「きみってキリスト教だよね?」
モーハンがシンクに食器を置きながら聞いた。洗い物は、しない。毎日十五時前後に出勤するメイドが洗ってくれる。ぼくは初め当たり前に洗い物をしようとしたのだが、モーハンに「メイドの仕事を取っちゃダメだよ」と注意され、そういうものなのか、と手を引っ込めた。ところ変われば常識も変わる。
「ん? うん。一応キリスト教」
「副音派?」
「副音派の一部ではあるけど。ぼくはスウェーデン教会だよ」
「知らないな」モーハンが笑顔で肩をすくめる。「え、副音派なら中絶反対派?」
「いや全然」いきなりなんの話だろう、と面食らいながらも首を横に振る。「そういう人もいるだろうけど。スウェーデン教会では中絶権利擁護派の方が多数派だと思うよ。もちろんぼくもプロチョイス。中絶は女性の権利だからね」
「それはいいね」モーハンが微笑する。「ごめん。めちゃくちゃ脱線した。あのさ、キリスト教って偶像崇拝は禁止されてるんだよね?」
「まあそうだね」
「じゃあ、ものには祈らないとして。キリスト教の偉い人に祈ったりはする?」
キッチンを出て、廊下を歩きながらモーハンが聞いた。キッチンから彼の部屋まで十歩もない。部屋の前で立ち止まった彼に倣い、ぼくも足を止める。
「祈らないよ。祈る対象はあくまで父なる神だけ。そもそも『偉い人』っていう概念がないんだよ。牧師もぼくらと霊的には対等だから」
ものに祈るな。人に祈るな。そこに神はいない。
「じゃあ、もしさ。きみの隣に神がいたとして。どうする?」
「え? それってどういう状況? ぼくの隣にいる人が『私は神です』って言ってくるの?」
「そう」
「頭がおかしい危険人物として距離を置くかな。まず、神ってもっと霊的で概念的なものだから。神の子はとっくに天に昇っておられるわけだし、今この地上に神が人間の姿をとって存在しているわけがないから」
そこまで言ってハッとする。「あの、キリスト教の話ね」と慌てて言った。
「キリスト教の神ですと名乗る人がいたら、という話だよ。あくまでキリスト教に限った話。ヒンドゥー教は、あれだよね。なんだっけ、あれ」クリシュナについて調べたとき——つまりつい最近——得た知識にも関わらず、焦ってスムーズに引き出せない。目一杯頭を回転させてどうにかこうにか思い出す。「化身。神が人間や動物の姿をとって何度も地上に降臨する、っていう考え方があるんだよね。そういう前提がまずあって、それにきみは、自ら神と名乗ったわけではなくて周囲からそういう扱いを受けていただけだし、あの、つまりきみを頭がおかしいとか危険人物だとかは一切思ってないんだけど、」
「ありがとう。大丈夫、分かってるから」
しどろもどろで言ったぼくにモーハンが苦笑する。
「ぼくはキリスト教についてあんまり詳しくないんだけど。キリスト教徒とか、多分イスラム教徒とかにとっても『神が人間の姿をして現世にいる』って感覚は伝わりづらいのかな、って思う。もちろん“あたらしい”ヒンドゥー教徒からしてもぼくは『神とか名乗っちゃってるヤバいやつ』なわけだし。だからぼくがこのベンガルールで、外国人と“あたらしい”人が多いこのエリアで、」
とん、とモーハンが壁にもたれかかった。口元に笑みを形作ったまま「やっぱりやめようかな」と胸の辺りを手で押さえる。
「え、なんで。ごめん。ぼくの失言が不快だったなら謝るから」
「違うよ。そうじゃなくて」モーハンがふるっと首を横に振る。「ぼくきみが好きだから、これからも友達でいたいんだ。きみにこういう話をして、引いて離れていかれたらちょっと悲しすぎる」
「絶対引かない。絶対離れないし」
ここまで力強く言い切るのは軽率ではないか、という自覚はあった。しかし『モーハンに友達だと思われていた』ことへの高揚感でつい言った。彼に『好きだ』と言われたこともものすごく嬉しい。
モーハンが真偽を測るようにぼくを見つめる。
二分ほどもためつすがめつしたのち、彼は熱情のこもった瞳をキラキラとさせているぼくを信用することに決めたらしい。「まあ、きみはぼくがパニック障害の発作を起こしても引かなかったし、ぼくが神さまだって聞いても引かなかったし」とぶつぶつ言ってから自室の扉を開ける。
「どうぞ」
ばくり、とぼくの心臓が大きく跳ねた。
実は十数分前に「部屋に来ない?」と誘われたときも平静を装いながらも心臓は踊り狂っていたのだが、今現在、うっかりすると口から心臓が飛び出してスウェーデンまで飛んでいってしまいそうだ。
