翌朝しっかりと五時二十分に起床したぼくは、顔を洗い、髪をとかし、水着に着替え、その上から洋服を着用するとリビングに移動した。
時刻は五時三十分。まだモーハンは来ていない。
ソファに座って彼を待つ。五時三十六分。五時四十四分。五時五十分。
あれ?
立ち上がって彼の部屋の前まで行く。耳を澄ませるが物音ひとつしない。「モーハン?」と控えめにドアをノックする。返事はない。
まさか、と家を飛び出した。エレベーターで一階まで下り、広大な中庭を駆け抜けてプールへと急ぐ。
ぼくがプールに到着したのと、モーハンがざばりと水面から顔を上げたのがほとんど同時だった。
「あれ」
モーハンが目を丸くする。
「おはよぉ。走ってきたの?」
「うん……」ぜえぜえと肩で息をしながらその場にへたり込む。「おはよう……」
「ほんと真面目だなぁ」モーハンがくすくす笑う。「昨日、ぼくが日の出前って言ったから急いで来てくれたの? ぼくは沐浴するからこの時間だけど、きみは違うんだからゆっくり来たらよかったのに」
「いや……」
別に真面目なわけではなくて、ただきみと連れ立ってプールに来たい、という下心があっただけなんだけど。
口にしようか悩んで、やめた。全力疾走でぐしゃぐしゃになった髪を手ぐしで直す。
「え、何時に来たの?」
「ん?」モーハンが首をかしげる。「五時とかかなぁ。時計見てないから分かんない」
「いつも大体そのぐらい?」
明日は五時前にアラームをセットしようか、と本気で検討しながら聞いた。モーハンが「いや?」と首を横に振る。
「昨日も言ったけど決めてないんだよ。起きたら行く。それだけ。もっと早い日もあるし、もっと遅い日もあるよ」
どうすれば彼と仲良く並んでプールへ行けるのだろう、としばらく考えたのちに諦めた。だって、モーハンにそのつもりはまったくないのだ。
プールサイドにはずらりとリクライニングチェアが並んでいる。
モーハンが水から上がり、そのうちのひとつにまっすぐ向かう。夜には満席となるチェアゾーンだが、今は一脚を除きからっぽだ。無論、モーハンはその一脚の前に立った。
彼の細い腕が座面にくしゃりと放られた赤紫色の布を持ち上げる。その下にTシャツと、何か棒状のものがある。棒は三、四十センチほどの長さで、細くて茶色い。
「それ何?」
彼のそばに寄ってたずねると、モーハンがふわりと布を広げながら「ん?」とこちらを向いた。広がった布は想像以上に大きくて、短辺でも一メートル、長辺では二メートルほどもある。
「ルンギだよ。インドの民族衣装」しゅるる、と慣れた手つきでそれを腰に巻き付ける。あっという間に膝丈のスカートが完成した。これにTシャツと手首の花輪を足せば、いつもの彼の朝のファッションができあがる。「もうちょっとフォーマルに行きたいときは、ドーティっていってもっと大きくて白い布をパンツ状に巻き付けるんだけど。ルンギのほうが早いから、家ではもっぱらルンギだね」
「そうなんだ」
なるほど彼のスカートは民族衣装だったのか、と首肯してから『いや違う』と座面を指す。
「その棒は何?」
「ん?」モーハンがリクライニングチェアを振り返る。「ああ。バーンスリー」
「ばーんすりー?」
「横笛だよ。竹でできた横笛」
「え。吹けるの?」
「吹ける吹ける」
ころころと笑ったモーハンにぼくは「すごい」と感嘆の声を漏らす。モーハンが「おんなじ曲ばっかり吹いてるから、そらで吹けるのはその一曲だけなんだけどね」と照れくさそうに言った。
「一曲でもすごいよ。なんて曲?」
「ハレ・クリシュナ」
聞いたことのないタイトルだ。ぼくは音楽に疎い。最近の曲だろうか、それとも昔の曲だろうかと考えていると、モーハンが「多分きみは知らないよ。ヒンドゥー教の曲だから」と教えてくれた。
「それってキリスト教でいう讃美歌みたいなもの?」
「讃美歌を知らないけど。多分そう」とっとっ、とモーハンが頭を揺らす。「クリシュナっていう神さまのキールタン——えっと、マントラ・ソングで……。おんなじフレーズの繰り返しだから、誰でも簡単に歌えるんだよ」
ぼくを気遣って『キールタン』を『マントラ・ソング』に言い換えてくれたのだろうが、まずマントラが分からない。素直にたずねる。
「マントラって?」
「聖なる音」
