1 出会い(2)

 スウェーデンのストックホルム・アーランダ国際空港を出て、フランスのシャルル・ド・ゴール空港で、インドのベンガルールにあるケンペゴウダ国際空港へ向かう飛行機に乗り継いだところまでは、すこぶる機嫌がよかった。
 今か今かと離陸のときを待つケンペゴウダ国際空港行きの飛行機の中で、ぼくはにじむ笑みを抑えられずにいた。明るい色の長袖Tシャツ(初めは半袖を買うつもりでいたのだが、「インドの日差しは強烈だよ」と父にアドバイスをされて長袖に変更した。ぼくの肌はかなり紫外線に弱い)はぱりっと新品で気持ちがいいし、頭上の荷物棚にはスマートなデザインの真新しいグレーのバックパックがきちんと収まっている。
 スウェーデンからフランスへと向かう飛行機の中で、父はずっと眠っていた。早朝のフライトに間に合うよう、今朝は午前二時半に起きたのだから当然だ。あの飛行機の中では、ずっと目をらんらんとさせてうきうきしていたぼくのほうが間違いなく少数派だった。
 インドへと向かう飛行機の中、ちらりと隣の父を見る。寝ぼけまなこではあるが、今は彼も起きている。
「そういえばさ。ぼくらが泊まるホテルってどんなところなの?」
 ぼくはインテリアにも食事にも窓からの眺めにもホスピタリティにもこだわりがないため、鍵がかかってエアコンと人数分のベッドがあってそこそこ清潔であればあとはどうでもよかった。ただ、父とインドへのわくわく感を共有したくて聞いた。
「ん……?」
 父がぼんやりとぼくを見下ろす。
「だから、ホテル。もしかしてお父さんがいつも使ってるところ?」
 十何年も毎年インドに行っているのだから、お気に入りのホテルぐらい定まっているはずだ。
 些細な質問のつもりだった。してもしなくてもよい、無意味な会話のつもりだった。
 ぎゅん、とにわかに父の瞳孔が開く。
「え?」
「ホテル?」
 うろたえたように父がたずねた。ぼくは「え? うん……」と当惑する。
「ホテルには泊まらないよ」
 おずおずと父が言った。ぼくは意味が分からずにフリーズする。
「ホテルには泊まらない」父がぼくの顔色をうかがいながら、一字ずつゆっくりと発音する。「ラジェシュの家に泊まるから」
「無理だよ」
 ぼくは断言した。
 無理な話だ、それは。
 学校など、日中を他人と過ごすのは大好きではないけれど別に大嫌いでもない。だけど、夜は家族だけの空間で心と体を休めたい。
 物心つく前から『祖父母の家に一週間』などが無理な子供であった。どういうわけだか、二、三日目に決まって体調を崩してしまうのだ。
 六歳のときに初めてサマーキャンプに参加した。四泊五日のプログラムの、一日目の深夜に頭痛と吐き気で帰宅した。翌年は一泊は耐えたものの、二日目の朝目覚めた瞬間からぐったりと具合が悪く、これでは今日のプログラムをこなせない、という自己判断のもと帰宅した。いずれも父母に迎えにきてもらい、帰りの車の中で全快した。明らかに精神的な症状である。以降は一度も参加していない。
 別荘サマーハウスに一ヶ月だろうが、異国のホテルに三週間だろうが、家族だけのバカンスであればなんの問題も起こらない。だが、他人がいるとダメである。異様に疲れて『早く帰りたい』とそればかり考えてしまう。己の性質を理解してからは、家族で祖父母の家に泊まりにいくのも一泊二日だけと決めている。
「無理だよ。そんな。知らない人の家に一週間もなんて」
「herregud」父が天を仰ぐ。「一ヶ月だよ」
 ぼくは言葉を失った。
 いつの間にか飛行機が滑走路を走り出していた。走って、走って、走って、ふわりと宙に浮く。機体が傾き、ぐんぐんと空に上ってゆく。きぃんと耳鳴りがして頭に激痛が走る。この頭痛の原因は、気圧の変化、だけではないかもしれないが。
 シートベルトサインが消える。キャビンアテンダントがドリンクを配るために機内を往復する。その紙コップの回収が終わる頃、ようやくぼくは口を利いた。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
「言ったよ。『ぼくは毎年ラジェシュの家に泊まるけど、きみは嫌だよね? 今回は一週間じゃなくて一ヶ月だし……。ラジェシュの家の近くでツインのホテルを取ろうか?』の『一ヶ月だし』を言い終えたあたりで、きみが『行こうかな』と答えたんだ」
 ぼくは手で口を覆った。あのときだ。ぼくが話を聞いていなかった、あのとき。
「今からラジェシュに連絡しようか?」父がスマートフォンを手にする。「ラジェシュもモーハンも、きみが泊まるって聞いてすごく楽しみにしてたんだけど。でも仕方がないよね」
 ラジェシュにチャットを打ちかけた父の手首をとっさにつかむ。つかんでから葛藤する。
