22 受け入れるから

 ベッドの上でヘッドボードに背中を預け、くぁ、とあくびをする。
 かちゃ、と隣の部屋のドアが開く音がした。
 急いでベッドから下り、部屋の扉を開く。「おわ」とモーハンが短い声を上げた。ぼくは廊下に出て、父を起こさないよう静かに扉を閉める。
「おはよう」
「おはよ。びっくりした」
 こそこそと小声で挨拶を交わす。モーハンがトイレを済ますのを待ってから、二人忍び足で廊下を、リビングを横切って外へと出る。エレベーターに乗り込んでようやく普通の声量を出す。
「聞いた?」
「聞いた」
 ぼくは頷きながらきゅっとモーハンの手を握りしめた。モーハンがちょっと目を見開き、すぐにふにゃりと細める。ぼくの意図が伝わったようだ。
 聞いた。その上で、これからもきみと仲良くしたい。
 手を繋いだまま中庭を横切り、プールへと向かう。
「ていうか、よく起きれたね」
「ん? ああ。寝てない」
「寝てないの?」
 モーハンがおかしそうに目を丸くした。
「寝てないよ」
 あの時間から睡眠に入ったら、確実に昼まで寝てしまうという自信があった。ラジェシュから話を聞いた翌日に、もはや日課と化したモーハンとのプールに現れない、という誤解を生みかねない行動は絶対に取りたくなかったのだ。
「え、ていうか昨日結局何時まで話してたの? ぼく最初はちらちら窓から見てたんだけど、途中で寝ちゃって」
「三時」
 くぁ、とまたあくびをする。「三時!?」とモーハンが大きな声を出す。
 プールに着いて水に入ろうとすると、モーハンが「え、怖い怖い怖い」とぼくの手をプールサイド側に引いた。
「今にも寝そうじゃんか。嫌だよ、ぼく、ヨーガに集中してて気付いたらダグがプールで溺死してたとか。今日はここで横になってなよ」
 リクライニングチェアを示される。
「今横になったら爆睡するよ」
「したらいいじゃん」
「今は涼しいからいいけど。昼過ぎにここで干からびて死んでる可能性があるよ」
「起こす起こす。ぼくが戻るときにちゃんと起こすから」
 ぽんぽん、とモーハンがしっぽの手でぼくの背中を軽く叩く。
「ていうか、なんなら今部屋に戻ってベッドで寝たら?」
「いや、ここにはいたいんだけど……」
「ああそう」
 モーハンが呆れたように、かつ嬉しそうに笑った。

 リクライニングチェアに体を横たえた瞬間、とっくに飽和状態だった眠気がぶわりとつま先まで広がった。
 夢の中、のびやかな彼のバーンスリーの音を聞く。
 水音。日の昇る神聖なガンジス川の流れ。
 沐浴もくよくを終え、水から上がったモーハンの濡れた肌が光を反射してきらきらと輝く。
 人々が彼にプージャを捧げる。日常的な、ごく当たり前の行為として。

