23 恋心の自覚

 その日の夕方。
 午前中にしっかりと熟睡し、十四時から遅めの昼食をとり、軽い運動を済ませ、またベッドでうとうとしているところをノック音で起こされた。
「はい……」
 シーツにくるまったままくぐもった声を返す。ぼくも父も、ゲストルームに入るときは必ずノックをする。一人ではなく二人で使っている部屋なのだから当然だ。
 かちゃ、と扉の開く音とともに甘くてスパイシーな香りが部屋に流れ込んだ。ぼくは跳ね起きる。扉の隙間から顔を覗かせたモーハンが「あ」と頬を緩める。
「おはよぉ」
「ど、ど、どうかした?」
 彼がゲストルームを訪ねてくるのは初めてだ。ぼくは寝癖でぼさぼさの髪を手ぐしで必死に撫でつける。「えっとね」とモーハンが右手のひとつに提げていたレジ袋を顔の高さまで掲げる。
「おいしそうなパニールが売ってたから、明日パニールティッカマサラ食べたいなって思って買ってきたんだけど」
「パニール?」
「えっと、チーズの一種」
「オッケー。じゃあ明日はそれ作ろっか」
「いや、それがさ」モーハンがゲストルームに三歩踏み入る。彼のいい匂いがより近付く。「お店の人に聞いたら結構手間みたいでさ。なんか、前日からマリネ液にパニールと野菜を漬けとかなきゃいけないんだって。それでもいい? ってきみにチャットしようとしたんだけど、あれ、ぼくきみの連絡先知らないじゃん、ってなって」
「ああ。ほんとだね」言われて初めて気が付いた。「連絡先交換する?」
「するする」
 モーハンが背負っていたデイパックを体の前に回してスマートフォンを取り出す。そのデイパックはなんだか重たげだ。ぼくの不思議そうな視線に気付いてか気付かずか、彼がデイパックのジッパーを大きく開けて中身をこちらに見せる。
「一応必要な材料は全部買ってきたんだけど。作るのめんどくさい? めんどくさかったら別にいいんだけど」
「全然めんどくさくない」ぼくはベッドから立ち上がる。「え、今からする?」
「いいの?」
「いいよ」
 連絡先を交換してからキッチンに移動する。家の中は静まり返っていた。メイドはすでに帰宅して、大人たちはまだ帰ってきていないらしい。
 ぼくのスマートフォンに表示させたレシピを二人で覗きながら作業を進める。ぼくがボウルに入れたヨーグルトを泡立て器でかき混ぜる。モーハンが小皿に必要量のスパイスを出す。ヨーグルトに彼の量ってくれたスパイスとコーンスターチ、レモン汁をくわえて混ぜる。モーハンがこちらに手を伸ばす。
「次野菜切らなきゃいけないから、ぼくそっちする」
 一度泡立て器をボウルに置こうか、というぼくの気遣いなど構わずに、モーハンがさっとぼくの手から泡立て器を取った。ちょんと触れた手にどきりとしてモーハンの顔を見るが、彼はまるで頓着していない。
「ん」
 モーハンが短い声を上げた。
「ん?」
「ダグなんかいい匂いする」
「え、嘘」すんすん、と自身の二の腕をかいでみる。自分ではまったく分からない。「香水も何もしてないよ」
「そういう匂いじゃなくて。え、お昼インド料理作った?」
「あ。作った作った」
 玉ねぎとピーマン、パニールを適当なサイズにカットしながら頷いた。「それだ」とモーハンが満面の笑みを見せる。
「え、何作ったの?」
「あの、あれ。売店でトマト缶とあれの水煮缶買ってきて……、あの、Kikärtorのマサラ」
 寝起きなせいか英語が出てこない。「なんて?」とモーハンが目と口に笑みを残したまま眉をひそめる。
「あの……、豆だよ。豆。黄色くて丸くてちょっとゴツゴツした。あの……、フムスの原材料になるやつ」
「チャナ?」
「多分それ」
 かたやスウェーデン語、かたやヒンディー語で話すものだから、同じものをイメージできているかどうかの答え合わせができない。モーハンが「曖昧だなぁ」と笑ってから「え、でもいいなぁ」とぼくを見上げる。
「ぼくも食べたかった」
「あ。あるよ。冷蔵庫にあるから、今晩でも明日でも好きなときに食べて」
 根が面倒くさがり屋なぼくがインド料理を作るのは、ひとえにモーハンの喜ぶ顔を見るためだ。わざわざ自分のためだけに作るわけがない。
「え、うそ」
 モーハンがボウルを放り出して冷蔵庫を覗きにいく。
「あ、やっぱりチャナだ。おいしそう〜、今食べていい?」
 うきうきと瞳を輝かせるモーハンに「もちろん」と答えた。いそいそと彼が器を電子レンジに入れ、ついでに電気ケトルに水を入れてセットする。ぼくは目を細めてそれを眺めながら、ボウルの中のマリネ液に切った野菜とパニールを絡ませる。トッ、とモーハンが猫のようなしなやかさで突然ぼくの真横に立った。
「ん?」
 間近でじっと見つめられ、頬が熱くなるのを感じながら首をかしげる。モーハンがちょっともじもじしてから思い切ったように言う。
「あの、さ。インドでは、頭って神聖な場所だから普段は触っちゃダメなんだけどさ」
「うん」その話は前にも聞いた。
「スウェーデンってどうなの?」
 返事をする前に、どういう意図の質問だろうかと考える。
 触りたい、のか? ぼくの頭に。
 なぜ?
