11 神さま、って?

 十三時三十二分。ようやくモーハンがリビングに顔を出した。
 ぼくは時間潰しに視聴していたどうでもいい動画から顔を上げ、タブレットをスリープさせる。
「もう食べた?」
 モーハンがぼくの手元のマグカップを見ながら聞いた。ぼくは首を横に振る。
「まだ」
「え、一緒に食べていい?」
「いいよ」きみと食べるために待っていたんだよ。「なんで今さら聞くの?」
 モーハンがちょっと目を逸らす。
「……朝の発作で、引かれたんじゃないかなぁって」
「引かないよ。引く理由がないし」
 今朝彼の発作が治まった直後にも似たやりとりをしたな、と思い出す。モーハンがなおも追求する。
「でもめんどくさくない?」
「何が?」
「めんどくさくない?」
「だから、何が」
 モーハンが見定めるようにぼくを見た。ぼくは彼にじっと見つめられることに頬を赤らめながら、長いまつ毛の隙間からきらきらと光るグリーンの瞳を真正面から受け止める。
 一分ほどそうしていただろうか。
「まあいっか。信じる」
 とっとっ、とモーハンが頭を揺らした。
 キッチンで食事を用意して、二人でリビングへと戻る。今日も豆のカレーだが、昨日とは豆の種類が違う。
 ぼくたちは無言で昼食をとった。
 三分の二ほどを食べ終わるまで、ぼくは無言でいることにまったく気が付いていなかった。会話をせずとも、彼と一緒にいられるだけでわくわくと心が浮き立っているからだ。
 だけどモーハンはどうだろう。彼はおしゃべりなタイプだから、黙って過ごすことを退屈に感じているかもしれない。
 そっと横目で彼を見る。ばちり、と視線がぶつかって動揺した。
 モーハンが素早くぼくから目を逸らす。目が合うなり逸らされる、という経験は彼にぼくの態度を誤解されていた頃に何度もあった。だが、今回の逸らされ方はそのときとは異なっていた。まるで、ずっとぼくを見ていたことが露見して慌てたかのような。
 なんともいえない沈黙がリビングを支配する。
 ぽつり、とモーハンが呟いた。
「ハリドワールにいた頃はこうじゃなかったのに」
 その口調はどこか悔しそうな響きをはらんでいた。
「ずっとハリドワールにいたかったのに。ベンガルールに来たせいで、ぼくはこんな」
 言葉尻が消えていく。
 なんの話をしているのだろう。今朝起きた、パニック障害に関する話だろうか。
 声をかけるべきか、静かに寄り添うべきか。かける場合はどんな言葉を?
「ごめん。こんな話」
 考え込んでいるとモーハンが謝った。ぼくは急いで「いや全然」と首を横に振る。そうだ。いつまでもマイペースに一人で思索にふけっていてはいけない。
「えっと、まず大前提として。言いたくないことは全部『言いたくない』で終わらせてくれていいんだけど」
 前置きをしてから始める。何からたずねていこう。当たり前だが、幕開きから『どうしてパニック障害になったの?』なんて刺激的な質問をしてはいけない。まずはソフトなものから。
「えっと。きみは……どうしてベンガルールに来ることになったの?」
「おじいちゃんが死んだから」
 予想外にヘビーなパンチを返されてどきんとした。モーハンが続ける。
「ハリドワールではおじいちゃんとおばあちゃんと三人で暮らしてたんだけど。おじいちゃんが死んじゃって、父さんに『おばあちゃんときみの二人暮らしは心配だから、一緒にベンガルールで暮らそう』って誘われて」
「……おばあちゃん、は、今……」
「十ヶ月前に死んじゃった」
 寿命を考えればおかしな話ではない。だが、ぼくは少なからずショックを受けていた。
 長く黙っていてはまたモーハンを不安にさせてしまうかもしれない。しかし、かけるべき言葉が見つからない。
 ふっとモーハンがさみしい微笑を浮かべる。
「ぼくさ。心臓が悪いんだ」
 ぼくはまたも言葉に詰まった。指摘をするべきかどうか。散々悩んだ末におそるおそる伝える。
