高度一万メートル。
ぼくは最高に不機嫌だった。
「夏休みにインドへ行かない?」
十日前、リビングでフィーカをしているときに父から誘われた。
フィーカとは『コーヒーとお菓子をお供に会話を楽しむ時間』だが、我が家においては会話はまったく必須ではない。
もちろんしゃべりたければしゃべってもよいが、七割方無言である。それぞれがソファだのチェアだのリビングの好きなところに座って、コーヒーとお菓子をお供に、動画を見たり、本を読んだり、裁縫をしたりと各々の時間を過ごす。
ぼくたちは決して仲が悪いわけではない。話し合いだって相談だって、必要とあらばできる。ただ根が無口なだけだ。
ぼくは見ていた動画を一時停止すると、スマートフォンを脇に置いて、前に立つ父を見上げた。
「珍しいね。いつもは一人で行くのに」
言いながら向かいのソファを手で示す。父は素直にそこに腰掛けながら「うん、ちょっとね」とかすかに口角を上げた。親しくない人が見れば、父の表情の変化には一切気が付かないかもしれない。この表情の乏しさは母も有しており、言うまでもなくぼくにも遺伝している。
インド。インドか。
毎年、父は夏になると一週間ほど一人でインドへ遊びにゆく。なんでも、アメリカの大学時代の親友がインドに住んでいるらしい。
六歳のときに一度だけ「一緒に行こうよ」と誘われた。
「ダグももう六歳なんだし、そろそろ長時間のフライトにトライしても楽しいかも」
「私は行かないわよ」
どうしようかなぁと迷う間もなく、横から母がぴしゃりと言った。
「あんなにうるさくて暑いところ、新婚旅行でこりたわ。二人で行ってきたら?」
当時のぼくは、父よりも母にべったりだった。母が行かないのであればぼくも行かない。
「ぼくも行かない。一人で行ってきたら?」
母の口調を真似て断ると、父は「ああ、そう」とがっくりうなだれた。以降ぼくたちをインドに誘うことはなく、実に今日八年ぶりに彼から誘われたことになる。
十四歳のぼくは、もう母にべったりの子供ではない。ここスウェーデンを包含するヨーロッパを飛び出して、遠く離れた異国へ旅をすることにも少し興味がある。
だけど——『うるさくて暑い』インドか。
うるさいのも暑いのも苦手である。
悩んでいると、父がやや遠慮がちに口を開く。
「ラジェシュ——ぼくの友達に、きみと同い年の男の子がいる、って話は覚えてる?」
「……なんとなく」
子供の頃に聞いたことがある、ような。六歳のときにインド行きを断って以来、父はぼくにインドの話をしなくなったため、遠い曖昧な記憶しか残っていないが。
「モーハンが、あ、モーハンっていうんだけどね」
「うん」
「モーハンが……」
そのまま黙りこくる。
父は年に二、三度しかこの“フリーズ”をしないけれど、ぼくはまあまあの頻度でする。
学校のみんなはフリーズが嫌いなようで、ぼくがフリーズをすると、からかったり、困惑したりしたのち、会話の途中でもどこかへ行ってしまうことが多い。しかし、ぼくは『フリーズした人を待つこと』がちっとも苦にならなかった。ぼくに正しく説明をしよう、気持ちを伝えようと一生懸命になってくれている人を待つことが、どうして苦になろうか。
あんまりじっと見つめているとプレッシャーになるおそれがある。父から視線を外してコーヒーに口をつける。もちろん、意識は彼に向けたままだ。
コーヒーの残量が五分の一になった頃、父が思い切ったように口を開く。
「……モーハンが、不登校になってしまって」
「うん」
ぼくは簡単な返事だけをした。何かをコメントするにはあまりにも情報が不足している。
父はぼくのフラットな反応に安堵したようだった。言葉を選びながら、ゆっくりと話し始める。
「……最近、モーハンはかなり悩んでいるらしいんだ。ラジェシュともほとんど口を利いてくれなくなったって……。ぼくも行って力添えをするつもりではいるけれど、歳も離れているし、ぼくはラジェシュの親友だから、かえって話しにくいこともたくさんあると思う。その点きみは同い年の同性だから……」
「ちょっと。ちょっと待って」
話がとんでもない方向に転がりかけているのを察知し、慌てて止める。
「ん?」
「荷が重いよ」
顔面蒼白で言った。父が笑う。
「なんで」
「だって、今、ぼくに彼を不登校から復帰させろって話をしてる?」
「してないよ。そんなに難しく考えないで」父がクッキーをサクッとかじる。「ただ、彼の話し相手になってあげてほしいだけ」
「うーん、いや、それも無理だよ」ぼくはテーブルにほとんど空のマグカップをとんと置く。「あのさ。モーハン……だっけ? ぼくと彼は初対面なんだよ。不登校なんてデリケートな問題に、初対面のぼくがずかずか踏み込んでいったら絶対にダメでしょ。何こいつって一発で嫌われて、話し相手どころか、早々に口も利いてもらえなくなって終わりだよ」
「その心配はいらないよ。だって、モーハン自身がきみに相談したいって言ってるんだから」
ぼくはたっぷり五分はフリーズした。
やっとのことで「……なんで?」と質問する。ここが学校だったなら、ぼくの前にはとっくに誰もいなくなっていただろう。
「モーハンは友達がいないらしくてね」父はなぜかほほえましそうな顔でぼくを見ている。「昨日、電話でモーハンに『もしきみが同年代の子に悩みを聞いてほしいと思っているなら、ぼくの息子がきみと同い年だよ』って言ってみたんだ。そしたら『え? ルードヴィグさんの子供? 会ってみたい!』って。即答だったよ」
父の妙に甲高い不器用な声真似に、リアクションを返す余裕は微塵もなかった。
だって——『モーハンは友達がいない』?
