9
六日後。リオはまたも仕事でDen of FREAKSを訪れた。
三度の飯より、という言葉があるが、まさしくリオは三度の飯よりマジックが好きだ。
昨日は、父と母と職人のノエルとリオの四人で、半年後にある公演の打ち合わせを一日中していた。アンダーソン家が主催と主演を行うマジックショーの公演だ。これはリオが十歳になる年に第一回を開催し、以来毎年一度やっている。ノエルはマジシャンに顔の広い職人で、こんなマジックをするためにこういう道具が欲しい、と伝えると、いつだって素晴らしい道具を製作してくれるのだ。
朝から始まって昼過ぎに終わる予定だった打ち合わせは、全員熱がこもって結局夜の十時過ぎまでやってしまった。メイドが用意してくれたサンドイッチやスコーンもほとんど手付かずのままで、紅茶だって何杯も飲まずに冷たくしてしまった。マジックのこととなると、つい寝食を忘れがちになる。
そんなリオだが、Den of FREAKSに来るときばかりは、マジックをしにここへ来ているのか、パールに会いにここへ来ているのか、自分でも分からなくなってしまうのだ。
いつも通り、一直線にパールの部屋へと向かう。レースのカーテンを抜けて扉を閉める。ぼんやりとした顔でベッドに横たわるパールを見て、ほっとする。前々回、薬の関係で悶え苦しむパールと遭遇したときは、本当に肝が冷えたものだ。
「パール」
ベッドのそばに寄り、床にしゃがんでパールと目線の高さを合わせた。合わせたところで、盲の彼と目が合うことはないのだが。
「元気にしていた? 今日はね、外はとてもいい天気だったんだよ」
本当に、曇りの多いイングランドにしては珍しいほどの晴天だった。声でこちらの正体を探り当てたのだろう、パールが「そうなんだ」と相づちを打つ。
リオは、昨日の丸一日に及んだ打ち合わせの話をした。三日前、高級なホテルでテーブルマジックをして、控え室で出された料理が絶品だったことなども話した。パールはうん、うん、と優しく相づちを打ってくれる。
リオはとりとめもない話をしながらパールの美しい顔と華奢な体に見とれていたが、どうしてもその裏側にある薔薇色の秘密の穴が脳裏にちらついてしまって仕方がなかった。こらえきれず「この前ね」と切り出す。
「うん」
「したでしょう」
「うん」
パールが嬉しそうに頷いた。その笑顔を見ると、リオはたまらなくなってしまう。今日は話す日なのだから、と体を揺すって自身の熱を散らす。
「それで、ね」
「うん」
「終わってからも、何回も一人で、思い返していたんだけれどね」
パールは性におおらかだけれど、さすがにこんなことを言えば引かれてしまうのではないか、と少し怖かった。しかしパールが「うん」とこだわりのない相づちを返したため、安堵する。
パールに初めての射精をさせてもらったあの日のことは、強烈な衝撃として記憶している。わけも分からないまま快楽に翻弄されていたせいで、こまかく思い出そうにも細部はとてつもなく曖昧だ。
だけど、繋がったあの日のことは、微に入り細に入って思い出せた。
パールに先導されてこそいたが、リオ自ら彼の肛門を舐めて濡らし、リオ自ら陰茎を持ってパールの中に入り、リオ自ら腰を振ったのだ。刺激的な甘い思い出として、きちんと全部記憶できている。
意識的にしろ、無意識に浮かぶのにしろ、本当にこの六日間で何度も何度も思い返した。そして気付いたことがある。
「あのときね」
「うん」
口に出すとなるとやっぱり恥ずかしくなって、リオはつい黙った。パールに「リオ?」と名前を呼ばれ、「ああ、うん」と慌てて答える。
「あのとき……」
「うん」
「その……、僕さ、僕、もしかしてどこかおかしい? なんだか僕ばっかり、変な声を出していたから……」
パールが目をぱちくりさせる。すぐに優しく細めた。