雲をつかむような答えが返ってきた。正直まったく理解できていないが、宗教的なものは往々にしてそういう性質を持っている。深追いせずに「なるほど」と軽く流して話題を変える。
「バーンスリー……だっけ? 何歳ごろからやってるの?」
「えっと。四歳ぐらいかな」
「え、すごいね」ぼくは身を乗り出す。「そんな歳から音楽教室に通ってたの?」
「違う違う。音楽教室とかは行ってないよ」
「え、あ。じゃあ学校でやるの?」
「やらないやらない」モーハンが笑って首を横に振る。「ハリドワールではバーンスリーって結構身近なアイテムだから。親兄弟とか近所の子に教えてもらって吹ける、って子はまあまあいたんだけど。ぼくは、お気に入りの沐浴スポットによく練習しに来てるプロのバーンスリー奏者がいて、その人に教えてもらってた」
「え、すごい。それってどういう経緯でそうなったの?」
「なんか、ぼくがその人の演奏を気に入って『教えて』って言ったんだって」
あっけらかんとモーハンが言った。当時は無知な子供だったとはいえ、すごい度胸と社交性だ。
「でも親切な人だね」ぼくは感心する。「自分の練習時間を犠牲にしてまで、知らない子供にバーンスリーを教えてくれるなんて」
「確かにね」モーハンが意味ありげに口角を上げる。「でも、クリシュナかヴィシュヌを信仰してるヒンドゥー教徒なら誰だってそうしてくれたと思うよ。だって、とても名誉なことだからね」
意味が分からない。少し考えてからたずねる。
「……えっと、ヒンドゥー教にはそういう教えがあるの? 同じ宗派の子供に楽器を教えてあげると天国に行ける、みたいな」
「違う違う」
モーハンがあっさりと否定した。がばりとTシャツを被り、リクライニングチェアの上にあぐらをかく。バーンスリーを口元に構え、長いまつ毛に縁取られた美しいライトグリーンの瞳でぼくを見上げる。
「クリシュナってさ。バーンスリーの名手なんだよ」
「……うん」
なんの話だろう、と戸惑いながらもあいづちを打った。モーハンが続ける。
「それで。ぼくはクリシュナなんだよ」
ぼくはフリーズした。
しばし二人で見つめ合う。混乱しているぼくと、いたずらっぽい笑みを浮かべて『さあどうする?』と挑むような目をしたモーハンと。
どうする? 何が? 何を?
ふはっ、とモーハンが噴き出した。
「困ってる困ってる」
ぼくはぽかんとしたのち、ボッと顔を赤らめた。からかわれたのだ。
「ごめん。ぼく、冗談通じないねってよく言われるから」
「冗談ではないけどね」
ぼそりとモーハンが言った。え? と問いかける前に彼が立ち上がる。
「さあ、ぼくはもう帰ろうかな」
「えっ」ぼくはうろたえる。「ヨーガは?」
「今日は早起きしたから沐浴の前にやっちゃった。きみはゆっくり楽しんで」
「え、」どうにかして引き止めたい。まだ彼と一緒にいたい。「え、あの、じゃあ、えっと、ちょっとだけ一緒に泳がない?」
にわかにモーハンの顔がこわばった。すぐにぎこちない作り笑いを浮かべる。
「泳がない。泳げないし」
「え、じゃあぼくが教えるよ」
ううん、とモーハンが小さく唸る。
「でもぼくは泳げないんだ」
「だから、教えてあげる。大丈夫だよ。ここなら足がつく深さだし」
「でも」
「沐浴するときって、頭のてっぺんまで水に浸かるんだよね?」
「うん」
「なら泳げるよ。水に浮いたことはある?」
「……ある」
「じゃあ百パーセント泳げる。あとは手足の動かし方を知るだけなんだから」
懸命に説得する。きゃあきゃあとじゃれあいながらモーハンに泳ぎを教える、という魅力的なイベントをむざむざと逃すわけにはいかない。
モーハンが押し黙った。
「……え。何が嫌? もしかして、過去に溺れたトラウマとかある?」
「ない」
うううん、とモーハンがまた苦しそうに唸った。
しばらくのち、モーハンが俯いたままぽそりと言う。
「……ちょっとだけ、なら、平気かなぁ……」
「うん。無茶とか無理強いとか、絶対しないから」
力強く言ったぼくに、モーハンが少し遅れてとっとっと頭を揺らす。
「……じゃあ、うん。はい」
のろのろと立ち上がり、しゅるりとルンギを脱いだ。ついでにTシャツも脱いで、リクライニングチェアの上にバーンスリー、Tシャツ、ルンギの順で重ねていく。
