目が覚めると午前十一時だった。
ベッドの上に起き直り、頭をかく。隣の父のベッドはもぬけの殻だ。
のっそりと部屋を出て、廊下を挟んだ向かい側のシャワールームに入る。
モーハンの家は広い。タワーマンションの二十三階に位置し、玄関を入ってすぐのところにダイニング兼用のリビング、廊下を挟んだ右側の手前にモーハンの部屋、奥にぼくと父の滞在しているゲストルーム、左側の手前にキッチン、奥にシャワールーム、そして廊下の突き当たりに夫婦のベッドルームだ。「ぼくらの部屋にもシャワールームがあるから、ここは気兼ねなく使ってね」と昨日ラジェシュから説明された。
用を足し、シャワールームを出る。リビングの方から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。寝ぼけた頭でぼんやりしていると、がちゃりとモーハンの部屋の扉が開いた。
「あ」
モーハンがぼくを見てちょっと口元をほころばせる。
「おはよう、」
「おはよう」
ぼくは被せるように口早に答えた。そのまま大急ぎでゲストルームに飛び込む。
クローゼットの扉を開き、内側に備えつけられた鏡で自身を映す。寝癖でぼさぼさの頭。最悪だ。
生まれ持った造形にあらゆる感情を持つべきではない、と考えている。と同時に、身だしなみは大切だとも思っている。髪をとかしたり、顔や体を適当な頻度で洗ったり、歯を磨いたり、清潔な服に着替えたり。
モーハンに『だらしがないやつだ』と呆れられてしまっただろうか。
こんこんこん、と扉がノックされた。「ダグ?」と父に呼ばれる。
「はい」
がちゃり、と父が顔を覗かせる。
「おはよう」
「……おはよう」
「リビングで歓迎会をしてくれてるから、準備ができたらおいで」
「オッケー……」
「何。眠い?」
いつにも増してローテンションなぼくに、父が笑った。ぼくは「まあ、うん」と曖昧に答える。眠くもあるけれど、それ以上にへこんでいる。
「じゃあ」と去ろうとした父を「あ、ちょっと」と呼び止める。
「ん?」
「タオルとかってどこにあるの?」
シャワーを浴びるか、少なくとも顔を洗いたい。シャワールームに収納スペースはなく、何も置かれていないステンレスのウォールシェルフと、洗面台の下に濡れたタオルが一枚放り込まれたステンレスのバスケットがあるきりだった。
「そこそこ」父がクローゼットの右端に置かれた二段ばかりのチェストを指す。「上段がタオル。下段はからっぽだから、好きに使ったらいいよ。使用済みのタオルとか洗濯してほしい服とかは、シャワールームのバスケットに入れておけばメイドが洗ってくれるから」
「メイド?」
「そう。通いのメイド。インドではメイドを雇うことはかなりポピュラーなんだ」
「へえ」
文化の違いを興味深く感じながらついでに聞く。
「あ。頭ってさ、こっちではどのぐらいの頻度で洗うのが普通? 暑いから毎日洗ったほうがいいのかな?」
「うーん、人によるけど。硬水だから毎日洗ったら傷むかも。ぼくは毎日軽く流すけど、シャンプーするのは二、三日に一回ぐらいかな。あの、シャワーのところにシャンプーとかボディソープとかと一緒にヘアオイルのボトルがあるんだけど。あれ使ったら大分マシだよ。あれを髪に馴染ませて、三十分ぐらい置いてからシャンプー」
「オッケー」
ひとまず今日は顔と体だけを洗おう、とチェストからタオルを一枚出した。バックパックからくしを取り出し、『モーハンはいないよな』とあたりをうかがいながら廊下に出る。素早くシャワールームに飛び込み、しっかりと鍵をかけてから身繕いをする。
支度を終えてそろりとリビングに顔を出す。初対面の女性がすぐにぼくに気が付き、「あら!」と弾けるような笑顔で立ち上がる。
「はじめまして。アンナよ。よろしくね」
真っ黒なロングヘアを高い位置でひとつに束ねた、はつらつとした印象の女性だ。目の形がモーハンにそっくりである。
「はじめまして。ルードヴィグの息子のダグと申します。一ヶ月間、お世話になります」
彼女から差し出された手を握りながら挨拶をすると、とん、と彼女にもう片方の手で背中を叩かれた。
「なーに、そんなにかしこまらないで! 自分のうちだと思ってくつろいでくれていいのよ」
「ありがとうございます」
