18 手を繋いで

 どっ、どっ、どっ、と心臓が強く脈打っている。
 緊張のあまり指先が冷たい。
 左手の中には熱の塊。
 モーハンの右手の一つだ。
 彼と手を繋いで歩くのは、実に初日ぶりである。

「今日デリバリーにする?」
 一時間半前、ひょっこりとリビングに顔を出したモーハンが聞いた。
「ん? うん。どっちでもいいよ」
 ぽすん、とモーハンがぼくの隣に腰を下ろす。スパイシーで甘ったるい香りがふわりと漂う。彼がリビングに来たら揃ってキッチンへ行く、という流れが定着していたため浮かしかけた腰を、再びソファに落ち着ける。
「ごめんね、毎日レトルトか冷凍食品ばっかりで。いい加減飽きてきたよね」
「いや、全然大丈夫だけど」
「なんか、ぼくの感覚で毎日インド料理ばっかり食べさせちゃってたけど。あれ食べたいとかこれは嫌とか、全然言ってね。このへん外国人多いからなんでもあるよ。中華とか、トルコ料理とか……。ヨーロッパ系も探せばあると思う」
 モーハンがデリバリーアプリらしき画面をあれこれ触る。次々においしそうな料理の画像が表示され、ぼくは今にも鳴り出しそうな腹を宥めながら「インド料理でも全然いいよ」と答えた。
 ぼくは食へのこだわりがかなり低い。
 毎日三食芋とミートボールでも不満はないし、手作りの料理も冷凍食品もレトルト食品も外食も、味の違いは分かるが等しく『いいね』と楽しめる。
 結局、モーハンの提案でハンバーガーを頼むことになった。
 モーハンは野菜とチーズのハンバーガー、ぼくはチキンとチーズのハンバーガー、それからフライドポテトとジュースだ。
「手料理が恋しいなぁ」
 ポテトをつまみながらモーハンがぼやく。
「おばあちゃんがいた頃は、毎日おいしいごはんを食べられたのに」
「きみのおばあちゃんは料理を作るのが好きだったの?」
「そうそう!」
 モーハンがぱっと瞳を輝かせた。以前父から『モーハンは去年みんなとごはんを食べていた』と聞いたことを思い出す。ぼくの父は毎年六月か七月にインドへ行く。そして、モーハンの祖母は去年の八月に亡くなった。つまり去年父が来印らいいんしたときにはモーハンの祖母は存命で、テーブルには彼女の手料理が並び、だからこそモーハンはみんなと食卓を囲んでいたのだろう。
 ふと、義母の作ったインド料理ばかりが並ぶテーブルで、アンナはどんな気持ちで過ごしていたのだろうと気にかかる。ひょっとすると、アメリカ的な味付けのTVディナーを温めて夫婦の寝室で一人食べていたのかもしれない。さながら今のモーハンのように。
 モーハンが唇を尖らせる。
「アンナは全然作れないからなぁ」
「え? 歓迎会のときに食べたアンナさんのラザニア、おいしかったよ」
「ちーがうよ。インド料理。アンナはラザニアとかローストチキンとか、そういうのしか作れないから。それすら作るのはパーティのときだけで、毎日の食事は冷凍食品とかデリバリーとか、買ってきたやつばっかり」
「それの何がいけないの?」
 首をかしげたぼくに、モーハンが「え?」と目をしばたたかせる。
「お金があるなら便利なものはどんどん活用したらいいと思うよ。それに、アンナさんはバリバリ働いてるんだから日常的に料理を作る時間はないでしょ」
 我が家も共働きかつ全員食へのこだわりが薄いため、日々の朝食はコーヒーと市販のパン、昼食は給食や社食、夕食は『市販のミートボールかスモークサーモン、市販のマッシュポテトかパン、リンゴかニンジンかカリフラワーのいずれかを生で丸かじり』の三点セットが基本だ。料理は気が向いた休日にたまにしかやらない。
 モーハンがちょっと黙った。ううん、と小さく唸ってから言い返す。
「でもさ。外食や市販品だと油や塩の量を調節できないし、いつ誰がどんな材料でどんなふうに作ったのか分からないから。毎日の食事は、家庭料理が一番安心安全かつ健康的でいいと思うよ」
 ぼくには分からない感覚だ。しかし、世の中にはそういう人もいるのだろう。
「じゃあきみが作ったら?」
 当然至極なぼくの提案に、なぜだかモーハンはぽっかりと口を開けて固まった。ぽとり、と彼の指先からフライドポテトが落ちる。
 ぼくはのんびりとジュースを飲みながら彼のフリーズが解けるのを待った。
 ややあって、モーハンが戸惑ったように聞く。
「ぼくが作るのはおかしくない?」
「なんで。おかしくないでしょ。まあ、学校から帰ってすぐに作るのは大変かもしれないけど。休みの日ならできるし、少なくとも今なら毎日できる」
