むところは、まあ、頼めばお寺の軒下ぐらい貸してもらえるんじゃないかな。何かが欲しくなったときは……一応グッズの撮影でもらえるお金があるし。ていうか、物欲自体がさ。今こうして都会で現代的な暮らしをしてるからあれこれ欲しくなっちゃうだけで、ハリドワールで神として生きてたらもっとぐっと減るから。服なんか布一枚あればそれで——いや、一枚だと冬が寒いか。まあ、もらったものが二、三枚もあれば成立するわけだし」
 住む場所の話も、物欲の話も自分とは感覚が違いすぎるから、理解するためにもっと掘り下げたい。だがそれよりも。
「グッズの撮影?」
 間抜けな声で聞いたぼくに、モーハンが「え? ああ」とばつの悪そうな顔をする。
「え、引いてる?」
「引くっていうか」引く引かないの前に、そもそも意味が分からない。「グッズって何?」
 モーハンがちょっと言い悩んだ。あるいは彼はそのまま場が流れることを期待したのかもしれないが、ぼくがいつまでも真剣な面持ちで返事を待ち続けていると、観念したように口を開く。
「ヒンドゥー教って偶像崇拝オッケーだから。お寺とかその周辺で、神さまのポストカードとかポスターとかステッカーとかを売ってるんだけど。ぼくの写真を使ったグッズも、そこに一緒に並べられてたんだよ。ベンガルールだと限られた場所にちょっとしかないけど、ハリドワールだとそこら中でいっぱい売ってて」
「え、欲しい……」
 ぽろりと本音が漏れた。モーハンが「なんで。きみはヒンドゥー教じゃないでしょ」と破顔する。どうやら冗談だと思ったらしい。
「買い切りの契約だから、別にきみが買ってもぼくにお金は入らないし」
 冗談ではなくて、信仰の話もきみに入るお金の話もどうでもよくて、ただきみの写真がプリントされたグッズを所有したいだけなんだけど、と説明しかけて、いや、この発言は明らかに気持ちが悪いな、と心に秘める。
「めちゃくちゃ脱線してるな」モーハンが話を戻す。「で。ぼくが今行ってる学校は、ほんとにほぼ全員が『いい工学部や医学部に入るために血のにじむような努力をして当たり前』って考えだから。のほほんとしてるぼくは相当浮いてるんだよ。『あいつ、特別勉強ができるわけでもないのに何をあんなにのんびりしてんの?』って感じで。“あたらしい”人たちに『ぼくは神さまとして生きていくので進学も就職もするつもりはありません』なんて話したら、余計に気味悪がられるだろうから言えないし。それに、」
 モーハンが言葉を切った。『それに』? 長いまつ毛を伏せて黙りこくった彼を、ゆったりと構えて待つ。
 モーハンがこちらを見ないままささやく。
「……最近、ぼくがずっと神さまでいることはできないんじゃないか、って考えが頭の中をぐるぐるしてて」
 それはそうだろう。
 インドは開発途上国ではあるが、新興国とも呼ばれ、日々目覚ましい勢いで発展していっている。都市部は言わずもがな、聖地ハリドワールにだって、彼の言うところの“あたらしい”価値観はだんだん広がってゆくだろう。十年後、二十年後、三十年後に、モーハンを生き神として食事を捧げてくれる屋台は、昼夜熱心にプージャをしてくれる信者は、果たして何パーセント残るのか。
「あ〜っ、ぼくもみんなみたいに死ぬ気で勉強しなきゃいけないのかぁ〜」
 モーハンがおどけた声を出した。それに合わせるべきか、真面目なトーンに戻すべきか少し悩む。答えを出す前に彼がたずねる。
「父親すごいなって、めちゃくちゃ思わない?」
「ああ。それはね、思う」
 一も二もなく同意した。
 自身の母国語ではない言語を公用語にする、遠い異国アメリカカリフォルニア州の難関スタンフォード大学に、現役で合格してストレートで卒業する。父らが高校生の頃など、今よりもっと実用的な英語を学ぶことも現地の情報を得ることも困難だっただろうに、よくもやりとげたものだ。
「あ〜あ、父さんの頭脳がぼくに遺伝してたらよかったのになぁ〜」
 モーハンがコミカルに唇を尖らせる。
 彼は明らかに話を深刻なところに戻されるのを嫌がっている。
 しばしの逡巡ののち、ぼくはそれに従うことにした。