1 出会い(3)

 浅いふて寝の中、父に遠慮がちに揺り起こされて機内食を食べる、ということを二度やった。
 耳に激痛が走り、顔をしかめて目を開く。どうやら飛行機が着陸のためにぐんぐんと夜空を降下しているらしい。眼下にびっしりと並ぶ家々とビル群のシルエットから、経済大国として急成長を遂げているインドの勢いが見て取れる。
 二十三時五十分。飛行機は無事にインドのベンガルールにあるケンペゴウダ国際空港に到着した。
 半分寝ぼけたまま入国の手続きを終え、ショップの並ぶ通路を父と無言で歩く。
「あの……さっきは本当にごめんね」
 父がそっと言った。
「え? ああ。いいよもう」ぼくはあっさりと首を横に振る。きちんと謝罪も受けたわけだし、もう何時間も前の話だ。「ていうか、ぼくもちょっと怒りすぎた。ごめんね」
 ルッキズムな言動はつつしむべきだが、あんなに強い言い方をする必要はまったくなかった。寝不足と、『これから一ヶ月も他人の家で寝泊まりをしなければならない』というショックから、八つ当たりのように過剰に攻撃的な物言いをしてしまった。
 自動ドアを抜けて外に出る。スパイシーな香りとほこりっぽさと蒸し暑さが同時に襲いかかってきて、むっと鼻に皺を寄せる。この環境で一ヶ月も暮らしていける自信が、さっそくない。
 深夜の〇時を回っているにしては存外多くの人間がそこにはいた。あるいは送迎の運転手がしゅなのかもしれないが、スウェーデンの田舎で生まれ育ったぼくからしてみれば、ちょっとした祭りか、というようなにぎやかさである。
 迎えのラジェシュを見つける作業は父に一任して(ぼくはラジェシュの顔を知らない)、ぼんやりと人々を眺める。真っ白なぼくと父にぎょっと見開かれる目たちを無視して、無頓着に視線を滑らせてゆく。ぎゅんと一体の神像に釘付けになった。
 あ、好きだ。とまず思う。
 そして、絶対に父もあれを好きだ。
 飛行機の中で父が言っていたが、ぼくと父は非常に好みが似ている。もちろん、我が家では人の容姿について論じるなどという下品なことは行われていないため、無機物に限った話だ。美術館や博物館に行けば同じ展示物に揃って見とれているし、家族で大型のストアに行って別行動ののちにレジ前で合流すれば、色柄やフレーバーまで揃った同一商品をカートに入れていて、母から呆れられることがしばしばある。
 くだんの神像には三本の腕があった。
 インドを訪れるにあたって、少しは下調べをした。あまりに混沌としていたため早々に投げ出してしまったのだが、『インドでもっとも信者数の多いヒンドゥー教は多神教であり、それらの神々の中で、たくさんの手足や頭を持つものはさほど珍しくない』という程度の知識はあった。
 そのときに見た神々の画像はすべて左右対称だったように思う。あの神像のように左右非対称のものもいるのか。そのいびつさがチャーミングで素敵だ。
 顔の造形も好きだ。
 ぼくは人の顔をどうこう言うことは大嫌いだが、絵画や彫刻に対して『いい顔だな』と思うことはままある。
 びっしりと長いまつ毛に縁取られた、吊り目がちの優しいグリーンの瞳。目頭側が広くて目尻に行くにつれて狭くなる、くっきりとした二重。つんと尖った鼻に、悠然とほほえむ小作りな唇。
 そう、グリーンの瞳だ。
 その神像は青銅色や金色ではなく、こまかに着色されていた。
 褐色の肌に黒々とした髪とまつ毛、それなのに瞳は黄緑に近いグリーンという希少さが神秘的で美しい。民族衣装らしき丈の長いターコイズブルーのトップスと真っ白なボトムスも、肌の色に映えてよく合っている。
 それは子供の神像だった。
 台座などにも乗せられていないため、ともすれば人々の影に埋もれがちなその神像を目を凝らして観察する。
 よく見ると、腕だけではなく脚も三本ある。それから、……見間違い? いや。いや。確かに地面すれすれにもうひとつ手が見える。長さと角度から考えるに、四本目のその腕は神像の尾てい骨のあたりからしっぽのように突き出しているのではないか。あまりの愛らしさに頬が緩む。
 あの神はなんという名前なのだろう。空港を出てすぐのところに建てられているのだから、間違いなくポピュラーな神だ。なんと検索すれば出てくるだろうか。あるいは、父はあの神の名前を知っているのでは?
