12 早朝のバーンスリー

 ぷは、と水面から顔を上げる。大きく息を吸ってまた潜りかけ、視界の端に見慣れたシルエットを見つけてざばりとプールの中で立つ。
「あ、おはよぉ」
 ひらり、と手を振ったモーハンに挨拶を返す。
「おはよう」
「早いね」
「五時に起きた」ぼくは開いた両手のひらを前頭部から側頭部を通って後頭部まで滑らせ、ざっと髪の水気を切る。「今何時?」
「えーっと、五時四十分ぐらいかなぁ」
「ありがとう」
「じゃあ、ごゆっくり〜」
 にこ、とモーハンがほほえんだ。ぼくは頷きを返し、平泳ぎを再開する。ジムでの運動はインドに来た二日目からやっていたが、やはりたっぷりの水の中で悠々と体を動かすことには格別の気持ちよさがある。
 一片が二十メートルあるかどうかの正方形のプールを二往復したとき、不意に高い鳥の鳴き声を耳が捉えた。立ち止まって空を見上げる。鳥の姿は見つからないが、鳴き声はなおも続いている。透き通って伸びやかな、メロディアスな鳴き声だ。
 中庭にはたくさんの樹木が植わっている。その中のどこかにいるのだろう。ぐるりと視線をめぐらせかけたところで、思わぬものを目撃して泡を食ってプールから上がる。
「モーハン、それ」
 息せき切って駆けつけると、リクライニングチェアの上にあぐらをかいたモーハンが「ん?」とぼくを見上げる。
「なに? リサイタルしよっか?」
 横笛のバーンスリーを構え、茶目っ気たっぷりに小首をかしげるさまはかわいらしい。かわいらしい、のだけれど。
「こんなに早朝から吹いてたらまずくない?」
 そう。つい今しがた、彼は堂々と歌うように大きな音で、バーンスリーを吹き鳴らしていたのだ。
 当然至極の指摘をしたぼくに、モーハンが「え?」と目をぱちくりさせる。
「なんで?」
「いやなんでって」
 なんでも何もダメに決まっているだろう。
 確かに彼は昨日もバーンスリーを持ってきていた。だが、それはただ持ってきているだけで今吹くためのものではない、と勝手に思い込んでいた。なぜならここは六棟もの高層マンションに囲まれた中庭で、時刻は朝の六時前だからだ。
「苦情が出るでしょ」
「出たことないけどなぁ。ハリドワールにいた頃の習慣で、こっちに来てからも毎朝吹いてるけど」
 あっけらかんとモーハンが言った。ぼくが言葉を失っていると、彼は『話は終わったのかな』というような顔をして、再びバーンスリーを吹き始める。
 言われてみれば、ぼくは今初めて彼が毎朝バーンスリーを吹いていたことを知ったのだ。部屋が高層階にあるためか部屋の防音性が高いためか、早朝に外から笛のが聞こえてきて『うるさいなぁ』と苛立たしく目を覚ました経験は一度もない。
 そうはいっても、低層階の住人や早朝に中庭を散歩する住人の中には『うるさいなぁ』とひそかにフラストレーションを溜めている者もいるのでは?
 しばらく考えて、やめた。モーハンがあまりに屈託なくバーンスリーを吹き続けていたからだ。
 実際問題、現時点でどこからも苦情が出ていないのならまあいいか、とスウェーデンにいたときのぼくからは考えられないような無責任な思考停止をする。日差しのせいか気温のせいか、インドに来てから少しずつ雑に大胆になってきているような気がする。
 立ってぼんやりとモーハンを眺める。
 昨日、彼が故郷ハリドワールで神として扱われていたことを聞いて動揺した。しかし改めて考えれば、ぼくも初めて彼を見たときに神像だと誤解したのだ。曲がりなりにもキリスト教徒であるぼくにとって『現代に生きている人間を神として扱う』という感覚はやはり理解しがたいものがあるが、たおやかに伸びる四本の腕と三本の足が自在に動くさまは神的だ、という感じ方には大いに共感できる。
 昨日モーハンと別れてすぐ、ヴィシュヌの画像を検索した。なるほどヴィシュヌは四本の腕を有していた。
 それからクリシュナについて検索し、納得した。
 クリシュナはヴィシュヌの化身のひとつである。化身というのは、神が神聖な目的を果たすために人間や動物の姿を取って地上に降臨したもの、らしい。クリシュナの二つ名は魅了する者モーハナ(モーハンの名前はおそらくここから来ている)、とんでもない美青年で、英雄らしく勇敢な面ももちろんあるが、お茶目で人懐っこい面も多分に持ち合わせている。そして青年の姿と同じぐらい、あるいはそれ以上に、赤ん坊の頃の姿が“ベイビー・クリシュナ”として人々から絶大な人気を集めている。
 ヴィシュヌはすさまじい神である。あまりに強大かつ壮大で捉えどころがなく、身近な存在に感じることは少し難しい。
 神的な体と美しい顔(人の美醜をあれこれ言うのは嫌いだが、世間一般的に見てモーハンは美形だと思う)を持つ、にこにこと人懐っこい赤ん坊。モーハンがヴィシュヌではなくクリシュナとされたのは、当然の帰結だろう。
 モーハンがバーンスリーを口から離してリクライニングチェアの上に置いた。
 ずっと観察していたぼくの視線を平気で受け止め、「ん?」とほほえむ。するするとTシャツとルンギを脱ぎ捨てて水着姿になる。立ち上がり、円形のプールまで歩くとトプンと水に入る。
 手を合わせて何かを祈る。水をすくって高く掲げる、という動作を三回する。大きく息を吸い込み、ドプンと一気に頭まで浸かる。え、大丈夫かな、と心配になるほど長い時間を経てプハッと水面に顔を出す。大きく息を吸って、もう一度。また長い時間を水中で過ごして、もう一度。
 昇り始めた太陽がキラキラと水面を輝かせている。
 モーハンが顔を上げ、はぁ、はぁ、と荒い呼吸をしながら手を合わせる。
 彼の心臓に負担がかかりすぎていないか、息苦しさが彼のパニック障害の発作を誘発しないか、と一瞬心配になる。すぐに考え直した。彼が非常に穏やかな顔をしていたからだ。
 モーハンが太陽に向かって一礼し、「はぁー……」と一息ついてからふにゃりと笑う。
「気持ちいー」
 ちゃぷんと浅く潜り、すぐに顔を出す。そのまま仰向けにぷかりと浮く。
 ぼくは返事をしなかった。ただ、綺麗な光景だなぁと見とれていた。
 しばらく浮かんだあとにモーハンがプールから上がる。軽くストレッチをしてからあぐらをかき、目をつむる。
 ぼくはようやく泳ぎを再開する。だけどまったく没頭できなかった。“静”の空気をまとってただ座っているだけのモーハンに、なぜだか意識が吸い込まれてしまうからだ。
 元来ぼくは頭をからっぽにするために泳ぐ。そのため『何かに気を取られて泳ぎに集中できない』という状況はストレスになるはずだ。
 しかし今、ちらちらとモーハンに意識を奪われるこの時間がちっとも苦痛ではなく、かえって楽しく幸せな心地であることが不思議で面白かった。