20 ごめん

 ヨーガをしているときのモーハンの集中力はすごい。
 今朝は彼の方が先にプールに来ていた。一応「おはよう」と声はかけたものの、予想通り返事はなかった。
 目をつむって微動だにしないモーハンをちらちらと見ながら泳ぐ。ヨーガ中の彼は外界がいかいのことなどまるで意識にないように思えるのに、日が昇る直前には必ずぱちりと目を開けるのだから不思議だ。
 プールに入りかけたモーハンが「あ」とぼくに気が付いた。立ち止まって手を振ると、彼も笑って振り返す。
 沐浴もくよくを終えたモーハンに「ダグ」と呼ばれた。すいっと彼のもとまで泳いでゆく。
「なに?」
 たずねながらも、ぼくは彼の言うことに八割方見当をつけていた。案の定、彼が清々しい顔で「アンナに謝ったよ」と言う。
「ああ」ぼくは頷いてみせる。「どうだった?」
 実を言うと、知っていた。

 昨晩の夕食後だ。いつものごとく大人たちがリビングでフィーカをする中、ぼくはゲストルームでごろごろと過ごしていた。
 かちゃり、とモーハンが部屋を出る音がした。
 トイレかなと思ったが、彼の足音はシャワールームではなくキッチンへと向かった。チャイを入れるのかな。チャイを入れるのには、スティックタイプならば五分もかからない。茶葉から入れても十分程度だ。しかし、十分経っても二十分経ってもモーハンがキッチンから動く様子はなかった。茶葉からチャイを入れるのに手こずっている、わけではないと思う。なにせ、彼がキッチンに移動してから今まで物音ひとつ聞こえてこないのだ。
 ついに三十五分が経過し、もしかするとモーハンが部屋を出たというところからぼくの思い違いだったのでは、と疑い始めたそのとき、彼がキッチンを出て廊下を歩くかすかな足音がようやく聞こえた。
「アンナ」
 モーハンが短く名前を呼んだ。
 陽気にざわついていたリビングが一瞬で静まり返る。「ちょっと」とモーハンの声。きっと彼はアンナに手招きをしたのだ。がた、ガチャン、と食器同士がぶつかる硬質な音がして、アンナが「ごめんなさい」と狼狽した声を上げる。慌てて立ち上がった拍子に何かをこぼしたのだろう。「いいよ。拭いとく」とラジェシュの声。
 ぺた、ぺた、とぎこちない二人分の足音が短い廊下を進む。彼らはリビングから一番遠いところ、夫婦の寝室の前で足を止めた。
「あの……ごめん」
 モーハンが手短てみじかに謝った。扉越しにもアンナの困惑が手に取るように分かる。モーハンが補足する。
「あの。以前あなたがインド料理を作ってくれたとき、一口も食べずにひどいことを言ったから。ごめん」
「いいのよ」
 アンナが素早く言った。
「いいの。そんなこと、いいのよ。私の……私の方こそごめんなさい。ずっと……」
 アンナが口ごもった。モーハンが少し待ってから「ずっと?」と先をうながす。アンナはもうしばらく黙ったのち「……ごめんなさい……」と声を絞り出した。

 ぱちゃり、とモーハンがプールの壁にもたれかかる。
「案外すっきりするもんだね」
「それはよかった」
 短い沈黙が訪れた。鳥のさえずりと、プールの波の音がのどかだ。
「アンナがさ、」
「ん?」
「アンナもぼくに『ごめん』って」
「うん」
「それで、ぼく何に対してのごめんかを聞いたんだ。そしたら彼女答えられなかった。ぼくの見た目が生理的に無理でごめんとは、さすがに言えなかったみたいだ」
 ぼくはコメントに困って「うん」とだけ返した。モーハンが快晴を見上げて口角を上げる。
「ちゃんと理由を言えた分、ぼくのほうがえらい」
「えらいよ」大きく頷く。「立派だ」

 昼食は、昨日話していた通りシナモンパラタを作った。
