16 神さま(2)

「うん」平常心のふりをしながら頷きを返す。
「えっと何から話そう」モーハンが左上に視線を投げる。「えっと。インドでは子供がまあまあ大きくなっても親と一緒のベッドで寝る、ってことがわりと普通なんだけど。ここはぼくとおばあちゃんの部屋で、そこのベッドに二人で寝てたんだ」
 モーハンがベッドを指した。改めて見ればそのベッドはかなり巨大だ。ダブルベッド、よりさらに大きい。クイーンベッドというやつだろうか。
 ぼくは一歳から両親とは別室で寝ていたそうだから、十歳を過ぎても保護者と寝る、というのは驚きだ。しかし引くようなことではない。虐待的な要素がなければ、それぞれの国の、また、それぞれの家庭のやり方を尊重すべきだ。
「それで。ヒンドゥー教は偶像崇拝禁止じゃないから、ふつう祭壇には自分の好きな神さまの像やポスターやポストカードを飾るんだけど。一個だけみたいな決まりは全然なくて、ひとつの神さまのグッズをたくさん飾ってもいいし、好きな神さまが複数いるなら複数飾ってもいいし、普段は神さまAのグッズを飾ってるけど神さまBのお祭り期間中は神さまBのグッズを飾る、っていうのも全然ありだし」
 一神教のぼくにとって『複数の神を同時に信仰する』だとか『時期によって信仰する神を変える』だとかいう感覚は新鮮だ。もしぼくが熱心なキリスト教徒であれば『ありえない』と眉をひそめていたのかもしれないが(そもそも熱心なキリスト教徒にとっては偶像崇拝自体が『ありえない』)、幸か不幸かぼくの信仰心はあつくない。ただ『面白いな』とだけ感じる。
「でも、ここにはずっと神像がなかった」モーハンが祭壇の上の小さな神像を指す。「ハリドワールにいた頃はもっと立派な祭壇が家にあったよ。だけど神像はなかった。ポスターも、ポストカードも何もなかった。これは、去年の十二月にぼくが欲しくなって買ったもの」
 頭の中に簡単な彼の年表を展開する。彼がベンガルールに越してきたのは一年と四ヶ月前。今は月をまたいで七月になったが、それを聞いたあの日は六月だった。つまり、去年の二月に彼はベンガルールに来たのだ。その半年後——八月に彼の祖母が死んだ。
「きみのおじいちゃんとおばあちゃんは偶像崇拝をしない主義だったの?」
 与えられた情報から、もっとも安直に導き出せる答えはそれだった。
 ヒンドゥー教は『偶像崇拝を禁止していない』が、よもや『必ず偶像崇拝をしなければならない』わけではないだろう。様々な理由から『偶像崇拝をしない』人だっているはずだ。モーハンは祖父母の存命時は彼らの主義に従っていたが、死後に『偶像崇拝をしたい』という気持ちが湧いてきて神像を買った、とまあこんなところだろうか。
「いや?」あっさりとモーハンが首を横に振った。「全然そんなことない。おばあちゃんとか、もともとはいろいろ飾るのが好きだったんだって。ただ、必要がなくなったんだよ。だって、」
 モーハンが右手の一本で祭壇を指したまま、もう一本の右手と左手で胸のあたりをぎゅっと押さえる。「ああ緊張する」とおどけるように笑ってうずくまる。
 三分ほどそうしたのち、「はい。ごめん、話します」と姿勢を正した。改めてまっすぐ祭壇を指し直す。
「あの祭壇で、ぼくがおばあちゃんにお祈りされてました」
 ぼくはフリーズした。
 神として扱う、のカルト的なイメージ。それは『生身の人間に対して直接祈ること』だ。『ものや人を通して天の神に祈る』のではなく、『今そこにいる人間を神としてじかに祈る』。
 予想はしていた。だって、熱心でクラシックなヒンドゥー教徒にとってモーハンは『現世に降臨した神』なのだから。そのため、それを聞いてもなるべく表に出さないようにしよう、と考えてはいた。だけど、祖母に——保護者に祈られる?
