俺とアンナは、もともとベンガルールのもうちょっとローカルな地域で二人暮らしをしてたんだけど。四人暮らしを始めるにあたって、引っ越しをすることになった。
アンナの出した条件は二つ。部屋数が十分にあること。それから、先進国的な外国人の多いエリアであること。
彼女はモーハンの姿形自体を受け入れられないんだけど、モーハンがプージャをされる姿には特に強い拒絶反応を示していた。
モーハンってね、ハリドワールにいた頃はインドのニュースやユーチューブでしょっちゅう取り上げられていたんだよ。アンナは『ずっと見続けていれば、だんだん慣れて受け入れられるようになるかもしれないから』ってよくそれらの動画を視聴していた。スマートフォンをめいっぱい遠くに置いて、ホラー映画でも見るように薄目でね。
アンナはね、本当に我が子への愛情はあるんだよ。愛したい、愛せるようになりたい、という気持ちはちゃんとある。
だけどそれらの動画には、高確率でモーハンがプージャやプラナームをされるシーンが含まれているんだ。彼女は吐き気をもよおして、それ以上視聴を続けることができなくなる。
動画なら、画面を閉じてしまえばいい。だけど目の前でそれが繰り広げられたら?
お祭りシーズンや、お寺の中でもない限り、モーハンがここベンガルールでハリドワールにいた頃みたいに人々から群がられることはないと思う。けど、やっぱりローカルな地域のほうがプージャやプラナームをされる確率はぐっと上がるだろうから。目撃回数をほとんどゼロにするためにも、『都会的な外国人の多いエリアに住む』という彼女の選択は正しいと思うよ。
四人での同居生活は、まあ、あまり上手くはいかなかった。
だってアンナはモーハンを直視することすらできないし、これまでの負い目もあってぎくしゃくとしか接せない。俺の母はアンナのことが大嫌いだし、モーハンも母からアンナの悪口——悪口っていうか、事実なんだけど。モーハンの体を受け入れられなくて堕胎しようとしたとか、生まれた直後に育児放棄をしたとか、そういうこと——を吹き込まれて育ったから、アンナのことが嫌いだし。俺は、……俺は。
ラジェシュがうなだれ、額に押し当てた右手の指先で己の前髪をくしゃりとかく。
「俺のこと、最低だって思う?」
「いえ」
首を横に振った。ラジェシュの選択の中には、確かに適切ではないものもあっただろう。だからといって、彼が最低な人間だということにはならない。
「アンナのことは?」ラジェシュが顔を動かさないまま目だけをこちらに流す。「どう思う?」
「ぼくは……」
考えを、言葉を探す。ラジェシュがぼくを見つめてじっと待ってくれている。いつの間にかプールが静かになっている。
「……ぼくは、反ルッキズムなので。見た目でそこまで嫌悪感を持つっていう感覚が、まず分からないんですけど」
「うん」ラジェシュが額に当てていた手を口元に移動させる。「こっちに来て、先進国的な外国人に囲まれて暮らすモーハンを見て思ったんだけど。驚いたり、気味悪そうにしたりする人は大勢いるよ。でも、その中でもアンナの拒絶反応は顕著だなって思う。彼女にとって、モーハンの造形は本当に生理的に無理なんだろうね」
「でもぼくは、アンナさんを悪い人だと思っているわけでは全然なくて」
「うん」
ラジェシュが腿に両肘をつき、前傾姿勢になって組んだ手の上に顎を乗せる。流れる沈黙の中、肌を撫でる風が快かった。ここベンガルールは日中は三十度でぼくには暑すぎるが、朝晩は二十度の適温に下がって気持ちがよいのだ。
「あ」
不意にラジェシュが顔ごとこちらを向いた。
「はい?」
「あのさ。これずっと聞きたかったんだけど」ラジェシュがすっと背筋を伸ばす。「きみってモーハンの見た目、好き?」
ぼくは硬直した。ラジェシュが笑う。
「何その顔は」