「……パニック障害での動悸や心痛は、心臓病とは無関係だよ」
「知ってる知ってる。もともと悪いんだよ」モーハンが笑顔で頭を揺らす。「生まれつき心臓の壁に穴が開いてて。そんなに大きな穴じゃないし、おじいちゃんとおばあちゃんは病院嫌いだったから経過観察とかもしてなかったんだけど。こっちに来て、おばあちゃんが死んでから父さんに病院に連れて行かれて。そしたら『長年心臓に負担がかかっていたせいで心筋が厚くなってきていて、このまま放置しているとどんどん厚くなり、年々心不全のリスクが上がって危険なので早めに手術しましょう』ってことになって」
「うん」
 情報量の多さにうろたえながらもとにかくあいづちを打つ。
「今年の四月十三日が手術の予定日だったんだ。ぼくの学校、四月十日から夏休みだから。でもどうしても嫌で、本当に直前ギリギリに拒否しちゃって。いろんな人に迷惑かけちゃった。その二週間後に父さんに病院に連れて行かれて、怒られはしなかったけど、やっぱり手術はしたほうがいいからしましょうって力説されて。今度の予定日が、七月十二日」
 今日は六月二十八日だ。ぼくは七月二十一日にインドを発つため、滞在中に彼の手術が行われることになる。
「……あ、もしかしてぼくがインドに呼ばれたのって、手術したくないきみの相談に乗ってあげるため?」
「ん? あ、そうそう」
 モーハンがさらりと頷いた。なぜぼくの父はそのことを隠していたのだろう、と考えかけたところでモーハンが口を開く。
「嫌なんだよ。本当に」苦々しげに言う。「“あたらしい”世界では手術をするのが正しい選択だっていうのは分かる。でも、ぼくは本当に嫌で。嫌で嫌で、毎日ヨーガに励んではいるけれど、待ち受ける未来をありのまま受け入れることがどうしてもできなくて」
「……手術をするのに“あたらしい”とか古いとかって関係ある?」
「あるんだよなぁそれが」
 モーハンがうれいを覆い隠すように笑った。
「……え。その手術って難しい?」
「ううん。その手術は簡単だよ。一時間ぐらいで終わって、成功率も九十五パーセントとか」
「……手術の何が嫌?」
 モーハンが口元に微笑を浮かべ、無言で首を横に振った。『言いたくない』。
「で。心臓が悪いから、ぼくはもともとすごく疲れやすいんだけど。ハリドワールにいた頃は毎日みんなとカバディとかクリケットとかして遊んでたんだよ」
「……カバディ?」
 話に水を差すのは不本意だったが、どうしても気になって聞いた。
「あ。スウェーデンではやらない?」モーハンが長いまつ毛をぱちぱちさせる。「えっと、二チームに分かれて攻撃と守備を交互にやるんだけど。攻撃チームの一人が守備側のコートに入ってタッチして、守備側に捕まらずに自分のコートに戻れたらタッチした人数分の得点が入る。それで、攻撃する人はタッチに使える三十秒間はずっと『カバディ・カバディ・カバディ』って言い続けなきゃダメ」
「え、それ本当?」
「ほんとほんと。面白いでしょ」モーハンが目を細める。「カバディかクリケットのどっちかを、ハリドワールにいた頃は毎日のようにやってたよ。ぼくは疲れやすいからゲーム中に何度も離脱してたんだけど、みんないつだって嫌な顔ひとつせずに交代してくれてた。だって、」
 だって物心つく前から一緒に過ごしてきた彼らにとって、それは当たり前のことだったから。
 そんな言葉を予想した。しかし、彼は思いもよらない台詞を口にした。
「だって、ぼくは神さまだから」
 絶句してモーハンを見つめる。
 彼は今朝と同じ表情をしていた。からかうような、試すようなあの表情をだ。ぼくの反応如何いかんによっては「なんてね」とするりとはぐらかして、そのままどこかへ行ってしまいそうな。
 冗談、なのか? でも彼は今朝『冗談ではないけどね』と言っていた。
 まさか本当に?