 神像を発見してから思考がそこに至るまで、わずか五秒。
 しかし、ぼくは父にその神の名を聞くことができなかった。
 それより早く、神像がぱっと右手の一本を高く掲げたからだ。
「ルードヴィグさん!」
 神像が満面の笑みでぼくの父の名を叫んだ。神像がこちらに走り寄りかける、と、真横からビュンと風を切る音がする。ぽかんと隣を見る。今しがた父がいたそこにはもう誰もいない。神像に視線を戻すと、父が神像を抱き上げてくるりと一周回っているところだった。
「ダメだよ、走っちゃ」
 父が神像を地面に下ろし、心配そうに注意した。距離的になんとか聞こえる声に、ぼくは唖然としながらも無意識に耳を澄ませる。
「このぐらいなら平気だよ」神像がくすぐったそうに笑う。
「ダメダメ、用心しなくちゃ」父がその場にしゃがんで神像を見上げる。「でも、びっくりした。迎えにきてくれてすっごく嬉しいけど、時間も時間だし、家でゆっくり寝ててもよかったんだよ? どうせ明日からはいくらでも顔を合わせられるんだし」
「ううん。ぼくが早くルードヴィグさんに会いたかったんだ。だって、せっかくスウェーデンから会いに来てくれたんだもん」
 それを聞いた父がとろけきった顔で目を細める。と、神像の後ろからひょこりと男性が顔を出す。
「おいルードヴィグ、俺は?」
 その男性は細身の体型で、二メートルちょっとあるぼくの父よりも三十センチほど背が低い。体のラインに合ったシンプルで上質そうな服をスマートに着こなすさまはどこか都会的だ。
「ああ。ラジェシュか」父が立ち上がり、わざとらしいほどの無表情で淡々と言う。「どうも。こんな夜中に迎えにきてくれて」
「テンションが全然違うんだよなぁ」
 ラジェシュが唇を尖らせた。彼らは顔を見合わせ、けらけらと同時に笑い出す。
 唐突に父がぼくを振り返った。
「ダグ」
 手招きをされる。ぼくは呆然と立ち尽くしてしまって動けない。もう一度「ダグ」と呼ばれ、ハッとして彼らのところまで駆け寄る。
 神像の正面に立つ。ぼくはラジェシュより五センチほど背が低くて、神像はぼくより十センチほど背が低い。
「God kväll」
 神像が——いや、モーハンが——照れくさそうにスウェーデン語で挨拶をした。
「合ってる? ネットで音声を聞いて練習したんだけど」
 それから胸の前で合掌し、なまりは強いが堂々とした英語で続ける。
「はじめまして、モーハンです。きみに会えて嬉しいよ」
 ぼくはといえば、完全なるフリーズにおちいっていた。
「ダグ?」モーハンが困ったように小首をかしげる。「えっと……、英語、分かる?」
「分かるよ」ぼくの代わりに父が答える。「気にしないで。彼は少し緊張してるみたいだ」
「緊張?」
 モーハンがおかしそうに笑った。父が冗談を言ったと判断したのかもしれない。
 するり、と彼の右手の一本がぼくの左手に前触れもなく絡んだ。ばくり、とぼくの心臓が大きく跳ねる。
「行こっか。駐車場はあっち。で、ぼくの家はここから一時間ぐらい」
 にこにことモーハンがぼくを見上げる。彼から香る甘くてスパイシーな香りに、ぐらりと眩暈めまいがする。
 ぼくは勢いよく彼から顔を背けた。
 ぼくは、人の容姿をジャッジする行為が大嫌いだ。
 その感情が自分の中で育つにつれて、あるくせができた。『人の容姿に対してそもそも感情を抱かない』というものだ。
 背が高い、それだけ。背が低い、それだけ。背が高いからどうの、背が低いからどうのとは考えない。
 しかし、ぼくはモーハンを神像だと勘違いしてつぶさに観察してしまった。
 あそこが好きだな、ここがかわいいな、左右非対称の体も特異なカラーリングも目元が印象的な顔立ちもしっぽのような腕も、すべてがミステリアスでキュートで魅惑的だな、ああぼくはこれが好きだ、とうっとりと夢中で眺めてしまった。
 だけどモーハンは人間で、だけど一度抱いてしまった感情を即座に跡形もなく消すことなんて不可能で、だけど、だけど。
 心の現状を確かめるためにちらりとモーハンを見やる。モーハンが「ん?」と人懐っこい目つきで首を傾け微笑する。ダメだ。ダメだ。慌てて逸らす。顔が熱い。心臓がうるさい。彼と繋いでいる手の先から沸騰して、全身の血がうだってしまいそうだ。
 上方からの視線を感じて見上げる。にんまりとした顔の父と目が合う。
 ——どう? 好きでしょ?
 ぼくはぷいとそっぽを向いた。といってモーハンと目を合わせるわけにもいかず、ふてくされた子供のように地面に視線を落とす。
 悔しい。恥ずかしい。認めたくない。
 父の読み通り、モーハンの姿形にすっかり魅了されてしまった、という現実を。