 正直なところ、父の提案に甘えたい。だけど『ぼくが家に泊まると聞いて喜んでいたモーハン』は、当日にキャンセルの連絡を受けたら失望するかもしれない。『なんだ、ダグってそういうタイプなんだ。ちょっと友達にはなれないな』って、顔を合わせる前から見限られてしまうかもしれない。
「……頑張ってみる」
 かすれた声を絞り出す。
「だって、ぼくもう十四歳だし。実際にやってみたら、意外といけるかもしれないし。でも、あの、」
 上目遣いに父を見る。つかまり立ちをする赤ん坊を見守るような目色の父と視線が交わり、カッと頬を赤らめる。
「『でも、あの』?」
 父がほほえんで小首をかしげた。ぼくは口をつぐんだが、これを自ら言わずに父に察させることこそまさしく幼稚だなと、恥を忍んで口を開く。
「……やっぱり無理ってなったら伝えるから、そのときはホテルを取ってほしい」
「うん、了解」
 ぼくは座席の背もたれに深く体を預け、長い息を吐き出す。
 朝からの、いや、昨晩からの、いや、十日前からのハイテンションが、どっと疲れになりかわる。
 ああ、もう、こんな飛行機の座席じゃなくて、今すぐベッドに潜り込んで土中の幼虫のように眠りたい。だけどこれから十時間はこの座席にいなければならないし、到着したところで用意されているのは見知らぬ他人の家のベッドだ。
 やっぱり今からでも『ホテルを取って』とお願いしようかしら。
 横目で父を見る。そこに広がる見慣れぬ光景に、目をしばたたかせる。父がスマートフォンの画面を見つめながら、いまだかつてないほどに相好を崩していたのだ。
「お父さん?」
 思わず声をかけた。父が「え?」とだらしない顔のままこちらを向く。彼は「いやね、」とスマートフォンもこちらに向けかけ、すんでのところで「おっと」と引っ込める。
「何? なんか、動物のほのぼのニュースの写真?」
 覗き込もうとすると、父がスマートフォンをパッと自身の膝の上に伏せる。
「いや。……モーハンが、新しい服を買ったよ〜って、写真」
「え、見せて?」
「見せない」
「なんで?」意味が不明で眉間に皺を寄せる。
「モーハンのファーストインパクトは、できれば実物で感じてほしいから」父の声は浮ついていた。ファーストインパクト? ファーストインプレッション、の言い間違いだろうか。「きみは絶対にモーハンの容姿が好きだよ。だって、ぼくたちの好みはそっくりだからね」
 ぼくは冷たい軽蔑の眼差しを父に注いだ。
 父が目をまたたかせる。直後に「おっと」と口に平手を当てる。
「よくない発言だな」ぼくは意識的に深いため息を漏らす。「お父さんがそんな発言をするなんて思わなかった」
「いや……ごめん。失言。失言だった」
「誰が誰の容姿を好きだって? 無礼すぎるよ」
「いや、本当に申し訳ない」
 父が頭を下げた。ぼくは無言で首を横に振り、父と反対側、窓の外に視線を投げる。
 ぼくは人を見た目でジャッジする行為が大嫌いだ。
 けなすのは言わずもがな、褒めるのもすべきではないと考えている。我が家では、身近な人間についてはもちろん、俳優やモデルの容姿についても一切話題に上らないため、父母も同じ考えなのだと今の今まで信じ込んでいた。
 幼い頃から見た目に言及される人生を送ってきた。
 最近は世界的に“反ルッキズム”の考えが浸透してきたせいか、あるいはぼくのリスク管理能力が上がって『あ、来そうだな』と直感した瞬間にいかにも無愛想に目を逸らすことにしているせいか、絡まれる頻度はずいぶん減った。だが、無防備な子供の頃は本当に会う人会う人から同じ台詞を投げかけられたものだ。
「真っ白で綺麗だね!」
「神秘的で美しいね!」
「その髪、どこでブリーチしてるの? え、地毛? アンビリーバボー!」
 両親ゆずりの真っ白な肌に、プラチナブロンド、明るいスカイブルーの瞳。
 北欧にルーツを持つ赤ん坊がそれらの色を持ち合わせているのは、さほど珍しいことではない。しかし、大多数は成長するにつれて髪も目も次第にトーンダウンしてゆく。ぼくの両親や祖父母のように(そして、きっとぼくもそうなる)大人になっても真っ白なプラチナブロンドを有したままの人間は“レアキャラ”だ。近年スウェーデンに移民が急増していることも手伝って、“ウルトラレア”にすらなりつつある。
 ぼくにとって、ぼくの髪や目や肌がこの色なのは当たり前のことだ。
 褒めそやされても反応に困るし、これっぽっちも嬉しくないし、繰り返し違う人間から同じ言葉をぶつけられ続けてきて心底うんざりしている。
 ぼくの髪がプラチナブロンドだとか、あの子のまつ毛が長いだとか、あの子の目が小さいだとか、あの子の歯並びが悪いだとか、あの子の鼻が高いだとか、あの子の足が短いだとか。
 どうでもよくない? 放っておいてくれない? それらは、わざわざ口にしなくてはいけないこと?