「だって男だよ。うちは料理人の家系でもないし」
「男とか女とか、家系とか関係ないでしょ」
「“あたらしい”人だ」
 モーハンが揶揄やゆするように言った。ぼくはむっと眉間に皺を寄せる。
「そのグループ分け、ぼくは好きじゃないんだけど」
 なぜって、ぼくの中には先進国的な部分もあれば、前時代的な部分もきっとあるのだ。人間にはさまざまな面があるものなのだから、『その考え方“あたらしい”ね』ならよいが『“あたらしい”人だね』というくくりは横暴すぎる。
 そこまで考えてはたと気付く。
 モーハンは頻繁に“あたらしい”というワードを使う。ぼくはそれに強い不快感を覚えるときと、軽く聞き流すときがある。
 強い不快感を覚えるのは、いつだってぼくが“あたらしい”人だと言われたときだ。
 恥ずかしくて顔が赤らむ。
 それらしい理由付けをしていたが、実際のところ、ぼくはモーハンの軽率なグループ分けに本気で立腹していたわけではない。
 ただ、ぼくを大雑把に分類されることにいきどおっていたのだ。彼にはぼくをよく見て、知って、分かってほしいから。
「料理かぁ」
 ぼくの赤面に慣れているモーハンは、気にしたそぶりもなく会話を続ける。
「でも、うーん、無理だと思うなぁ。ほんとにやったことないから何も分からないし、全然できる気がしない」
「何を作りたいかにもよるけど。ポピュラーな家庭料理なら、レシピ通りにやればそれなりのものにはなるよ」
「ほんとに?」
 モーハンが半信半疑の顔をした。直後に思い立ったように聞く。
「きみは?」
「ん?」
「きみは料理するの?」
「ときどきするよ」
 続く「簡単なものだけどね」という台詞にモーハンの「うわ、すご」という声が重なる。
「簡単なものばっかりだよ」
 改めて言った。
「え、今まで何作ったの?」
「えっと。オープンサンド、パンケーキパンカーカ、マッシュポテト、ハッシュポテト、ハッセルバックポテト、ヤンソン・フレステルセ、あとはまあ、スープとかサラダぐらい」
 自炊はたまにしかしないから、やったときは達成感に浮かれて写真を撮る。そのアルバムをスワイプしながら料理名を列挙すると、モーハンが「すご!」と身を乗り出した。
「え、お母さんとかと一緒に作ったの?」
「いや。子供の頃は親のお手伝いみたいな感じで一緒に作ることもあったけど。十歳ごろからは一人で作ってるよ。ここに入ってる画像は、全部一人で作ったやつ」
「すご」
「別にすごくないよ」
 などと冷静な物言いをしながらも、内心では大いにほくほくしていた。無論料理の腕を褒められたことが嬉しいわけではなく、モーハンに褒められたことが嬉しいのだ。
「え、ぼくラジマ・チャワルが一番好きなんだけど」
 モーハンがもじもじと、少し気恥ずかしそうに、少し興奮したように言った。
「ラジ……何?」
「ラジマ・チャワル。ラジマとライス」
「ラジマが何?」
「『ラジマが何?』」
 モーハンが大きく目を見開いた。
「え、ラジマ。ラジマはラジマだよ。え、ラジマって英語で何?」動揺したようにスマートフォンを操作する。
「あ。赤いんげん豆キドニービーンズ
 彼が画面を見ながら読み上げた。ぼくは「ああ」と頷く。
「一回レトルトで食べたよね。確かにおいしかった」
「うん。レトルトのも、屋台のもおいしいよ。でもぼくおばあちゃんのラジマが一番好き。隠し味にパプリカパウダーをちょっと入れるの」
「え、じゃあそれ作る?」
「作れる?」
 モーハンが目をきらきらさせた。ぼくは「作れると思うよ」とアルバムを閉じてウェブブラウザを開く。
「ラジマのつづりは?」
「えっと」
 すっとモーハンの右手のひとつが横から伸びた。ぼくの胸の前を通り、彼の指先がぼくのスマートフォンのキーボードの上をなめらかに滑る。彼のスパイシーで甘ったるい香りが、あとほんのわずか動けば触れ合いそうで、だけどぎりぎり触れない至近距離で無頓着に動く彼の指先が、ぼくの脳と心臓をぐらぐら揺らす。
「ん」
 『rajma chawal』と打ち込んだモーハンが涼しい顔でぼくから離れた。
 ぼくはひそかに深呼吸をひとつしてから、後ろに『recept』と付けて検索ボタンを押す。
 一番上に出てきたページを開き、ざっと流し読みをする。スパイスを油で熱し、玉ねぎなどを炒め、トマトを加熱し、スパイスを加えて馴染ませてから、あらかじめ炊いておいた豆と水と塩を入れてしばらく煮る。