「おかしくなんてないよ。セックスをするときにそういう声が出るのは、普通のことだから」
「でも、君は出していなかったじゃない」
そう。いくら記憶を辿ってみても、パールはただの一度もリオのようなおかしな声を出していなかったのだ。
「俺のはね、ただのくせだから」
「くせ?」
「うかつに声を出しちゃいけないでしょう。君の前ならいいんだけれど、もうずっと声を出さずにセックスをしてきたから、そういうくせが付いちゃったんだよ」
パールがちょっと唇を尖らせる。拗ねている顔ではなかった。キスを求めているのだ。
リオが唇を近付けると、触れあう寸前にパールが囁いた。
「ちゃんと気持ちよかったよ」
リオはぎゅうっと胸が締め付けられるように苦しくなって、パールに唇を押し付けた。
ちゅ、ちゅ、ちゅ、と何度もキスを繰り返す。不器用に舌を差し入れると、パールが上手に応えてくれる。しばらく二人はキスをしていた。
やっぱり今日も、しちゃおうか。
そんなことを考えながらパールの腰骨あたりに手を這わせたリオは、指先に触れる感触に、もうひとつ、聞きたかったことを思い出した。
質問をするために唇を離す。突如離れた熱に、パールが「ん?」と首をかしげる。
「君の下半身ってさ」
「うん」
「ウロコじゃないんだね」
リオは指先でパールの腰のあたりをなぞった。
彼の下半身は、遠目にはウロコのように見える。しかし触ってみると、上半身の人間の肌となんら変わりない質感なのだ。
前回彼の肛門を舐めているときに、あれっと思った。しかしそのときはとにかくセックスをするのに夢中で、あまり深く考えずに流してしまっていた。
「ああ、これ?」パールが無頓着に答える。「これはね、俺が人魚になって一年が経ったときに、」
「人魚になって?」
不可解な表現にリオは聞き返した。パールが口をつぐむ。すぐに、彼はゆっくりと微笑を作る。
「陸に上がって、一年が経った頃にね。陸に適応したのかなんなのか、分からないけれど、ウロコの部分が人間の肌と同じ質感になったんだ。不思議とウロコの色は残ったままだったんだけれど」
パールはいやにおっとりと説明した。リオは「人魚になって、って?」としつこく聞き返す。
「言い間違えただけ」
リオはじっとパールの表情をうかがう。
言い間違えは誰にでもあることだ。
しかし、人魚になって一年、などという言い間違えはそうそう起こらないのではないか。なぜなら、パールは人魚として生まれ、人魚としてこの十数年間を生きてきたのだから。十二歳のリオが、人間になって一年、などという言い間違えをすることがありえないのと同じだ。
もしかすると、人魚は海で仲間たちと暮らしているあいだ、己が人魚だ、などという自覚は持っていないのかもしれない。人間に捕らえられ「人魚」と呼ばれて初めて、己を人魚だと認識するものなのかもしれない。それならばパールの言い間違えも、そこまでおかしなことではないのでは?
頭の片隅でそんなことを考えながらも、リオはある奇妙な考えに脳を蝕まれて落ち着かなかった。今まで深く考えてこなかったさまざまなことたちが、パールの『言い間違え』をきっかけに、突如膨大な違和感として襲いかかってきたのだ。
パールの全身は、人間の肌と同じ質感だ。
ヒレやエラなども見当たらない。
薬を飲んでいるから必要ない、と聞いてはいるが、人魚のパールの部屋にバスタブや水槽の類は設置されていない。
彼がここで働き始めて——、陸に上がって、二年。
そのことを考えると、パールの言語はあまりに堪能すぎやしないか?
聞き取りができるのは分かる。あるいは元来『人魚語』などというものは存在せず、人魚は近郊の地域の言語を用いるものなのかもしれない。
しかし、声が音となって発生しない海と陸とでは、ふつう言葉の伝え方が異なるものでは?