 モーハンは「色々作ると大変だからおかずはレトルトにする?」と言っていたのだが、パラタの生地を寝かせる三十分間(彼は「もっと短くてもいいし、おばあちゃんたまに寝かせずそのまま伸ばして焼いてたよ」とも言ったが)を利用して、売店で購入したトマト缶と昨日のあまりのじゃがいもでカレーを作った。
 モーハンは料理に乗り気ではない。そのため、生地をはかるだとかじゃがいもの皮を剥いてカットするだとかトマトを炒めるだとかシナモンフィリング(モーハンの希望で砂糖の量をレシピよりも大幅に増やした)の材料を計量するだとかの面倒な作業はぼくが担当して、彼には生地をこねるだとか伸ばすだとかカレーのスパイスの量を決めてもらうだとかシナモンフィリングの材料を混ぜてもらうだとか、彼が関心を持った作業だけを担当してもらった。
 言うまでもなく、ぼくも料理は別に好きではない。ただ、料理をするとモーハンが「すごいすごい!」「手際いいねぇ」「おいしそう」とにこにこ褒めてくれるものだから、それを目当てにやっているに過ぎない。
 できあがった料理を二人でリビングへと運ぶ。四分割のステンレスプレートの上には、シナモンパラタ、じゃがいものカレー、ヨーグルト、漬物アチャール。あとは、ぼくが茶葉から入れたマサラチャイのマグカップ。
 モーハンがカレーをシナモンパラタにディップしてぱくりと食べる。 たちまち「うわ、これめっちゃいい」ととろけた顔になる。
「いい感じ?」
「ぼくは好き」もう一口食べる。「きみは? 気持ちチリペッパー控えめにしたんだけど」
「え、そんな気を使ってくれなくてもよかったのに」
「だって、どうせなら一緒においしく楽しみたいじゃん」
 ぼくはモーハンのように一つの右手だけで器用にパラタをちぎることができない。両手を使ってちぎったそれを、カレーにディップして口に運ぶ。なかなかの辛さに「ん」と目を見開く。直後にシナモンパラタの強烈な甘さで口の中が中和される。ぱくりともう一口。激しい辛さと甘さに脳を揺さぶられる。もう一口。
「おいしいねぇ」
 ぱくぱくと食べるぼくを見て、彼が満足そうに目を細めた。ぼくはいわば混乱状態で矢継ぎ早に口に入れているだけであり、実はまったく『おいしい』とは感じていなかった。といって、まずいわけでもない。甘さと辛さに脳が振り回されて『おいしい』だの『まずい』だのの評価を下せる状態に至っていない。もう少し食べれば分かるのではとまた口に入れるが、カオスは深まるばかりである。
「ダグってさ、」
「ん?」
 モーハンの呼びかけに、シナモンパラタをちぎる手をようやく止める。
「……やっぱりなんでもない」
「え、なんで」
「だって、こんな話……」
 くる、とモーハンのしっぽの手の指先がソファの背もたれをなぞる。
「何? なんでも聞くよ」
 こくりとチャイを飲んで彼を見つめる。
「……きみって、ルードヴィグさんとすごく仲がいいよね?」
 やぶから棒な発言に面食らった。そのままフリーズしかけ、いけないいけない、と返答を急ぐ。
「そう、……かな? 別に普通だと思うけど」
「めちゃくちゃ仲いいよ」モーハンが苦笑する。「あの、言いたくなかったらいいんだけど。……お母さんは?」
「お母さん?」
「インドに来てないから」
 ああ、そういう意味の質問かと理解する。
「母親とも普通だよ。うちの母親、暑いのとうるさいのと人が多いのがダメだから」
「あ、その三つがダメならインドは無理だね」
 モーハンが表情を和らげた。すぐにくっと引き締める。
「じゃあ……きみんちは家族仲がいいんだ」
「うん。まあ普通にいいと思うよ」