 肩を揺すられているな、と自覚してから目を開くまでに時間がかかった。
「ダグ。ダーグ」
 開きたがらない目をなんとかこじ開ける。
「あ、起きた起きた」
 モーハンがぼくの眼前で手をひらひらさせる。その手首にはすでにオレンジ色の花輪が巻かれている。
「買ったの……」
 寝起きなせいか、異様に甘えた響きになってしまった。一人で買いに行っちゃったの、ぼくも一緒に行きたかったのに、とでもいうような。
「だって起きなかったんだもん」
 モーハンがからから笑う。
 ぼくはぼんやりとモーハンを見上げながら「お昼どうする?」と聞いた。彼を見上げるだなんて新鮮だ。
「お昼はお寺〜」モーハンがおっとりと言った。「きみは寝てて」
「え、お寺行くの」思わず半身を起こす。「ぼくも一緒に行っちゃダメ?」
「え」
 モーハンが大きく目を見開いた。ちょっと返事に詰まってから答える。
「……お寺に行ったら、ぼくが祈られる姿をずっと見続けることになるけど大丈夫?」
「うん」
 ぼくは簡単に頷いた。
 四日前、モーハンが多くの人から神として扱われ直接祈りを捧げられている、と聞いたときは取り乱した。ぼくのこれまでの価値観にのっとって考えると、それはあまりに不気味でカルト的な行いだったからだ。
 だからといって、ぼくはそれを『カルト的だ』と即刻切り捨てるようなことはしなかった。本能的な拒絶感を覚えながらも、なんとか理解してあげたい、なんとか彼の気持ちに寄り添ってあげたい、と意識の変革をはかった。
 考えて、考えて、少しずつぼくの思考は変わっていった。
 だって、モーハンは祈りを受けているだけなのだ。
 本物のカルト宗教のように、献身を強要したり、高額な金銭を要求したり、信者と非信者とを分断したり、脱退者を糾弾したりするわけでは一切ない。
 ただ人々から祈りを受け、祝福を授けているだけなのだ。
 その上で、昨日のラジェシュとの会話を経てぼくの意識は完全に変容した。
 そうか。ラジェシュや敬虔けいけんなヒンドゥー教徒にとって、モーハンを神として信仰することはごく自然で、ありふれた行為なのか。
 ハリドワールでモーハンは人々から愛されていた、とラジェシュは言っていた。
 大勢から愛を注がれ、ほがらかに愛を返す——祝福を与える——モーハンを、見てみたいなと今は思う。
 困ったように首をかしげていたモーハンが、「うーん」と口元に手をやった。
「……やめとこう。やっぱり」
「どうして?」
 たずねると、モーハンが気まずそうに視線を逸らした。ちょっと言い淀んでから、こちらに視線を戻さないままもにょもにょと答える。
「この前もさ。きみはぼくがプラナームをされても引かないって言ってくれたけど、正直、あのとき一緒に街を歩きながら内心では結構どきどきしてた。口ではそう言ってくれてても、実際にぼくがプラナームされる姿を見たらやっぱり引いちゃうんじゃないかな、って思ってたから」
 ぼくははっと息を呑んだ。
 ちらりとぼくの顔をうかがったモーハンが、穴の開くほど凝視されていたことに驚いたのか「あの。違うんだけど。別にきみを信頼してないとかそういう話ではないんだけど」と口早に言った。
「これはぼく側の問題で。ベンガルールに来てから、もう嫌ってぐらい“あたらしい”人たちにプラナームの現場を見られて引かれてきてるから。ちょっとトラウマみたいになってるっていうか」
 あたふたと弁解する彼に「うん。別に怒ってないし責めてもないよ」と声をかけてから、ひとつ深呼吸をする。
 きっと、ぼくも正直に打ち明けたほうがいい。
「……実は、ぼくも思ってた。きみがプージャやプラナームをされるところを見て、引いてしまったらどうしようって」
 くっとモーハンが顎を引いた。「……だよね」と沈んだ声で答える。ぼくは慌てて「でもね」と付け加える。
「引きたくないんだ。きみのことを理解して、受け入れたいんだ。あれから色々考えて、昨晩ラジェシュさんとも話して、今は自分なりに消化できたんじゃないかなって思ってる」
「思ってるだけかも」モーハンがプールに視線を投げる。「目の当たりにしたら、やっぱり引くかも」
「もし反射的に引いてしまったとしても」手を伸ばしてきゅっと彼の手を握る。ぴくり、とモーハンの肩が小さく揺れる。「たとえ時間がかかっても、絶対に受け入れるから。きみがプージャやプラナームをされる姿を見ても、ぼくがきみを嫌いになったり、きみと友達でいるのをやめたりすることはありえないから」
 ざざ、ざざん、と二人の間を何度も波の音が行き来する。
 もそり、とモーハンの手がぼくの手の中から逃げた。彼は自身の親指で人差し指や中指を落ち着きなく触る。
「……今日は、一人でお寺に行く」
「……そっか」
 ぼくは頷きを返した。本当は一緒に行きたいけれど、彼がどうしても嫌だと言うのであれば我慢する。
「……四日後、さぁ。入院する前日」ぽそぽそとモーハンがささやく。
「ん?」
「お寺に、行こうと思うんだけど。……一緒に行く?」
 ぼくが「うん」と即答するよりなお早く、モーハンが「つまらないと思うんだけど」と畳み掛けるように言う。
「ぼく、お寺に行ったら四時間も五時間も入れ替わり立ち替わりプージャされるから。一緒に来てもきみは全然楽しくないと思うし、嫌なら別に来なくていいんだけど」
「行きたい」
 きっぱりと断言した。
 モーハンがうかがうような上目でぼくを見つめる。ぼくが真剣な表情で見つめ返していると、彼は落ち着かない表情のままとっとっと頭を揺らした。