「できそう?」
「できると思う」
「すご。即答じゃん」
 モーハンがこぼれるような笑みを見せた。「明日作る?」と聞いたぼくに「作る作る」と頭を揺らす。
「野菜って何がいる? ここの売店、レトルトとか冷凍食品とか缶詰は置いてるけど、野菜はないから」
 ぼくはレシピに記載された野菜を読み上げる。
「玉ねぎ、トマト、青唐辛子、しょうが、にんにく、コリアンダー、あとはラジマ」
 それを聞きながら、たたたたた、とモーハンが自分のスマートフォンに文字を打ち込んでゆく。メモを取っているのかなと考えていると、彼が思いがけないことを言った。
「メイドに送っとくね。今送れば、多分今日の買い出しに間に合うと思う」
「え、待って」
 とっさに止めた。「ん?」とモーハンが首をかしげる。ぼくは口をつぐむ。言おうか、どうしようか。言ったら引かれるかな。嫌がられるかな。
「ん?」
 モーハンがもう一度、優しく促すように首をかしげた。
 勇気を振り絞って言ってみる。
「……一緒に、スーパーに買いに行かない?」
「え」
 モーハンが目を丸くした。
 視線を斜め下にやり、「んー……」としっぽの腕を揺らしてちょっと考え込む。そろり、とうかがうようにぼくを見上げる。
「……引かない? もし、ぼくが誰かにプラナームされても」
 プラナームとはかしこまった挨拶のことだ。『もし街中でいきなり他人がモーハンの足元にうずくまり、不浄とされる足にありがたそうに触っても引かない?』。
「……引かない」
 引くかもしれない、と不安になりながらも答えた。だって、ここで『引くかも』と答えれば彼と出かけることは叶わない。
 短い沈黙を挟み、こてんとモーハンが頭を斜めにする。
「分かった。じゃあ、行こう」

 マップで調べると、最寄りのスーパーマーケットまで徒歩で二十分だった。
 日差しが痛い。帽子を被り、日焼け止めも塗りたくったが、家に帰る頃には首筋が真っ赤に焼けているかもしれない。
 ぼくたちは横方向に七十センチほど離れて歩いていた。マンションを出て、歩き始めるなりモーハンがその位置にずれたのだ。
 ほとんど無意識にちらちらとモーハンを見ていると、彼が「何?」とおかしそうに笑った。
「めっちゃ見てくる」
「あ、ごめん」慌てて目を逸らす。
「なに?」モーハンが長いまつ毛越しにぼくを見上げる。彼も瞳の色が薄いため眩しいだろうと思うのだが、ぼくと違ってサングラスはかけていない。「やっぱり帰る?」
 ぶんぶんぶん、とぼくは首を横に振った。
「違う。そうじゃなくて、あの」
 みるみる己の顔が赤らんでいくのを自覚する。言おうか。どうしようか。「あの、あの、」と時間稼ぎの声を出す。『なんでもない』と嘘をつこうか。赤面しすぎて顔が痛い。
「あの……」
「うん?」
「……手を、……繋ぎたい……」
 まともに声になったのは『手を』までだった。あとの言葉は蚊の鳴く声よりも小さくて、その上終わりにかけて消失していった。
「手を?」モーハンがふっと微笑して、横方向の距離をトッと五十センチも詰める。「え、もう一回言って?」
「……なんでもない……」
 ぼくは真っ赤な顔をふいと背けた。「なんでなんで」とモーハンがぼくの手の甲を指先でつつく。
「え、繋いでもいいの? ぼくと手を繋ぐの嫌じゃない?」
「全然嫌じゃない」
 顔を背けたまま口早に言い切った。するりと彼の手がぼくの手に絡みつく。どきり、とぼくの心臓が大きく跳ねる。
「ぼく、スキンシップするの好きなんだ」
 モーハンがにこにこしながら繋いだ手の指先でぼくの手のひらをこちょこちょくすぐる。ぞわり、と生まれかけた奇妙な熱をぼくは意識的に散らす。
「生まれてから十二年間、プラナームをされて祝福を与えて、っていろんな人と触れ合うのが当たり前の環境だったから」
 ぼくは「うん」と小さくあいづちを打った。脳と胸は燃えるように熱くて、指先と足の先は緊張で冷え切っていて、風邪でもひきそうだ。
「でも、ベンガルールに来てから人と触れ合う機会が激減してさ。ルードヴィグさんから『息子がきみと友達になりたいみたいだよ』って連絡をもらったときは嬉しかったよ。だって、友達ができたら手を繋いで歩いたりできるじゃない。ぼくの体型を知りながら友達になりたいって思う“あたらしい”人は珍しいなってびっくりしたけど、ルードヴィグさんの子供なら、まあありうるかって。なのに実際に会ったきみは目も合わせてくれないし、ぼくが手を繋いだらめちゃくちゃ嫌そうにするし」