水着姿、というはじめの状態に戻っただけなのだが、するすると布が取られて彼の肌があらわになるさまは、滑稽なほどぼくの鼓動を速くした。おかしなスイッチが入ってしまったのか、最初に彼の水着姿を見たときには意識していなかった、近いところから生える二本の腕や足の継ぎ目が、尻の割れ目の上からぼこりと突き出てすらりと伸びるしっぽの腕が、生々しくぼくの目を焼く。
「ダグ?」
不思議そうに名前を呼ばれて我に返った。「あ、えっと、うん」と取り繕う。
「えっと。まずは、並んで座ろうか」
ぼくも洋服を脱いで水着姿になると、プールのふちに腰掛けた。足だけが水に浸かった状態だ。
すっ、とぼくの真横にモーハンが腰を下ろした。わずか十五センチほどしか離れていない。驚いて見下ろすと、きょとんとした目で見返された。その目に他意はまるでない。初めて会ったとき、ためらいなくぼくの手を握って体を寄せた彼の姿を思い出す。きっとパーソナルスペースが狭いタイプなのだ。
ぼくのパーソナルスペースは広い。正直、他人に一メートル以内に入られたくない。だが、モーハンに寄られることだけはなぜかまったく嫌ではなかった。彼から香る甘くてスパイシーな香りを、ひそかに深く吸い込む。
「こう、ぱちゃぱちゃぱちゃって交互に」
平静を装い、伸ばした足をゆるやかに上下させる。ぼくがもっとも得意とするのは平泳ぎだが、初心者のモーハンにとって取っ付きやすいのはバタ足だろう。ぼくが足を動かすたび、水面に細かな泡が立つ。
モーハンが真似をしかけて、ふっと静止し「交互?」と笑った。
「交互って?」
「え? あ、そっか」
やっと緩んだ彼の表情にほっとしながら、どうしたものかと考える。彼の脚は三本だ。
ややあって、外側の二本をひとセットとして捉える案を出した。外側の二本が上がっているときは真ん中の一本を下、外側の二本が下がっているときは真ん中の一本を上である。
「ん? うん、うん」
ぱちゃ、ぱちゃちゃ、ぱちゃ、とモーハンがぎこちなく足を動かし始める。間もなく、ぱちゃぱちゃぱちゃ、とスムーズなバタ足に移行する。
「器用だよね」
なめらかに動く三本の脚に見とれながら言った。モーハンが「普通なんだって。ぼくにはこれが」と答える。
「あ、ごめん」
慌てて謝った。ぼく自身、ぼくにとってはごく“普通”であるプラチナブロンドに散々言及されてうんざりしながら生きてきたのに、軽率な発言をしてしまった。
「ん? 何が?」モーハンが頭をかしげる。
「だから、失礼な発言をしちゃってごめん」
「失礼な発言?」目をぱちくりさせる。「されてないけど」
「『器用だよね』って」
「え、それって褒め言葉でしょ?」
「そのつもり、だったけど。きみからしたら、ずーっと言われ続けてきてうんざりしてる言葉だったんじゃないかなぁって」
「配慮がすごい。“あたらしい”人だなぁ」モーハンがころころ笑う。
「……その“あたらしい”って言葉、あんまり好きじゃないんだけど」
しつこく苦言を呈した。モーハンが「うん」と軽く流して話を戻す。
「『器用』って言われるの、ぼくは全然嫌じゃないよ。なんなら嬉しい言葉かも」
「ほんとに?」
「うん」
ぼくは呆気に取られながら、先ほどの彼の『普通なんだって。ぼくにはこれが』を思い返していた。
言われてみれば、その声音に不快そうな響きは含まれていなかった。どちらかといえば楽しそうな、誇らしげな響きすらあった気がする。
ぴたり、とモーハンが脚を止めた。
「疲れた」
「もう?」
ぼくは破顔した。彼が冗談を言っていると思ったのだ。とはいえぼくの『破顔した』は、はたから見れば口角がかすかに上がったかどうかだっただろう。
「ぼくもう上がるね」
モーハンが立ち上がる。ぼくは「待って待って」と笑いながら彼の手首をつかむ。と同時にぎょっと体を固くする。
「ごめん」
モーハンがささやくように言った。彼の手首はかたかたと小刻みに震えている。
「ごめん。大丈夫。なんでもないから」
言う間にも震えは全身に伝播し、みるみる大きくなってゆく。
「なんでもないから……」
モーハンが泣きそうな声で繰り返した。呼吸が荒く、顔色も悪い。
ぼくははっと正気に戻って立ち上がった。
「座る?」