「え、あ、」まごまごと意味のない音を漏らす。ぼくは今どんな顔をしているのだ?「それは、どういう」
意味ですか、と続ける前にラジェシュが「いやね、」と説明を始める。
「去年さ、相当思い切ってルードヴィグにモーハンを会わせたんだよ。それまでは俺の家に……あ〜えっと、俺がアメリカに住んでたときは二人でインドのホテルに泊まってたけど。俺がインドに越してきてからは、ずっと俺の家に泊まってもらってたから。それをモーハンがいるからって理由でホテルに泊まらせるのも変だよなぁ、って」
ラジェシュが目を細くする。
「あいつ。モーハンと対面したあと、俺と二人きりになってから『ぼくは好きだな』ってうきうきした顔で言ったんだ。『多分ぼくの息子も好きだよ。ぼくたちはすごく好みが似ているからね』って。ほんとかよって疑いつつも、それと、手術を前に不安定になっているモーハンのために同世代の相談相手が欲しいっていうのとで、今年はきみにもインドに来てもらったんだけど」
ぼくは返事に窮する。
好きだ。ものすごく好きである。
しかしだ。
ラジェシュがおかしそうに首を傾ける。
「何をそんなに困っているの。別に正直に言ってくれていいよ。好きじゃないって言われても、まあそうだよなってなるだけだし。もちろんモーハンに告げ口したりもしないし。苦手な見た目なのにも関わらずモーハンと仲良くしてくれてるっていう、それだけで十分ありがたいし」
「好き、です」小声で告白してから目を泳がせる。
「ほんと?」ラジェシュが苦笑する。「ほんとに? なんか、嘘ついてない? なんでさっきからそんなに挙動不審なの」
「いや。反ルッキズムの観点から、見た目が好きとかそういう発言はすべきではないので」
しどろもどろで言った。ラジェシュが目をぱちくりさせて、それから笑う。
「マージでルードヴィグと似てるんだよなぁ。意味分かんないところで意味分かんないこだわり持ってる感じが」
ぼくは返答に困って、ごまかすようにアイスコーヒーを飲んだ。とっくの昔に氷の溶けきった、ぬるくて薄い残りわずかのアイスコーヒーをだ。
ふっと疑問が湧く。
「ラジェシュさんってどのぐらいの頻度でモーハンと話し合っているんですか?」
「ん?」
突拍子もない質問だったからだろう、ラジェシュがくわえかけていたストローを離してきょとんとぼくを見つめる。
「いや。ラジェシュさんがモーハンと話し合ってる場面を、まだ見たことがないなと思って」ぼくはラジェシュに半身を向ける。「最近、話を聞いてあげる時間って取れていますか? 手術のこととか、アンナさんとのこととか、パニック障害のこととか、ベンガルールに来てから困ってることとか」
すっとラジェシュが真顔になった。「いや……」と言いにくそうに首を横に振る。
「……そういうのは、全然できていない」
「いつからですか?」
モーハンが不登校になってから? モーハンの手術が決まってから? モーハンの祖母が亡くなってから? モーハンの祖父が亡くなって、ベンガルールで四人暮らしをすることになってから?
「したことがない」
目を逸らして、居心地が悪そうにラジェシュが言った。ぼくは「え」と間の抜けた声を上げる。
「……どうしてですか?」
ぼくにとって『悩みがあるときに父母に相談する』というのは当たり前のことだった。
こちらから打ち明けることもあるし、あちらから『最近様子が変だけど、何かあった?』と心配してくれることもある。話したからといってすべてが解決するわけではないが、少しすっきりしたり、落ち着いたり、問題解決に繋がる糸口が見つかったりするので、いつもすごく助かっている。
もちろん世の中には子供をかえりみない親もいるだろう。
だけどラジェシュは、モーハンに愛情を持っているように思える。そして今、モーハンは明らかにさまざまな悩みを抱えている。
そんな愛しい我が子の相談に、ラジェシュが乗ってあげない理由はなんだ?