パールは滅多と人前で口を利けないのだから、陸でしゃべる練習をする機会はないに等しい。にも関わらず、彼は陸上での発声方法を完璧に習得している。
「君は、」
ぽつりと言ったパールに、リオははっと我に返った。
もはや頭中を支配しているそのおかしな考えを振り払えないまま、ただ「うん」とだけ答える。
パールは見えない青い瞳でじっとリオを見つめる。探るような表情だ。
リオは黙って彼の言葉の続きを待つ。やがて、意を決したようにパールが口を開く。
「君は……、口が、固いよね」
「うん」
実をいうと、決して口が軽くはないけれど、抜群に口が固いというわけでもなかった。しかし、パールのお願いとなれば話は別だ。彼が黙っていてくれと言うのなら、全力でそうしよう、という気持ちになれる。
「俺はね、」
「うん」
「俺は、」
「うん」
「……誰にも言わない?」
「言わないよ。約束する」
リオはパールの髪を指ですいた。油を含ませた髪は、ねっとりとリオの指に絡みつく。
「俺は、……」
パールが目を閉じる。長い睫毛が目の下に影を作る。
「……人間なんだ……」
それは、声というより吐息に近かった。
しかし、その言葉はしっかりとリオの耳に届き、じいんと脳を震わせた。
「うん」
リオはそう言ったきり、どんな言葉をかければいいのか分からず、黙り込んでしまった。パールは体を固くしてリオの反応を待っている。やがて「……リオ?」と不安そうに名前を呼んだ。リオは慌てて返事をする。
「ごめん。いるよ。ここにいる」
「誰にも言わないでね」
「言わないよ」
リオは再び、パールの髪をいじり出す。耳を触り、輪郭をなぞり、首筋を撫でる。
「君は、」
頭の整理が全くできていない。しかし、何かを言わなくてはいけない。続きを考えないまま口を開く。せっかく、パールが勇気を振り絞って秘密を打ち明けてくれたのだ。リオがいつまでも黙っていると、彼は「やっぱり打ち明けなければよかった」と後悔をし始めてしまうかもしれない。それはとても悲しいことだ。
「うん」
「……これは、ウロコじゃないんだね?」
ひとまず話を戻した。うん、とパールがちょっと表情を緩める。
「なんだったっけ。君が人魚になって——」
自ら口に出してみて、その奇妙な言葉の並びにまた脳がこんがらがりそうになる。パールが言葉の続きを引き取る。
「俺が人魚になって、一年が経った頃にね。このタトゥーを入れてもらったんだ。それまではペイントだったんだけれど、一年のお祝いだってマイクが彫り師を連れてきてね」
「タトゥーなの?」
リオは驚いてそっとパールの下半身を撫でた。上半身とほとんど質感は変わらないけれど、よく気をつけて触ってみると、ところどころ少し盛り上がっているようにも感じられる。
リオはタトゥーを入れたことがなかった。
リオの父親は胸にワシのタトゥーを入れており、両親ともに、腕にお互いの名前とリオの名前を入れていた。特に父親のワシのタトゥーは格好よくて、「僕も入れたいな」と言ってみたこともある。
父親は笑って首を横に振った。「痛いぞ」と。「すごく痛いし、一度彫ると消せないからね。もう少し大人になってから彫るほうがいいよ」と。
「痛くなかった?」
パールのウロコのようなタトゥーは下半身をびっしりと覆っている。父のワシのタトゥーは横二十センチ、縦十五センチほどの立派なものだけれど、両親の腕のタトゥーはさほど大きくない。「これぐらいでも痛いの?」と聞いたリオに、母親は「痛いわよ」と首をすくめてみせた。下半身全てを覆うタトゥーなど、一体どれほどの苦痛を伴うものなのだろう。
「痛かったけど」
「よく我慢したね」リオは感心する。「君は我慢強いんだ。僕なら、途中でやめてって言っちゃいそう」
褒めたというのに、パールは「すごいでしょう」と己の我慢強さを誇示することはしなかった。彼はなんだか寂しそうな曖昧な微笑を浮かべすらした。リオは困惑する。
「君は、」
話を変えよう、と思った。思ったものの、いい話題など思い浮かばない。しかしパールが「うん」と相づちを打ったものだから、無理やりにでも何かをしゃべらなくてはいけない。
「……君は、買われたの?」