小声で答えながら室内に視線を巡らせる。大きな窓のある開放的なリビングには壁掛けのテレビがあり、そのそばにごちそうが山と積まれたローテーブル、それを囲むように設置された三台の大きなソファ、そしてその背後(廊下に近いほうだ)に四人がけのダイニングテーブルが置かれている。父とラジェシュとアンナはソファで談笑しているが、モーハンはなぜかダイニングテーブルで一人黙々とカレーを食べている。
ダイニングチェアの背もたれの隙間から無防備に垂れるしっぽのような腕に知らず見とれていると、不意にモーハンがこちらを向いた。どきん、と心臓が跳ねて慌てて横を向く。モーハンとアンナの目の形は瓜二つなのに、彼女と目が合ってもまるで平静でいられるのに、彼と目が合うや否や激しい動悸がするのだから我ながら理解に苦しむ。
モーハンが何か声をかけてくれるかな、と少し待った。
まったくの無言を返され、勇気を出して一瞬だけ彼を盗み見る。彼はすっかりぼくから視線を外していた。ぼくはぎこちなくソファに腰を下ろす。
昨晩の車の中でのモーハンは、初めのうちはフレンドリーだった。ぼくの手に指を絡め(マンションに着いてから父に質問したのだが、インドでは同性の友人同士で手を繋ぐことはごくポピュラーらしい。それを聞いたぼくはなぜだかがっかりしてしまって、その反応に自分で困惑した)、体をくっつけ、にこにこといろんな話を振ってくれた。しかし緊張で目も合わせられず、いつも以上に応答が下手くそになって「え、」「ああ」「うん」とぼそぼそ低レベルなあいづちのみを打つぼくに、彼はすっかり嫌気が差したようだ。ドライブが始まって十分後には手を解かれ、体も離れ、残りの五十分間はお互い居心地が悪そうに窓の外を見やりながらの黙座である。
「おいしい?」
アンナに顔を覗き込まれ、「あっはい」と反射のように答えた。勧められるまま口に運んでいたそれを改めて確認する。ラザニアだ。テーブルにはテイクアウトしたらしきプラスチックの容器がたくさん並んでいるが、ラザニアは手作りのように見える。
「よかった」アンナが目を細める。「私の得意料理なの。でも、うちの人はベジだから腕前を披露する機会が全然なくって」
「彼女はサンフランシスコ出身なんだ。出会いもサンフランシスコだよ」ラジェシュが横から言う。「会社の先輩で、俺の一目惚れ」
ぼくの父はカリフォルニア州にあるスタンフォード大学の工学部を卒業したのち、スウェーデンに戻って就職をしたと聞いているが、ラジェシュはカリフォルニア州に残ったのだ。
となると、モーハンはカリフォルニア州で生まれたのだろうか。それともインド? それとも、もっと他の国?
「あなたはどこへ行きたい?」
いきなりアンナに問われてフリーズした。
どこ、とは? 進学、あるいは就職で行きたい国を聞かれているのだろうか。
困っていると父が助け舟を出してくれた。
「明日あさって、ラジェシュとアンナが休みを取ってくれたんだ。どこか行きたいところはある?」
考えごとをしている間に話題が変わっていたらしい。よくあることだ。
「えっと、」ぼくはインドの観光地に詳しくない。皆さんにお任せします、と丸投げをしかけて「あ」と思いつく。
「お寺に行ってみたいです」
アジア旅行でお寺へ行く、というのはありふれた選択だ。だが、せっかく初めてのアジアなのだからまずはベタなことをしておきたい。神的な体のモーハンがお寺をバックに立つとよく映えて素敵だろうな、という下心も少しあった。
部屋の空気が凍りつく。
「え?」
ぼくはうろたえる。
「ぼくは行かない」
「私は行かないわ」
モーハンとアンナの声が揃った。二人がハッと顔を上げかけて、視線が交差する直前に同時に伏せる。
「あなたは行けばいいでしょう。だってぼくは行かないんだから」
モーハンが吐き捨てるように言った。あなた、という単語がいやに他人行儀に響く。アンナが長い髪を揺らしてかぶりを振る。
「いいえ、私、あの、私、すっかり忘れていたわ。明日とあさっては大事な会議があるの。ごめんなさい、本当に申し訳ないんだけれど四人で楽しんで、」
しどろもどろとアンナが言う途中で、モーハンが荒々しく席を立った。
「みんなで好きなところへ行けばいいよ」誰とも目を合わせないまま言葉を打ち捨てる。「ぼくは行かないから」
食べかけの皿をそのままに彼が自室へ去るのを、みなは固唾を呑んで見守った。ばたん、と彼の部屋の扉が乱暴に閉まる音。リビングを静寂が支配する。
「どうする?」
沈黙を破ったのはラジェシュだった。コミカルな仕草で肩をすくめ、両手のひらを上に向けてはみせるが、その顔は今にも泣き出しそうだ。
「パーティは中止?」