「……え、人間、ではないの……?」
 おっかなびっくりたずねたぼくに、モーハンが「人間だよ」と即答した。
「生き神っていうか。ただクリシュナが再び地上に現れたものとして扱われていただけ」
 だけ、と言われても。
「分かる? 理解できる?」
 モーハンが口角を上げて聞いた。ぼくはありのままを答える。
「……正直、混乱してる」
「だよね」モーハンが冗談めかすように肩をすくめる。「引いてる? もし引いてるなら、この話題はやめて最初から何も聞かなかったことにする、って選択肢もあるけど」
 彼の言動になんとなくラジェシュの血を感じながら「いや。大丈夫。続けよう」と言い切った。
 白状すると、今すぐプールかジムに行って二時間ほど運動し、一旦心を落ち着けたい。だが、勇気を出してパーソナルな部分を打ち明けてくれた彼を二時間も待たせたら、二度と深い話をしてくれなくなるかもしれない。
 冷静になれないまま会話を再開する。
「……えっと、つまり、きみのおじいちゃんとおばあちゃんが信仰してる新興宗教で、きみが“神”の役割をになっていた、って話……?」
 新興宗教の信者が寄り集まって小さな村を形成している、その中の『神』がモーハンである、というカルトなシチュエーションを想像する。「ちーがうよ」とモーハンが首を横に振る。
「クリシュナはヒンドゥー教で昔から信仰されてるポピュラーな神さま。ぼくはクリシュナとしてみんなから愛を受けていたんだ」
「……え、それはどのぐらいの規模でそういう扱いを受けていたの……?」
 かなり多めに見積もって百人ぐらいだろうか。モーハンが平然と答える。
「だから、ハリドワール全体でだよ。あそこヒンドゥー教の聖地だから」
「ハリドワールの人口、っていうのは……」
「えっと二十万人ぐらい? もちろんヒンドゥー教徒じゃない人もいるけど、ヒンドゥー教徒がほとんどだし、街全体がそういう雰囲気だから。違う宗教の人とか旅行で来た外国人とかも、ぼくをそういうものとして扱ってくれてたよ」
「……“そういうもの”」
「“神さま”」
「ちょっと待ってね」
 頭がくらくらしてきた。思わず待ったをかけたぼくに、モーハンが「大丈夫?」ところころ笑う。
「理解できる?」
「理解しようとはしてる」両のこめかみを人差し指と中指で押さえる。「え。きみは……どうしてそういう扱いを受けてたの?」
 モーハンがちょっと黙った。どう説明すれば分かってもらえるかな、と考えるような表情で視線を宙に投げ、しばらくのちにぼくに戻す。
「ダグは、ヒンドゥー教の神さまって知ってる?」
「……多少は」
 インドに来る前に少し調べた。
「画像とかは見たことある?」
「ちょっとだけ」
「どんなだった?」
 少ない参考画像を頭に浮かべる。
「手足とか頭が、たくさんあって……」
「そう。そういうことだよ」モーハンがとっとっと頭を揺らす。「クリシュナは二腕二脚の姿で描かれることがほとんどだけど。もとを辿ればヴィシュヌだし」
 理解をするのに時間がかかる。
 モーハンは、ヒンドゥー教の聖地ハリドワールでクリシュナ神として崇められていた。なぜなら手足が多いから。クリシュナは二腕二脚の姿で描かれることが多い。だけど『もとを辿ればヴィシュヌだし』。『もとを辿ればヴィシュヌだし』? クリシュナとはヴィシュヌの進化系なのだろうか。ヴィシュヌという神は、モーハンのようにたくさんの手足を持っているのだろうか。なぜモーハンは、みなからヴィシュヌではなくクリシュナとして扱われていたのか?
