たまたま偶然ラジェシュと二人きりになれるチャンスがないかな、と初めは考えていた。すぐに、そんなチャンスを待っていたらあっという間に帰国の日が来てしまうぞ、と思い直し、その日の夕食中に腹をくくって彼に声をかけた。
「あの。あとででいいんですけど、少し二人で話せませんか」
ぴたりと大人たちが動きを止めた。アンナの瞳が気の毒なほどに揺れている。ぼくがラジェシュと二人で話したいなど、五億パーセントモーハンに関する話題だ。
「あ、ああ」ラジェシュの声はひっくり返っていた。ううん、と大きく咳払いをする。「いいよ。カフェにでも行く?」
「あ。食事が終わってからで大丈夫ですよ」
立ち上がったラジェシュを手で制した。ラジェシュが「あ、うん」と座り直し、二秒もせずにまた立つ。
「いや、無理。全然食事のテンションに戻れない。きみさえよければ、今すぐ行きたいんだけど」
ラジェシュはカフェを提案したが、ぼくが「売店で飲み物を買って外のベンチで話しませんか」と申し入れると快諾してくれた。
ラジェシュはマンゴージュースと豆のチップスを、ぼくはコーヒーを手に広い中庭を無言で横切る。
このあたりかな、と見当をつけていたベンチの前で立ち止まる。
「……そこ、多分見えるよ」
息を呑み、おずおずと助言してくれた彼に「知ってますよ」と答える。
「聞いた?」
観念したようにラジェシュが笑った。
「聞きました」
部屋の位置と窓の向きから推測するに、ここが『モーハンへのプージャを拒んだラジェシュが、出勤までの時間を潰していたベンチ』だ。
「モーハンに見られても一切問題ありません。彼から言われたんです。アンナさんとのことをぼくに知ってほしいけど、話すのがつらいから、もうラジェシュさんから聞いてほしいって」
ラジェシュが数秒呼吸を止めたのち、はーっと重く吐き出した。
「そうか……」
そのまま立ち尽くした彼を「座りましょうか」と促す。ぼくたちは並んでベンチに腰掛けた。遠く離れたプールから、きゃあきゃあとはしゃぐ声が風に乗って流れてくる。
「似てるよね」
ばりっと開いたチップスの袋を二人の間に置きながら、ラジェシュが言った。
「え?」
「いや、俺さ」話しかけてちょっと口ごもる。「こんなこと子供に話したら、あとであいつに叱られるかな。まあいっか。あいつには内緒にしててね。俺、大学のときに四股しててさ」
「えっ」
「カリフォルニアでチビで色黒のアジア人がモテるわけないんだけど。なんかめちゃくちゃモテてさ。成績がトップクラスだったし、俺にぎやかな場が好きでパーティとか行きまくってたから、多分それで」自嘲の笑みを浮かべる。「まぁ調子乗ってたねぇ。四股して、男友達に自慢しまくって。今考えるとまったく自慢できるようなことではないんだけど。羨ましがってくるやつも説教してくるやつもいたけど、説教されてもなんにも応えてなかったね。はいはいどうせ嫉妬でしょ、みたいな。そんなある日、ルードヴィグに声をかけられて」
ラジェシュが遠くを見やって微笑する。
「そのとき別にあいつと仲良くなかったんだけど。俺と成績張ってる白くておとなしくて地味なやつがいるな、ぐらいの印象で。そんなやつから急に『よかったら近々二人で話さない?』って真顔で言われて。何こいつって思ったけど、ちょうどその夜たいした用事がなかったから。ビール持ってあいつの部屋に行ったら、あいつハンドドリップでコーヒー淹れ始めてさ。これなんの時間? って思いながらコーヒーが入るの待って。こいつ潔癖そうだから今から説教されんのかな、それともこいつ彼女いなさそうだから誰か紹介してって頼まれんのかな、って観察してたんだけど、全然感情が読み取れなくて。あいつ、昔は今の五百倍は無表情だったからね。で、あいつが湯気の立つマグカップを俺の前に置いて、『きみの出身地は一夫多妻制なの?』って」
小さく声を立てて笑う。
「からかわれてるのかなとか、ジョークなのかなって思った。でもあいつは真顔だし。笑いながら『違うよ』って答えたら、『じゃあ、どうして何人も彼女を作っているの?』って」
マンゴージュースを一口飲む。
「なんていうかさ。叱るトーンとか、責めるトーンじゃないんだよ。フラットなトーンというか。もちろん、あいつにも意見とかこだわりとか偏見とか変に頑固なところとかいっぱいあるけど。『なるべくフラットに聞こうとしているトーン』っていうか。なんか俺、毒気抜かれちゃって。あと、ここが一番似てるなって思うんだけど、聞くモードに入ったときの腰の据え方」
ラジェシュがぼくを見てにこりと笑った。ふと、自分がさっきからあいづちのひとつも打っていないことに気が付く。しかしラジェシュにはそれを気にしたところがない。どうせちゃんと聞いているんでしょ、とでもいうような顔をしている。
「なんていうの、『ぼくは六時間コースを予定していますよ』みたいな空気をめちゃくちゃ感じるんだよね。まあ、俺が勝手に感じてるだけで当人らにそんなつもりはまったくないんだろうけど。分かるかな。伝わる? 例えばさ……、俺が会話の途中で一時間思い悩んじゃったとして、こいつ一切急かさずに平然と待ってくれそうだな、って感じというか」
ぼくは浅く頷いた。当たり前だろう、それは。
「俺さ。真面目な話するのほんとに苦手なんだよ。適当に楽しくその場を過ごせればいいじゃんってタイプだから、真剣な話を振られるとはぐらかしてその場から逃げ出したくなっちゃうんだよ。でもルードヴィグには、なんか話せて。アルコールなしで朝までだよ。すごくない? で、結局のところ俺は四股なんかしたくないんだ、って自覚して。その日のうちに四人の彼女と別れて、以来不誠実な恋愛は一度もしていない」
ラジェシュがスマートウォッチをちらりと見た。冗談めかして言う。
「話すよ。きみの知りたいこと全部。きみになら、俺は真面目に話せると思うから。今日は朝まではかけないから安心して」
「かけてもいいですよ」
話しにくいこともあるだろう、と気遣ってかけた言葉にラジェシュが破顔する。
「全然ジョークに聞こえないんだよなぁ」
ぼくは困惑する。ジョークに聞こえなくて当然だ。なぜなら、これはジョークではない。
こてん、とラジェシュが首をかしげて僕を見つめる。その懐っこい仕草がモーハンに似ている。
「何から話そうか。何を知りたい? モーハンに、どこまで聞いた?」
ぼくはちょっと思案する。やはり初めから順を追って聞くのが定石だろう。アンナが生まれたばかりのモーハンを育児放棄した話から——いや違う。
「堕胎、」
言いかけて、その言葉のあまりの強さに口をつぐむ。ラジェシュがあたかも物理的な打撃を受けたかのように目を見開き、息を詰まらせる。彼は腿に肘をつき、組んだ手で口元を覆い隠す。
「話すよ。話すから」目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出す。「ちょっと待ってね」
アイスコーヒーの氷が溶けかけて味が薄まりだした頃、ぽつり、ぽつりとラジェシュが話を始めた。