困ったことに、とっさに浮かんだ質問がそれだけだった。急いで「答えたくなかったらいいけれど」と付け加える。幸いにも、パールは気分を害した様子もなく首を横に振った。
「違うよ。拾われただけ」
「さらわれたの?」
「拾われた」パールが微笑む。「来る? って聞かれて。ついていっただけ」
「どうしてついていったの?」
「どうしてかな……」パールが天井の方向に顔を向ける。「なんとなく」
「君はマイクにスカウトされたんだ。災難だったね」リオは悲痛な表情を浮かべる。「そんな体で生まれたばっかりに」
リオはさっとパールの全身に視線を走らせた。両腕のない、両足の繋がった姿。
マイクはいつからこの見世物小屋をやっているのだろう。立派な建物で、従業員も、見世物となる生き物もたくさんいる。儲かっていて、きっと割合長くやっているのに違いない。
建物や従業員を用意するのは、金さえあればそう困難なことではないだろう。
もっとも大変なのは、間違いなく『見世物を用意すること』だ。
奇妙な生き物を発見・捕獲するのにしろ、動物と人間を上手く交配させて奇妙な生き物を作るのにしろ、パールのように奇妙な体の人間を見つけてさらうか買うかするのにしろ、一筋縄ではいかないはずだ。よくもマイクはここまでたくさんの見世物を揃えたものだ、と改めて目を見張る。
そんなことを考えていたリオは、パールが口を閉ざしていることにしばらく気が付かなかった。はたと見ると、パールは柔らかく唇を結んで、何かを思案するような表情をしていた。
「どうかしたの」
きょとんとリオが問うたのと同時に、パールが口を開いた。
「昔の話をしてもいい?」
「いいよ」リオは少し面食らいながらも頷く。「もちろん」
「君がショックを受けなければいいんだけれど……」
パールが寝返りを打ち、体ごとリオの方を向いた。彼の見えない瞳が大雑把にリオを捉える。
「ショックって?」
「聞いてくれる?」
「聞くよ」リオはいまいち要領を得ないながらも居住まいを正す。「なんでも聞く」
「嫌だと思ったら途中でも言ってね。すぐにやめるから」
「嫌なもんか。僕は君のことならなんでも知りたいから」
大真面目に言ったというのに、パールはおかしそうに鼻から息を漏らした。「何?」とリオはむっとする。パールが「ごめん」と笑いながら謝る。
「俺は、君からそんな言葉をもらえるほどたいした人間じゃないから」
「そんなことないよ。君は特別だ」
パールがまた鼻から息を漏らした。笑わないでよ、と抗議しかけたリオだったが、語り始めたパールに口をつぐむ。
「俺は、普通の家庭に生まれた」
パールの声のトーンは、子供に本の読み聞かせをする母親のようだった。リオは「うん」と相づちを打つ。
これから何が語られるのか。
奇妙な体で誕生してしまい、絶えず差別を受けてきたパールの半生だ。
何を聞いても動じないぞ。僕はパールの全てを受け入れてあげるんだ。
そう決心をしたリオだったが、続くパールの言葉に早くも動揺の声を上げてしまった。
「五体満足でね」
「え?」
リオはつい、見開いた目でまじまじとパールの体に見入ってしまった。頭のてっぺんから足の先までを三往復ほどしたのち、我に返って「ごめん」と謝る。
「どうして謝るの?」
「続けて」
リオが促すと、パールは頷いた。彼は微笑を浮かべている。
「俺は——、十一歳まで家にいたんだね。でも、ある日家を出なくちゃいけなくなった」
「どうして?」
「色々あって」
パールは優しい表情のままだが、その言葉はいやにそっけなかった。リオはそれ以上追求することができず、「うん」と大人しく引き下がる。
「それで、しばらく路上で暮らしていたんだ」
「そのときに事故に遭ったの?」
パールの肩を指でなぞる。両肩から下が綺麗に消失している。
気を付けて見ると、断端に古い傷口があった。
傷口はぐちゃぐちゃではなく、整っている。路上暮らしならば大怪我をしても医者にはかかれないような気がするのだが、この傷口はきちんと医者に処置をされたもののように見える。
一体どんな事故に遭えば、これほど綺麗に両腕ともがなくなってしまうものなのだろう。
いや、腕はまだ分からなくもない。