緊張のあまり何もないところで転ばぬよう、細心の注意を払いながらモーハンの部屋に足を踏み入れる。ぶわり、と煙たいような甘ったるい香りに包まれて足を止めた。いつもモーハンに近付いたときに香るいい匂いが、強烈に部屋に充満している。
「引いてる?」
モーハンに聞かれて「んっ?」と我に返った。
「何が?」
「祭壇。キリスト教だと部屋にああいうスペースを作る習慣ないよね?」
室内に視線を巡らせ、すぐに祭壇を発見した。八十センチ四方・高さ十センチほどの台の上に刺繍を施した赤い布が敷かれている。そこに金色の小さな器やスプーン、ベルなどが並んでおり、その奥に手のひらサイズの金の神像がこぢんまりと置かれている。その神像にはモーハンが毎朝売店で買うオレンジ色の花輪がかけられている。
「あ。花、ここに飾ってたんだ」
「え?」
「花。毎朝新しいのを神さまに捧げるの? なんかいいね」
「そう?」
モーハンがはにかんだ。それからぼくの顔を覗き込む。
「え。引いてる? 引いてない?」
「引いてない引いてない。ぼく、この部屋がいい匂いすぎて立ち止まってただけだから。これって香水? アロマキャンドル?」
「お香だよ」モーハンがぱっと顔を輝かせる。「これ、めちゃくちゃいい匂いだよね。ぼくこのお香が一番好きで、」
モーハンが箱から三角のお香をひとつ取り出して火をつけようとする。ぼくは「待って待って」と慌てて止めた。
「もう十分香ってる。この状態でさらに焚いたら、香りに酔ってくらくらしそう」
「あ、ごめん」
モーハンが笑ってライターを持つ手を引っ込めた。
白状しよう。
ぼくは強い匂いが苦手である。
しかしモーハンの愛用しているお香の匂いは、不思議と好ましかった。このお香であれば、部屋に匂いが充満した状態でさらに焚かれても胸が悪くなることはないだろう。
ならばなぜ止めたのか?
『くらくらしそう』、それは嘘ではない。しかしもっと正確に言うと、猛烈に『むらむらしそう』だったのだ。
「さて」
すとん、とモーハンが床にあぐらをかいた。ぼくがまごついていると、彼は「あ、床に座る習慣ないよね。どうぞ」と部屋に一脚きりしかない椅子を指す。
「え、でも悪い……」
「悪くない悪くない。長くなるかもしれないから楽な姿勢で聞いてよ。ぼくは床に座るのが一番楽だから」
少し悩んだが、結局は彼の提案に甘えることにした。
すう、とモーハンがひとつ深呼吸をする。口を開きかけて「うわ、これ怖い」と寒がるジェスチャーのように手のひらで自身の二の腕を擦る。
「え、ほんとに引かない?」
「引かないよ」
「じゃあ、うん」
キッと真剣な表情で背筋を伸ばす。直後に「あ、ダメやっぱり怖い」とふにゃふにゃ笑う。その挙動に『かわいいな』と目尻を下げかけて、話しにくいことを打ち明けようと頑張ってくれている人にデレデレするなどなんたる無礼、と自己嫌悪に陥る。頭を振って邪念を払う。
「……ごめん。せっかく部屋まで来てくれたのに、なかなか本題に入れなくて」
モーハンがすまなさそうに言った。ぼくは目をしばたたかせる。
「え? それは全然いいけど」だって、ぼくはきみと一緒にいられるだけで嬉しいし、きみの部屋に上げてもらえて本当に嬉しいし、きみがぼくに何かを伝えようと一生懸命になってくれていて最高に嬉しいから、夜までだろうが明日の朝までだろうが大喜びで何時間でも付き合う所存だけど。「ゆっくりでいいよ。きみのペースで」
「優しいなぁ」
モーハンがくすぐったそうに笑った。
十四年間生きてきて、初めて家族以外から『優しい』の評をもらった。
今まで他人からもらった内面の評は『冷たい』『クール』『静か』『暗い』『そっけない』『他人に興味なさそう』『何を考えているのか分からない』などだ。事実、他人と接しているときの己をかえりみればそれらの評は的を射ている。スウェーデンの同級生が、積極的にまめまめしくモーハンとコミュニケーションを取ろうと励んでいるぼくを見たら目を疑うだろう。ぼく自身、自分にこんな一面があったのかと驚いているぐらいなのだ。
モーハンが三度深呼吸をした。
長いまつ毛を閉じて、ゆっくりと開く。しばらく何もないところをじっと見つめたのち、目力のあるグリーンの瞳をすっとぼくに向ける。何度経験しても、彼に見つめられた瞬間はどきりと心臓が跳ねる。
「じゃあ、はい。話します」