 それらの疑問をぶつけようとしたところで、モーハンが「話を戻そう。逸れすぎた」と言った。ぼくは頭の中のTo Doリストに『ヴィシュヌとクリシュナについて検索する』を追加する。
「ぼくは神さまだから、ゲーム中に何回離脱しても責められることもうとまれることもなかった。だって、そこにいるだけでみんなに祝福を与えられるし。心臓が弱くて長時間の運動や激しい運動ができなくても、みんなから尊敬されてたし崇拝されてたから、当時のぼくにとってそれは全然コンプレックスじゃなかった」
 みんなに祝福を与えられる、という言葉の実質を捉えられない。尊敬は分かるが、崇拝されている、という感覚を正確にイメージすることも難しい。ただ「うん」とあいづちを打つ。
「でも、ベンガルールに来てから。このへんさ、ベンガルールの中でも飛び抜けて外国人が多いエリアなんだよ。難民とか不法入国者とかじゃなくて、高いスキルを持ってベンガルールに働きにきてる外国人。インド人ですら“あたらしい”人ばっかりで、宗教色が薄かったり、信仰心は強くてプージャ——あ、お祈りね——は熱心にするけど、奇形の子供を神として扱うとかそういうことには興味ありません、みたいな人が多くて」モーハンがやるせない笑みを浮かべる。「そういう人たちにとって、ぼくは神さまじゃなくて“変な体の心臓病の子供”だから。すごいよね。扱われ方の差が。ハリドワールではみんなが好意的な態度でぼくの周りに集まってきてくれてたのに、こっちではぼくの体が気持ち悪いみたいでみんなから遠巻きにされてさ。それで、ぼくはクリケットもカバディも好きだからやりたくて、こっちでも公園で遊んでる子たちに混ぜてもらったんだけど。ぼくがいつもみたいに何度も離脱してたらすぐに『何あいつ』ってヒソヒソされ始めて。聞こえるか聞こえないかぐらいの声で『またぁ? めんどくさっ』『できないなら初めから参加するなよ』って。あっという間に嫌われた」
「ひどいこと言うね」
 当たり障りのない同情をしたぼくは、返された彼の言葉にぎくりとする。
「でも、まあ、普通に考えたら邪魔だよね」
 ぼくは何も答えることができなかった。
 だって、邪魔だろう。それは。
 悪口はよくない。スポーツを楽しむ権利はみんなにある。
 だけど、全力でゲームを楽しみたいのに、決まった一人のせいでたびたび試合を中断させられた人たちの気持ちは?
「こっちに来てすぐ、遊びのスポーツに参加するのはやめたよ。体育の授業は出てた。でも、授業中にしんどくなって休憩するたびにクラスメイトから『はいはい、またあいつね』みたいな目を向けられるのがつらくなってきて。苦しくてもギリギリまで我慢するくせがついたんだ。そしたらある日、たいしたことない運動中、ちょっと座って五分も休めば回復するような運動中に、いきなり立っていられなくなって。心臓がバクバクして体が震えて、呼吸も上手くできなくなって」
 モーハンがしっぽの左手を右手のひとつでいじる。
「あのとき、みんなから引いた視線を浴びせられたのが忘れられない」
 モーハンが目を伏せて悲しそうに笑う。
「それからはさ。ちょっと苦しいな、ちょっと疲れたなって感じるたびに『また発作が起きたらどうしよう』ってすごく不安になっちゃって。そのせいで発作が起きる、っていう悪循環」
 ぼくは完全にフリーズしていた。怒涛どとうのように与えられる情報を頭に入れることでいっぱいいっぱいで、今適切な発言が何かちっとも思いつけない。
「以上です。ご清聴ありがとうございました」
 モーハンがおどけるように頭を下げた。くいっとチャイを飲み干して立ち上がる。いつの間にか空になっていたトレーも持ち、キッチンへと向かいかける。ぼくは「え、あの、」と急いで呼び止める。
「あ、の。あの。明日も一緒にごはん食べよう」
「ん」
 モーハンが顔だけ振り返り、唇を結んで口角を上げた。その表情がひどく他人行儀にうつり、うろたえる。ダメだ。よくない。このまま別れたら、彼との間に修復困難な距離が開いてしまうような気がする。
「え、ぼく明日もプールに行っていい?」食らいつくようにたずねる。「行きたいんだけど。いい? もしきみが嫌じゃなかったら、ぼくは絶対行きたいんだけど」
 モーハンがちょっと目を見開く。それからかすかに首をかしげ、不安と期待の入り混じった表情で確かめるように聞く。
「ぼくは一緒に泳げないし、遊べないよ」
「全然いいよ」
 力強く言い切ると、ふにゃり、と糸が切れたようにモーハンが笑みをにじませた。