 ひょっとして、匂いをかぐため?
 なんのエビデンスもないのだが、料理中の匂いは髪に残ってなかなか取れないイメージがある。
 もしそうだとするならば。
「頭を触られてどう感じるかは、人それぞれだと思うよ。ぼくは気にしないけど」
 ぼくのパーソナルスペースは広い。体のどこにも触られたくないし、できれば半径一メートル以内に入らないでほしい。だけどモーハンが相手のときだけは、どこを触られても、どれだけ近付かれても構わない。
「え、じゃあいい?」
 モーハンがはにかんでもう三センチぼくに近付く。ぼくはこくりとつばを飲んで浅く頷く。モーハンが冗談めかして「失礼します」と言う。
 ぼくはてっきり、彼が背伸びをしてぼくの髪に鼻先を触れさせるのだと思っていた。
 ぐいっと腕を引かれて「え」と目を白黒させる。彼の少し高めの体温と、甘くてスパイシーな香りに全身が包まれる。
 抱きつかれているのだ、と認識するまでにかなりの時間を要した。
 モーハンは完全にフリーズしているぼくの背中にがっちりと腕を回し、自然と前のめりになったぼくの首筋から後頭部のあたりに鼻をうずめて深く息を吸っている。
 ぱっとモーハンが離れた。
「はぁ〜、めちゃくちゃいい匂いだったぁ」モーハンが充足の笑みを浮かべる。「ぼくさぁ、料理したあとのおばあちゃんにときどき抱きついて髪の匂いをかぐのが、大好きだったんだよね。はぁ、めちゃくちゃ癒されたぁ」
 無邪気にぼくを見上げたモーハンが、なおもフリーズしたままのぼくに「ダグ?」と不思議そうな顔をした。ふと視界の端の何かに気付いたようで、視線を下へとスライドさせる。
「あ、ごめん。もしかして抱きつかれるとは思ってなかった? びっくりしたらなっちゃうときあるよね」
 視線を上へと戻し、軽い調子でモーハンが言う。
「なんにもないときに急になっちゃったりもするし」
 モーハンがマリネ液のボウルにラップをかけて、さらりと冷蔵庫にしまいにゆく。彼はふたつ並べたマグカップにスティックタイプのマサラチャイを開け、とっくに沸いていた湯を注ぐとマドラーでかき混ぜる。電子レンジからチャナマサラの器を取り出して左手に持つ。右手のひとつにバターロールの袋を、もうひとつにマグカップを持ち、ひらりとしっぽの手を振る。
「じゃあね。ごはんありがとう。びっくりさせてごめんね」
 何ひとつ気にしていない顔でモーハンがキッチンを出て行った。
 ぼくはなおもその場に立ち尽くしていた。
 かちゃん、と玄関のロックを解除する音が響いて肩を跳ねさせる。
 思わず己の股間に視線を落とす。大丈夫、もうおさまっている。いつの間にやらマグカップから昇る湯気は失せていた。
 何気なく廊下を通りすぎかけた父が、キッチンに立つぼくを見て「あれ」と引き返してきた。
「ただいま」
「おかえり……」
 父がぼくの頭のてっぺんから足の先までをしげしげと眺めたのち、「大丈夫?」と心配そうにスウェーデン語でたずねた。
「何かあった?」
「あの。ぼく、モーハンが好きだ」スウェーデン語で答える。「恋愛感情だ」
 生理的な反応をしたから、ではない。あれはモーハンの言う通り、あらゆる状況で起こりうる現象だ。
 ただ、彼に抱きつかれて自覚したのだ。ぼくは彼のことを恋愛的な意味で好きで、この先のステップも彼としたい、と思っているということを。
「知ってるよ」父が笑う。「え、むしろきみは知らなかったの?」
 ぼくはしばし呆然とした。それから答える。
「知らなかった。だって恋をするとか初めてだし」
「そうか。確かに」
 父が穏やかに目尻を下げる。
「いいね。おめでとう」