「両方誤解だよ。あれは、照れと緊張で変な態度になっちゃってただけ」
 それと、きみがぼくの父から連絡をもらった時点では、ぼくはきみの体型のことなんてなんにも知らなかったよ、と口にする前にモーハンがからから笑い出す。
「ぼく相手に照れることないのになぁ」
 『きみが相手だから照れたんだよ』と言い返しかけて、“友達”にその発言をするのはなんだか妙な気がしてやめた。
「ルードヴィグさんってすっごく平等でいい人だよね」
 モーハンがはにかむ。
「今、『反ルッキズム』とか言うじゃん。人を見た目で差別するのはやめましょう、みたいな」
「ぼくも反ルッキズムだよ」
「でもさ。理想と生理的嫌悪は別なんだよ」
 以前にも彼とこういう話をしたな、と思い出す。彼が続ける。
「反ルッキズムの“あたらしい”人たちは、ぼくの体について直接あれこれ言ったりはしない。でも目つきや態度にはどうしても出るんだ。多分、奇妙な体の人間を見て『うわっ』となるのは生き物として正常な反応なんだと思う。そう感じない“古い”ヒンドゥー教徒の感覚がずれてるだけで——その人たちだって、すべての奇形に神性を感じて崇めるわけじゃない。ぼくはたまたま“神さま”の形だったけど、すごく見下されてゴミみたいに扱われてる奇形の人もたくさんいたよ。ぼくだって、そういう人を見たとき『うわっ』ってなってたし。そのカルマがサンスカーラを生んで今、」
 語りかけたモーハンが、ぼくの瞳がにわかに当惑したのを感じ取ったらしく「ごめん。すぐヨーガの話に逸れるね」と苦笑した。
「適当に聞き流してくれればいいから」
「一回聞いたら気になるんだけど」
 ぼくが深刻な表情で訴えると、彼は「えっと。要は、過去の自分の行いが回り回って自分に返ってくる、って話をしたかっただけ」とほほえんだ。
「話を戻そう。ルードヴィグさんもね、ぼくと初めて会ったときはさすがに驚いてたよ。でもそのあと、見なかったことにするわけでも、必死に平静を装うわけでも、もちろんモンスターを見る目を向けるわけでもなくて、ぱぁっと満面の笑みを浮かべて親しげに握手をしてくれたんだ。嬉しかった。ぼくを『普通の子供』とおんなじように扱ってくれて」
 いや。ぼくは心の中で反論する。
 そのときの父は、徹底した反ルッキズムの精神にのっとってそんな態度を取ったわけではない。父がよその子供と対面した際の標準的な態度は『少し離れた位置から控えめな微笑を送る』だ。父はモーハンの容姿があまりに好みだったがために、でれでれとだらしなく目尻を下げて握手まで求めたのだろう。
 暴露してやろうかと一瞬思ったが、父の名誉のために黙っておくことにした。
 スーパーマーケットに着いてもぼくたちは手を繋いだままだった。
 ぼくが右手でカゴを持ち、モーハンが左手に持ったスマートフォンを確認しながら、空いている方の右手でぽいぽいと商品をカゴに入れていく。ラジマは「おばあちゃんも面倒なときはこれ使ってた」と生の豆ではなく水煮缶を使うことにした。
 二人で歩きながら、刺さる視線を絶えず感じていた。一人でいるときに感じる浮ついた好意的な視線ではなく、不快な緊張感をはらんだ視線をだ。
 帰路の途中でモーハンが「ちょっと」と立ち止まった。顔色が悪い。熱中症。いや、パニック障害の発作が出かけているのかもしれない。
「うん」
 ぼくは落ち着いて彼の手を引いた。並んでそばの塀にもたれかかる。目を伏せて深呼吸をしかけたモーハンが「あれ」と戸惑いの声を上げる。
「ん?」
「なんか……やっぱり大丈夫かも」
「そう? でも、ぼくも疲れたからちょっと休んでいこう」
 本当は疲れてなどいなかった。モーハンが「えーっ、なんでだろう。不思議」と上機嫌に体を揺らす。
「きみが隣にいるからかなぁ」
 しばらく路上で休んだのち、ゆっくりと歩いてマンションまで戻る。
 身長差のせいか、彼はぼくよりも歩幅が狭い。また、早足でさっさと歩くぼくに対し、彼はのんびりとゆるやかに歩く。そんな彼に合わせての歩行はなぜだか少しももどかしくなく、かえって心地良いのが不思議でたまらなかった。
 部屋に帰りつき、ほっとする。そのことにぎくりと肩をこわばらせる。
 ぼくは何にほっとしたのか?
 モーハンがプラナームをされる姿を見ずに済んだことに、だ。