 そこまでの心の準備はしていない。
「うわ、やっぱり引いてるじゃん」
 モーハンが泣き笑いのような顔をした。ぼくは「引いてない」と否定する。「引いてない」ともう一度。一度目はモーハンに伝えるため、二度目は己に言い聞かせるためだ。
「おばあちゃん、に……?」
 おそるおそる確認したぼくに、モーハンが頭を揺らす。
「そう。毎朝、おばあちゃんから祈られてました。ハリドワールにいた頃はおじいちゃんとおばあちゃんから。父さんが遊びにきてくれたときは、父さんも一緒に。ぼくが祭壇に座って、みんなが祈る。だってぼくは神さまだから」
 引いてる? と聞かれる前に「引いてない」と宣言した。
「引いてはいない。ただ、ごめん、あの、異文化すぎて飲み込むのに時間がかかる」
「え、続き話してもいい? それともちょっと待ったほうがいい?」
 ぼくは思案してから「話して」と答えた。綺麗に飲み込めるまで待ってもらったら、年単位でかかりそうだ。
「ハリドワールってね、もともとガンガー沿いで毎晩大規模なお祈りプージャが行われているんだけど」モーハンが話し始める。「ぼくはそこでもみんなから神さまとして祈られてたんだ。朝は自宅の祭壇で家族から祈られて、夜はガンガー沿いでたくさんの人から祈られる。それがぼくの日常だった。休日とか気が向いたときはお寺に行って、そこでももちろん祈られて」
 『聖なるガンジス川のほとりや寺院で大勢から祈られるモーハン』という図は『自宅の一角で保護者から祈られるモーハン』という図よりもずっとスムーズに受け止められた。心の準備をしていたのもあるし、あまりにも非現実的でマンガっぽいからだろう。『自宅の一角で保護者から』という図は奇妙にじっとりとしていて、脳が受け入れを拒む。
「引いてない?」
 モーハンに聞かれて「引いてない」と即答した。だが本当に?
「よかった」モーハンがほっとしたように目を細める。「高確率で引くんだよ。ヒンドゥー教に親しみのない外国人がプージャやプラナームをされるぼくを見ると」
 ぼくは何も答えることができなかった。
 だって、それはそうだろう。
 ぼくだって、彼が保護者から祈られているさまを見たら確実に目を背ける。イメージでは受け止められた『聖なるガンジス川のほとりや寺院で大勢から祈られるモーハン』だって、実際に目の当たりにしたら『うっ』と顔をしかめてしまう可能性は大いにある。
 だって、あまりにカルト的ではないか? 神ではなく生身の人間に対して祈るなど。
 いや、いや、“彼ら”にとってモーハンは“神”なのだから、何もおかしいことではない——頭ではそう考えようと、努力はしている。しかし『人々が意識の上でモーハンに祈ること』ですら、奇怪だなと感じながら“一応”飲み込んだにすぎないのだ。視覚的にそれを見せられて、ぞわりと肌が粟立あわだつのは当たり前の反応では?
「父さんはね、ハリドワールに遊びにきてくれたときは絶対おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に祈ってくれてたんだよ」モーハンが寂しそうに目を伏せる。「だけど、こっちに越してきてから滅多にプージャしてくれなくなった。『仕事が忙しいから』とかなんとか言って。最初は『仕事なら仕方ないか』って思ってたんだ。でもおばあちゃんが、スーツ姿で慌ただしく出ていった父さんがマンションの中庭のベンチでぼんやりしてるところを窓越しに何度も見かけて。問いただしてものらりくらりだよ。それで、おばあちゃんが亡くなってからは一度もプージャされていない。一度思い切って聞いたんだ。『父さん、プージャは?』って。そしたら『今後一切しない』って。『きみに祈るとアンナの精神が不安定になるんだ。それに、親が子を神として崇拝するのは世間的に見て異常だよ。母さんが——おばあちゃんが死んだ今が、いいタイミングだと思う。いい加減価値観をアップデートしなくちゃ』って」
 モーハンが苦しそうに笑う。
「信じられる? 父さんはぼくよりアンナを優先したんだ。見た目が気持ち悪いからって理由でぼくを捨てたアンナを。アンナの精神が不安定になるから——それが何? そんなの放っておけばいいのに。父さんは、ぼくよりアンナのほうが大切なんだ」
 モーハンの声が震えている。怒りか、屈辱か。
 ぼくは返事に窮する。
『きみに祈るとアンナの精神が不安定になる』——そうだろう。
『親が子を神として崇拝するのは世間的に見て異常』——そうだろう。