もっとも不可解なのは、彼の下半身だ。五体満足の人間に一体何が起これば、このように両足がくっついてしまうのだろう。大火傷を負って、溶けてくっついた? そんなことが起こりうるものなのだろうか。
「違うよ。事故になんか遭ったことない」
パールは愉快そうに首を横に振る。
「路上で暮らしていたのは、一年足らずぐらいかな。まあまあ楽しかったよ。それである日、マイクに声をかけられた」
「うん」
「それでこの見世物小屋に来て、来たときはまだ五体満足だったんだけれどね」
「うん」
「言うよ」
「うん」
リオはまたも、嫌な予感に脳を蝕まれ始めていた。その予感を振り払うのに必死で、ただ機械的な相づちを打つことしかできない。
「やめようか」
パールが笑った。リオは「いや」と組んだ腕をベッドに乗せる。腕の関節を掴む己の手に、肘から先が鬱血してしまいそうなほどに力がこもっている。
「聞かせて」
「言うよ」
「うん」
「俺はね、舞台に上がるために、手術をされて今の体になったんだよ」
リオは呼吸を止めた。
組んだ腕の上に頭を垂れ、努めてゆっくりと息を吐き出す。びっしょりと冷たい汗が噴き出してくる。ゆっくり、ゆっくり、懸命に深呼吸を繰り返す。そうしていないと意識を失ってしまいそうだ。
「大丈夫?」
「うん……」
大丈夫じゃない。大丈夫なんかじゃ、ない。ベッドの上に今日のディナーを全てぶちまけてしまいそうだ。
「言わないほうがよかったかな」
パールがごく軽い調子で言った。リオは「説明は、」と聞く。
「うん?」
「説明は、あったの?」
「なんの?」
「手術の……」
息も絶え絶えに聞いた。
いくら仔細な説明が事前にあったところで、やっていいことではない。
だけど、例えば、その残酷極まりない手術を受ける代わりに、莫大な報酬を貰えるだとか——、その条件にパールが納得した上での施術ならば、ほんの僅か、話にならないほど微々たる程度ではあるが、リオの気は楽になる。
しかし、パールは「大丈夫?」とまたリオを気遣ってから、「ないよ」とあっさり否定した。
リオは注意しないと浅い呼吸すらできないほど、胸が苦しくなる。
「犯罪だ」
「そうだろうね」
「訴えよう。君にはその権利があるよ」
「落ち着いて」パールは微笑している。「昔の話だ」
「たかだか二年前でしょう?」
つい声が高くなった。イーサンに聞かれてはまずい、と慌ててひそめる。
「君だってマイクが憎いはずだ」
「この体になった当初はね、そりゃあ、ショックも受けたよ。ひどいことをするもんだってね。でも、もう、済んだ話だし」
パールが上瞼に力を込める。視線をよそに投げようとしたのだろう。重たい彼の義眼は動かない。
生まれたときは、五体満足だったという。五体満足だということは、なんの障害もないということだ。つまり目も見えていたはずで、彼は舞台に上げられるためだけに、視力をも奪われてしまったというのか。
マイクのおぞましさに、リオはぶるっと身震いした。見えないパールはそのことに気付きもしない。ただ淡々と言う。
「それに、もうすぐ全部終わるから」
「全部って?」
「寿命だよ。前にも話したでしょう?」
もちろん、リオはパールの寿命の話を覚えていた。忘れるわけがない。
人魚が陸に上がる薬を飲み始めると、一年ほどで死んでしまう。パールはその薬を飲み始めてからすでに二年が経過している。もうとうに寿命を過ぎているのだからいつ死んでもおかしくない、という話だ。
だけど。
「だけど、君は人間なんでしょう? だったら寿命は、まだずっと先だよ」
すがるように言ったリオに、パールは非情にも首を横に振った。
「俺は人間だけれどね。薬は飲んでいるんだ。もちろん、陸に上がる薬じゃないけれど。その薬を飲み始めると一年足らずで死ぬというのは、本当らしいよ。この薬を飲み続けてこんなに長生きした子供は初めてだって、マイクが面白がってた」
「早死にする薬って、なんだよ」
薬とは、病気を治すために飲むものではないのか。病気を治して、健康になって、結果的に寿命が延びるのが薬というものではないのか。
もちろん場合によっては、期待した効果を得られず、病気も治らず、さして寿命の延びないまま亡くなってしまうケースもあるだろう。
しかし、ことさらに寿命が縮む薬とは、なんだ?