「……呆れてる? ぼくがアンナの愚痴ばっかり言うことに」
「え、全然」
 ぶんぶんぶんと首を横に振る。
 アンナは根っからの非道人、というわけではないと思う。『夫が実子を神として祈りを捧げている』という異様な境遇に置かれた彼女への同情心もある。しかしだ。
「きみがアンナさんに好感を抱けないのは当たり前だよ。だって、生まれてすぐに育児放棄をされたんだから」
 モーハンが下唇を軽く噛んで目を伏せた。長いまつ毛が下まぶたに優美な影を作り、絵画のように映る。
 チャイのマグカップに手を伸ばしかけた彼が、途中で止めて引っ込める。一本の右手の親指を、人差し指と中指で居心地が悪そうにくりくりいじる。
「……アンナが」
「うん」
「……アンナって、ぼくを……堕胎するつもりだったんだ」
 堕胎、というショッキングな単語に絶句した。
 ちらりとモーハンに上目でうかがわれ、我に返って取り急ぎ会話を繋ぐ。
「誰に、」声がかすれた。つばを飲み込んで強引に喉をうるおす。「誰に聞いたの。それは」
「おじいちゃんとおばあちゃん」
「孫にすべき話ではない」ぼくはかぶりを振る。「それを聞いたきみがひどく傷つくことぐらい、考えなくても分かるはずなのに」
「おじいちゃんとおばあちゃんのことを悪く言わないでよ」
 モーハンが非難の目でぼくを睨んだ。
 鋭い眼光に射すくめられ、ぼくは「ごめん」と謝罪する。モーハンが「あ。ごめん、ぼく……」と視線を泳がせる。ぼくは「いや。今のはぼくが悪い」と首を横に振る。
「きみのおじいちゃんとおばあちゃんのことを悪く言っちゃって、ごめん。……それで?」
 アンナのことに話を戻す。モーハンが「それで、」と姿勢を正す。
「それで……」
 見る間に彼の背が丸まってゆく。「それで……」とソファの上で膝を二つ揃えて立て、ぽすりと膝頭に額を伏せる。
「……ごめん」
 彼が重たい息に乗せるように謝った。
「ん?」
「つらいんだ。アンナとのこと」
「うん」
 その手を握ろうか、握ったら気味悪がられるだろうかと逡巡する。
「……きみに、アンナとのことをちゃんと分かってもらいたいんだけど。……話すのもつらくて」
「うん」
 伏せられた彼の表情はほとんど見えない。唯一横から見える唇が、かろうじて微笑の形を装う。
「ていうか、ごめん。ただぼくが聞いてほしいだけで。こんな暗い話、聞かされる側は迷惑なだけだよね」
「迷惑ではない」
 きっぱりと言った。モーハンが濡れた瞳を上げる。ぼくはまっすぐに彼を見据えながら「迷惑ではない」と繰り返す。
「ありがとう」
 モーハンがちょっと頬を緩めた。再び膝頭に顔を寄せ、ボトムスの生地に目元を擦り付けてからまた顔を上げる。
「でも、ごめん。やっぱり無理だ。アンナとのことを話すのは本当につらくて」
 冗談めかすようにことりと首をかしげる。
「なんかもう……父さんにでも聞いてきてほしい」
「んっ?」
 思いがけない提案に頓狂な声を上げた。モーハンが「うそうそ」と笑うのを無視して「父さんって、きみの? ぼくの?」と真面目な顔で問う。
「ぼくの」
 答えてから、モーハンが「冗談だよ?」と上目で言う。試すような目つきだ。さながら、自分が“神さま”であることを初めてぼくに打ち明けてくれたときのような。
「今日か明日か、ラジェシュさんに時間をとってもらって二人きりで話すよ」
 言い切ったぼくに、モーハンが「できるかな」と目線を下にやる。
「父さん、あれで結構多忙だから」
「できるでしょ。仕事は多忙かもしれないけど、毎日二時間も三時間も夕食後にフィーカをしてるんだから」
 しれっと答えた。モーハンが目をぱちくりさせてからふっとほほえむ。
「確かに」