 見た目が気持ち悪いから、という理由で育児放棄をしたアンナのことは理解不能だし最低だと思う。だけど、夫が我が子を祭壇に据えて崇めていることを知って不安定な気持ちになるアンナのことは、よく理解できるし同情する。そんな妻をおもんぱかり、『息子を崇拝することをやめる』という選択をするラジェシュはまともで常識的なのでは? 少なくとも、“ぼくの常識”を基準にものごとを考えた場合。
 ばたん、と突然モーハンが横になった。ぼくは呆気に取られ、直後に彼に駆け寄る。
「だ、大丈夫?」
「しんどい」
「え、きゅ、救急車」
 震える手でポケットからスマートフォンを出したぼくに、モーハンが「違う違う。ごめん。大丈夫」と弱々しく笑う。
「こういう話をするのが、しんどい」床に転がったまま目を閉じてささやくように言う。「もっとおおらかに、起こることすべてをありのまま受け入れられるようになりたいのに。毎日ヨーガしてるのに全然ダメだよ。アンナのことはずっと嫌いなままだし、父さんのことだって……。昔は父さんのことを好きだったのに、最近は本当に嫌いで」長いまつ毛をうっすりと開いて虚空を見つめる。「ぼくさ。ハリドワールにいた頃はもっと博愛主義で楽天家だったんだ。アンナのことは別として。だけどベンガルールに来てからは、全然ダメ。日に日に攻撃的に神経質になっていってる気がする。シャドリプに支配されてる自分が情けなくて、ものすごく嫌」
「……シャドリプって?」
「ん?」寝転んだままぼくを見上げる。「あ、えーと。解脱げだつの障害になるもの」
「……解脱?」
 話の腰を折ってしまう無知な自分が嫌になる。だが、用語を質問するごとにモーハンの表情がちょっと和らぐのを見て安堵した。つらい彼の気持ちを一時的にでも逸らして、紛らわせることができたのであればそれでいい。
「えっと、いちから説明したらめちゃくちゃ長くなるから。ものすごーく簡単に言うと、修行を極めてあらゆるものから解放された状態。ヒンドゥー教徒は最終的に解脱を目指して生きてるんだ。最終的って、別に今回の生に限った話じゃなくて、輪廻りんね——えっと、生まれ変わりを繰り返したもっとずっと先のことも含めてね」
「うん」
 なんとなくの理解であいづちを打った。
「それで。シャドリプっていうのは、己の中にいる敵のことだよ。具体的には、欲望、怒り、貪欲、妄想、高慢、嫉妬。これらに振り回されているうちは絶対に解脱できない、って言われてる」
「あ。カトリックにおける七つの大罪みたいなこと?」
「七つの大罪を知らないけど。多分そう」
 ぼくは七つの大罪を列挙しかけて、やめた。ぼくの宗派では七つの大罪はさほど重要な要素ではないため、すぐに全部は出てこない。しかし『怒り』や『傲慢』など、シャドリプに似た単語が並んでいたような記憶がある。
 むくりとモーハンが起き上がった。膝を立てて座り、こてん、と右の膝頭のひとつに右頬を寄せる。
「なんかもう、最近自分のことがすごく嫌いで」
 かり、と彼のしっぽのような手の爪先が床をなぞる。視線を祭壇に向けてぽつりとつぶやく。
「祈られるのも、プラナームされるのも昔はあんなに好きだったのに」
「……プラナーム?」
 同じ単語を数分前にも聞いた気がする。そのときは他のことで混乱していたためスルーしてしまったが、改めて質問する。
「ん。えーと、インドのかしこまった挨拶」
 モーハンが顔を上げた。とんとん、と自身の右足の一本を触る。
「インドでは足って不浄なパーツなんだよ。だからこそ、相手の足を触ることによって敬意を表すんだけど。普通は目上の人とか年長者に対してやるんだけど、ぼくは神さまだから老若男女からされてた。今時の日常的なプラナームは軽くかがむぐらいなんだけど、ぼくはしっかりひざまずかれることが多いかな。街中でアシュタンガをされたことも何度もあるよ」
「アシュタンガ?」
「うつ伏せで全身を地面に投げ出すこと」
「え、ま、街中で? 地面って、地面?」
 動揺して馬鹿みたいな質問をしたぼくに、モーハンが「地面地面。土とかコンクリートの地面」と軽い調子で笑う。
「プラナームをされたらお返しに相手の頭を触る、っていうお決まりの流れがあってね。頭は神聖な場所だから、普段は触っちゃいけないんだけど」モーハンがふっと遠くを見てほほえんだ。その目はどこか寂しげだ。「ぼくが頭に触って祝福を与えると、みんなすごく幸せそうにしてくれて。それを見るのが本当に好きだった」