やや中腰になって彼と目線の高さを合わせ、落ち着いたトーンを心がけながら聞いた。モーハンが頭を揺らしかけ、その途中で崩れ落ちるようにしゃがみ込む。ぼくも合わせてしゃがむ。さっきつかんだ彼の手首を離し、その腕に触れるかどうかのところに手を添える。万が一彼が倒れそうになった場合、すぐに支えられるようにするためだ。
「チェアのほうが楽なら肩貸すよ」
ふるふるっ、とモーハンが首を横に振った。
「持病の発作?」
ぼくの質問に、モーハンがちょっとためらってからトットッと頭を揺らした。
やはりそうか。彼の挙動には、突如起こった原因不明の症状に混乱するさまは少しも見受けられなかった。
「身体的? 精神的?」
「……精神的」
「常備薬は? もし家にあるなら取ってくるよ」
「いい」モーハンがふるっと首を横に振る。「ないから」
きゅ、と彼の右手のひとつがぼくの左腕にしがみついた。どきりと胸を昂らせながら、なんでもない顔を装って受け入れる。うららかな朝の日差しの中、ざざ、ざざん、と緩やかに鳴るプールの水音が快い。
ゆっくりと、時間をかけて彼の震えは収束していった。
すっかり落ち着きを取り戻したモーハンが、ちら、とうかがうようにぼくを見上げる。
「ごめん」きまりが悪そうに言う。「嫌いになった?」
「何が?」ぼくは面食らう。
「嫌いになってない?」
「なってないよ。なる理由がないし」真剣なトーンでたずねる。「病名……とかは聞いてもいい?」
病名を知っていれば、今後同じことが起こった際により的確な行動を取れるかもしれない。
モーハンがちょっと黙った。こく、と二度ほど喉を鳴らしたあとに意を決したようにささやく。
「……パニック障害」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「知ってるの?」
モーハンが目を見開いた。ぼくは頷く。
「知ってるよ。百人に一〜三人がかかるって言われてるよね。慢性的な人の割合はそのぐらいだけど、突発的になる人は十人に一人とか聞くし」
「え、そんなに多いんだ」
「薬持ってないってことは、病院には通ってないの?」
モーハンがきまりの悪そうな顔をする。
「……診断、は、してもらったんだけど。……病院、きらいだから。全然通う気になれなくて」
「そうかぁ」
ぼくは腕を組んだ。病院に通って適切な治療を受けたほうがよいとは思うが、インドの病院のレベルや実情を知らないため、軽はずみな発言はできない。
すっくとモーハンが起立する。
「ぼくもう帰ろ」
あっさりと言った。慌ててぼくも立つ。
「え、じゃあぼくも帰る」
「なんで。まだ全然泳げてないじゃん」モーハンが笑う。「泳ぐためにわざわざ早起きして来たんでしょ?」
泳ぐのは好きだ。好きだけれど、ぼくが早朝にアラームをセットしてまでここに来た理由は、少しでも長くきみと時間を共有したいからなんだよ。
そんなキザな台詞を吐けるわけもなく、「え、あ、うん……」と情けない頷きだけを返す。
「ごゆっくり〜」
いつの間にやらルンギとTシャツを着用し、左手に横笛のバーンスリーを持ったモーハンがひらりとぼくに右手のひとつを振った。先ほどバーンスリーを見て『昨日までの彼はあんなものを持っていたかな』と少し疑問に思っていたのだが、今確信した、持っていたのだ。茶色くて細い笛は彼の肌色によく馴染む。鮮やかな色のルンギのそばでは、特にその存在をかすませがちだ。
彼の進路を目で追っていたぼくは、あれっと目をしばたたかせた。
このプールは、円状に配置された六棟のマンションの中央に位置している。淀みなく歩くモーハンの進行方向は自宅ではない。
彼はまっすぐに売店へと入っていった。
二分もかからずに出てくる。その右手首にはお馴染みのオレンジ色の花輪が巻かれている。沐浴とヨーガに並び、売店で花輪を買う、というのも彼の朝のルーティンのひとつらしい。
毎日花を買って飾る、というのはロマンチックで素敵だ。あの花は彼の部屋のどこに飾られるのだろう。窓際? 机の上? それとも、ベッドのそば?
ほのぼのと想像を巡らせていると、ぼくの視線を感じたらしいモーハンがぱっとこちらを振り返った。ニコッとほほえみ、花輪を巻いた右手を顔の高さでひらひら振る。
ぼくは手を振り返しながら、己の顔がでれでれと緩みきっていることに気が付いた。