『モーハンは、友達が、いない』?
ぼくは友達がいない。
たまたま今いない、という話ではなく、生まれてこのかた十四年間いたことがない。
決していじめられているわけではないのだ。必要があって何かを聞けばみんな普通に答えてくれるし、授業でグループを作って何かをするときなど、特段歓迎はされないが激しく拒絶された記憶もない。いるならいるでどうぞご自由に、ぐらいの扱われ方だ。
だが、休み時間に他愛もない会話をしたり、休日にどこかへ遊びに行ったりするような『友達』は、一人もいたことがない。
幸か不幸か、ぼくは一人で過ごすことが苦にならないタイプだ。
だからといって『絶対に友達が欲しくない』というわけでは全然ない。
もっと幼い頃は『欲しい』『欲しくない』以前の『興味がない』だったが、年々『一度ぐらい作ってみたい』という気持ちが増してきている。なぜなら、『友達』と過ごす人々はなんだかとても楽しそうだからだ。
その感情を持ちながら、なぜ未だ一人の友達も作らずに歳を重ね続けているのか?
友達が作れないからだ。
なぜ作れないのか?
自己分析の末に辿り着いた答えは『ぼくが口下手で面倒くさがり屋でマイペースで意気地なしだから』だ。
十四年間も生きているのだから『あ、この子と友達になりたいかも』と感じたことは何度もある。成就したことはない——どころか、白状すると九十パーセント以上は声すらかけずに終わっている。
だって、ぼくが『いいかも』と感じた子には百パーセントの確率ですでに友達がいるのだ。
いつ、どのタイミングで声をかけるべきなのか。友達同士で盛り上がっているときに声をかけたら、彼からの第一印象が『こいつ邪魔だし空気読めないな』になってしまうのではないか。といって、その子が一人でいるときを狙って声をかけるというのも、彼の友人に対してアンフェアなのではないか。さらに、もしうまくその子と友達になれたとして——必然的に、その子が従来の友達と過ごす時間は減ってしまう。それはその子にとってもその子の友人にとっても、不愉快なことなのではないか。
二、三度、勇気を振り絞ってなんとか声をかけた。結果は撃沈だ。
ぼくは深刻なまでに雑談が下手なのだ。父母は『そんなことないよ』と言ってくれるけれど、実際問題同年代の人間と話が盛り上がった試しがないし、『この子と仲良くなりたい』などと力んでしまうと余計にダメである。
こちらから声をかけたのにも関わらず、緊張で頭が真っ白になって無言で立ち尽くすぼくを見て、彼らは困ったように「あの、ごめん、ちょっと……」とあやふやによそを指し、さも用事があるかのように去っていってしまう。
そしてぼくは思うのだ。
あーあ、ほら、やっぱりね。いいよ別に。別にもういい。ちょっと友達がいたらいいかもなって考えてみただけで、別にそこまで本気で欲しかったわけじゃないし。いいよ、もう。だって結局、一人が一番気楽でいいし。
だけど、なんだって?
父の友人の息子であるモーハンには友達がいなくて、その上ぼくと話したがってくれている、だって?
「行こうかな」
熱に浮かされたように言った。父が妙な口の形のまま一瞬止まる。ぼくが考えごとをしている間、彼は何かをしゃべっていたのかもしれない。
「本当かい」父の瞳が輝く。
「うん。だって別に予定もないし。そろそろヨーロッパの外に出てみたいな、ってちょっと思っていたし」
「ありがとう。本当にありがとう。モーハンもきっと喜ぶよ」
父がぼくの手を両手で握り、ぶんぶんぶんと激しく振った。大げさだな、と苦笑しながらも握り返す。
ぼくはモーハンがどんな人間かを知らない。モーハンもまた、ぼくがどんな人間かを知らない。
顔を合わせた瞬間、はたまた二、三言葉を交わした瞬間に、どちらか、あるいは両方が『うわ、こいつ嫌い』となってしまうかもしれない。だけどもしかしたら、かけがえのない大親友になれるかもしれない。そう、ぼくの父ルードヴィグと、モーハンの父ラジェシュのように。
思い立って自室に走った。
クローゼットを開けて夏服をかき集める。ぼくは服への関心が低い。かき集めたところで、今着用しているものも含めてトップスは四枚、ボトムスは二枚きりだ。どれもパッとしない色とデザインで、洗濯を繰り返したせいでくたびれている。
つまらないクローゼットの中で、唯一鮮やかな色を放つ存在に目が行く。五歳のときに買ってもらったバックパックだ。まだどこも壊れてはいないが、明るいオレンジ色と、丸みを帯びた愛らしいフォルムが幼すぎるような気が急にしてきた。
夏服とバックパックを手にリビングへ取って返す。
「あのさ。初対面であんまり着古した服を着ていたら印象が悪いよね? バックパックも、ほら、インドへ行くにはちょっと容量が足りない気がするし」
父が目をぱちくりさせる。すぐに破顔した。
「何? それは、臨時のおこづかいをくれって話?」