 遠くを見たまま黙りこくる。ぼくは彼の横顔を、長いまつ毛を、微動だにしない体を、そんな中ちょろりと漏れ出た感情のように唯一床の上をさまよう彼のしっぽの手を、ぼんやり眺めながら気長に続きを待つ。
 かちゃり、と遠いところで玄関のロックを解除する音がした。メイドが出勤したのだろう。今は十四時過ぎだから、今日は早い日だ。彼女はこの家の専属のメイドというわけではなく、いくつもの家を掛け持ちしているそうで、日によって出勤時間にばらつきがある。
 モーハンがはっと顔を上げて玄関の方角を見た。それからぼくに視線を移す。ぼくが玄関の方をちらとも見ずにモーハンを見つめていることを認めると、ちょっと虚を衝かれたような顔をして、再び遠くを見やって沈黙する。
 そう。出勤したメイドを気にする必要も、時間を気にして焦る必要もまったくない。今この部屋にいるのはきみとぼくの二人きりで、ぼくはきみの考えがまとまるまで、いつまでだって付き合うつもりでいるのだから。
「……祈られるのも、プラナームされるのも好きだった」不意にモーハンが口を開く。「まあ、この『好き』とか『嬉しい』とか『幸せ』とかいう気持ち自体がそもそも、」と言いかけてふるっと首を横に振る。「いいや。一旦置いておこう。ヨーガの話に立ち返ったら何も話せなくなる」
 モーハンが膝を開いてあぐらをかいた。まっすぐにぼくに向き直る。
「ぼくはみんなに祝福を与えるのが好きだったんだ」
 祝福を与える、という感覚をきちんと理解できないまま浅く頷きを返す。
「でも、こっちに来てからさ。ベンガルールでもお寺へ行ったらハリドワールにいた頃みたいに祈られるし、ローカルな地域へ行ったらそこそこプラナームされる。実を言うと、このマンションの周辺にもプラナームをしてくれる人は少数いるし」
 モーハンが長いまつ毛を一度伏せた。しばらく黙って、またぼくを見上げる。
「お寺の中とかお祭りの最中とか、よっぽどローカルな地域とかなら別だけど。“あたらしい”地域でぼくが——変な体の子供がプラナームされてたら、“あたらしい”人たちは大抵ぎょっとする。そのあとは気味悪そうに凝視したり、『見てはいけないものを見てしまった』みたいな顔で目を背けたり。ハリドワールではみんなが眩しそうに目を細めて、ぼくも私もってプラナームの列を作ってくれたのに」
 ぼくはただ浅く頷いた。ぼくがその場に居合わせたらどうする? モーハンが不快に思うような反応を、一抹も出さないと言い切る自信は少しもない。だって、街中でいきなり大人が子供の足元にひざまずくなど、異様な光景では?
「最近さ。プラナームをされても形式的に頭に触るだけで、昔みたいに綺麗な気持ちで祝福を与えられないんだ。気にする必要なんかないのに、つい周りの人の目が気になっちゃって。街中で崇拝の目つきで突然駆け寄られたとき、以前なら落ち着いてプラナームを受け入れられていたのに。最近は『え、困ったな。誰も見てないよね』ってとっさに周囲をうかがっちゃって。外を歩きながら『誰もプラナームしてきませんように』なんて考えちゃってる自分がすごく嫌で」
 モーハンが恥じ入るように笑う。
「お寺で祈られるのだってさ。昔はもっと“無”になって純粋に祈りを受けられていたのに。あ、“無”ってヨーガにおいて一番理想的な状態なんだけど。毎朝神として祭壇に座るのも、お寺へ祈られにいくのも、ガンガー沿いでプージャを受けるのも、『あ、じゃあ行くかぁ』ぐらいの気持ちでまったく何も考えてなかった。だけど最近は余計なことを色々考えちゃって——“あたらしい”場所にいると寂しくて、お寺で祈られてると嬉しいから。ぼくはちやほやされるためにお寺へ行っているのか? それは解脱の道から遠く離れた、下衆な行いではないのか? そんなことを考えてたら、お寺へ行くのにもだんだん気後れするようになってきて」
 うん、とぼくは浅く頷いた。軽々しく『分かるよ』などの同調の言葉は発さない。
 だって、分からないのだ。彼の感覚を正しく理解できている気が一切しない。
 モーハンがもう一度膝を抱えた。「あ〜……」と足をパタパタさせる。
「あの、ごめん。ちょっと疲れたからヨーガしたい」
「あ、どうぞ」
 ぼくはさっと立ち上がって部屋を出た。これ幸いとばかりにだ。
 リビングで洗濯物を仕分けしているメイドに挨拶をして、マンションのジムへと向かう。
 夕食の時間まで走ろう。
 ぼくも、疲れたから脳を休めたい。