「……接し方が、分からない……」
ラジェシュが地面を見つめたまま告白した。ぼくはちょっと考えてから質問する。
「ずっと離れて暮らしてきたからですか?」
「いや……」ラジェシュが組んだ手のひらで口元を覆った。そのまま顔全体を覆う。「分からないんだ。モーハンと対等に話す方法が。だって、俺は……今でも強く彼を信仰している」
長い、長い沈黙があった。
おそるおそる、といった様子でラジェシュが指の隙間からぼくを覗く。
「……引いてる?」
泣き出しそうな声で彼が聞いた。
「いや。全然」ぼくは慌てて首を横に振る。自分でも意外なぐらい、本当にまったく引いていなかった。「考えていたんです。じゃあどうすればいいのかな、って」
なんとはなしにマンション群に目を向ける。中庭をぐるりと取り囲む六棟の高層マンションには数多の窓が並ぶが、明かりがついているのはほんの数戸である。モーハンの部屋と思しき場所もすでに明かりが消えている。
「ラジェシュさんは、今もモーハンを信仰しているんですよね?」
先ほど得たばかりの情報を改めて確認したぼくに、ラジェシュが気まずそうに頭を揺らした。ぼくは疑問をぶつける。
「どうしてモーハンにプージャをしてあげないんですか?」
「……プージャをするとアンナの精神が不安定になるから」
それはそうだろう。しかしだ。
「モーハンは、ラジェシュさんがプージャをしてくれなくなったことに悩んでいました。『父さんはぼくよりアンナのほうが大事なんだ』って。そういうわけじゃないよって伝えるためにも、毎日じゃなくていい、月に一、二度だけでもプージャをしてあげたらどうですか」
ラジェシュが言葉に詰まった。ぼくは少し考えてから続ける。
「それが無理なら、せめて言葉で『今でも信仰してるよ』って教えてあげるだけでも」
「だって今さら」ラジェシュが強く訴えるように目を見開く。「今、インドは目まぐるしく変わってきているんだ。どこの先進国もそうらしいけど、インドの都市部でも若者の伝統宗教離れがささやかれている。彼は今のうちからプージャをされない状況に慣れておくべきだし、それに、」
ラジェシュが目を伏せた。弱々しくささやく。
「それに……、……もうすぐ手術だし」
もうすぐ手術だし? ただでさえ手術を前にメンタルが不安定になっているところに、良くも悪くもモーハンの感情を乱しかねない言動をしたくない、という意味だろうか。
「もうすぐ手術だからこそ、信仰の気持ちを伝えてあげても、可能ならプージャをしてあげてもいいんじゃないかなって、ぼくは思いますけどね」
以前モーハンは言っていた。プージャをされることが、人々に祝福を与えることが好きだと。ラジェシュが今なおモーハンを信仰していることを伝え、プージャをしてやれば、それは間違いなくモーハンの力になる。
しばらく二人無言で座っていた。数戸だけついている窓の明かりが、ひとつ、またひとつと静かに消えてゆく。
ラジェシュが残り少ないマンゴージュースをこくりと飲んでから口を開く。
「何日か前にルードヴィグから聞いたんだけどさ。手術の詳細って、まだモーハンから聞かされてない?」
「あ、はい。心臓の穴をふさぐ手術をする、としか」聞こうかどうしようか迷ってから、思い切ってたずねる。「他にもどこか手術をするんですか?」
ラジェシュが五秒ほどまばたきを止めてから、とっとっと頭を揺らす。
「結構大掛かりな手術ですか?」
ラジェシュがまた頭を揺らした。
「なんの手術か、きみに言ったほうがいいのかな」
ラジェシュが空に目を向ける。ぼくが住んでいるスウェーデンの田舎ほど綺麗には見えないが、ここベンガルールでもかすんだ空気越しにかろうじて星が見える。
「……言って、いいのかな」
「いや」ぼくは首を横に振った。「聞かないでおきます。モーハンのタイミングで、モーハンの口から聞きたいので」
場合によっては、何も教えてもらえないまま彼が病院へ行くのを見送ることになるかもしれない。それならそれで——彼が話したくないのであればそれで——構わない。モーハンがどんな病を抱えていようと、ぼくが彼を好きで、彼と友達でいたいことに変わりはないのだから。
「そっか」
ラジェシュが頬を緩めた。ふっと腕時計を見て「あ」と焦ったような声を上げる。
「ごめん。帰ろう。めちゃくちゃ長く話しちゃった」
視界の端で、またひとつマンションの窓が暗くなる。ラジェシュがこちらに向けた文字盤は、三時二分を示していた。