「君は、ドラッグって知っているかな」
ドラッグ。
聞き覚えがあった。大きなパーティに行く前など、両親が口を酸っぱくして言っていたからだ。
人がたくさん集まる場所には、おかしな人も来るものだ。誰にどんなふうに誘われても、絶対にドラッグに手を出してはいけないよ。ドラッグというのは一時の快楽を得られる代わりに、人生が破滅するおそろしい代物だ。依存性が高いからね。一度だけ、ちょっとだけ、その油断が命取りになって、気付いたときには心も体もボロボロになってしまうんだ。
初めて言われたときこそ神妙に頷いたリオだったが、いつしか「はいはい」と適当に聞き流すようになっていた。何度パーティに参加したところで、ドラッグの誘いを受けることなんて一度もなかったからだ。
改めて考えれば、それはいつでもそばにイーサンがいたおかげだろう。両親が挨拶回りでリオのそばを離れるときだって、イーサンはいつでもリオの近くに控えていた。見るからに堅物で頑固なイーサンが睨みをきかせている中、へらへらとドラッグの誘いを持ちかけるような間抜けは、そう存在するものではない。
「君は、ドラッグをしているの?」
「うん」
「いけないよ」
「うん」
リオの注意に、パールが破顔した。
「依存性が高いらしいから。手遅れになる前にやめなくっちゃ」
パールはへらりとした表情のまま首を横に振る。
「もう手遅れだよ」
「まだ間に合う」
「手遅れだ。もう、とっくにやめられないから」
「どうして始めちゃったんだよ。ドラッグを誘われても絶対に断らなくちゃいけないって、君のご両親は教えてくれなかったの?」
「くれなかったよ」
パールが少し寂しそうな表情をした。リオはなんだか悪いことを言ってしまったような気がして、「ごめん」と謝る。
リオは想像してみる。
見世物小屋に連れてこられ、あの、見世物たちの並ぶ頑丈そうな鉄格子のひとつに閉じ込められる。マイクと屈強な男たちがドラッグを手に、これを飲め、と詰め寄ってくる。ドラッグをすすめられても絶対に断らなければいけない、ということを知っているリオでさえ、頑としてそれを拒み続けることなどできるだろうか。
「ひどい」リオは怒りに声を震わせた。「マイクは本当にひどいやつだ。最低だ」
マイクは最低。これは粉うことなき真実だ。
それなのに、パールは「うーん」と困ったような笑みを浮かべた。リオは既視感を覚えながら狼狽する。
そうだ。パールが薬——ドラッグの効きすぎで具合が悪くなってしまったあの日、リオは『マイクに捕らえられた人魚のパールが、陸に上がる薬を飲まされて一生海に戻れない体にされたこと』に憤った。そのときも、パールはリオに同調しなかったのだ。
「どうして怒らないんだよ」
うーん、ともう一度パールが唸る。彼はしばらく考え込んだのち、おずおずと口を開く。
「俺はね、マイクに感謝しているんだ」
「感謝だって?」
リオの声が裏返った。うん、とパールが頷く。
「感謝だよ」
「どうして」
「俺はね、もう、疲れちゃったから、早く死にたいんだ。ドラッグは高いから、普通の子供は飲めない。寿命の縮まるドラッグを毎日飲ませてもらえるのは、俺にとって願ったり叶ったりのことなんだよ」
「マイクのせいでこんな人生にされて、それで疲れたんでしょう?」
「そうじゃない。もうずっと、本当に小さな頃から、俺は疲れていたんだよ」
リオは呆然とパールを見た。部屋の中で、カッカッと懐中時計が時間を刻む音がいやに大きく聞こえる。
コンコン、と扉がノックされた。イーサンだ。
「リオ坊っちゃま。間もなくお時間ですよ」
リオはハッとして「はい!」と叫んだ。すぐにパールの左肩に右手を添える。
「君はマイクに洗脳されているんだ」
「そうかな」
「ここから逃げ出そう。僕が手助けするから」
パールが大きく目を見開いた。すぐに素早く首を横に振る。
「落ち着いて。その必要はないよ」
「遠慮しなくていい。僕は君の力になりたいんだ」
リオは背後のドアを気にしながら、「細かい計画は今度だ。また来るよ」と立ち上がる。
パールは何かを言いたげに口を開いたが、結局は「またね」といつもの挨拶だけを返した。