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昔昔、4

 ハードトップの自動車の中で、髭をたくわえた男はマイクと名乗った。俺が「マイクさま」と呼ぶと「さまなんていいよ。敬語も使わなくていい」と親しげに笑った。

 俺は途中から目隠しをされ、外されると鉄格子の中にいた。はめられた首輪からは、鉄格子の中を自由に歩き回れる程度の長さの鎖が伸びていた。
 通路を挟んで正面の牢に、妙な生き物がいた。
 おおまかな形は人間なのだが、体のあちらこちらから熊の毛のようなものが生えている。歳は二十には届かないぐらいか。鉄格子越しにしゃべりかけてみたが、それは英語かどうかも怪しい言葉で喚き散らすばかりで会話が成立しなかった。
 彼の隣の牢はよく見えない。自身の隣の牢も、壁に阻まれて何も見えない。ただ、生き物がいる気配と音はたくさんあった。
 数時間が経過すると、鉄格子越しに奇妙な生き物が何体も通路を進むのを見た。
 それらは全て人間のようで、どこかがおかしい。彼らは屈強な男に鎖を引かれてすごすごと歩き、しばらくすると同じようにすごすごと戻ってきた。
 俺は三、四日に一度マイクに抱かれた。マイク以外の男たちにも代わる代わる抱かれた。
 何度か、身長が十二歳の俺よりも低いのに大人の顔が付いているという奇妙な人間にも抱かれた。腹に頭の大きさほどの腫瘍が付いた女が、けらけらと笑って見物をすることもあった。
 マイク以外の男に抱かれるときは鉄格子の中で、マイクに抱かれるときは鎖を引かれ、彼の部屋の隠し扉から通じる寝室へと移動した(その際、通路の両脇に長く続く鉄格子の牢に、一部屋一体ずつ奇妙な生き物が閉じ込められていることを知った)。男の中には粗暴なものも多かったが、マイクの抱き方はいつも温厚だった。
 ときに、マイクは鉄格子の中で俺の肛門に直径四センチほどの球を入れる遊びをした。七つも八つも入れて、大勢の見ている前でいきませるのだ。俺が恥じらいもせずに立て続けに球をひり出すと、マイクは機嫌をよくした。
「お前は見られながらの排泄もちっとも嫌がらないと聞いたよ。羞恥心がないのかね? うちで働くにはうってつけだが」
「別に」俺はしれっと答えた。「これ、なんの意味があるの?」
「産卵ショーだよ。もう少ししたら舞台に上がって、観客の前でこれをやってもらう。その練習だ」
「舞台?」
「みんな行っているだろう」
 俺は、毎日決まった時間になるとひっきりなしに廊下を引かれる奇妙な生き物たちを思い起こした。
 なるほど、彼らがどこへ行ってどこから帰ってくるのか、マイクの部屋へ行くにしては一挙すぎる、と不思議だったのだが、舞台で芸をさせられていたのだ。あの妙な生き物に混じって俺も芸をしろ、という話だ。
「これをすればいいだけなら、今日からだって上がれるよ」
 俺が生意気を言うと、マイクは「まだまだ。色々準備があるからね」ともう一度俺の肛門に球を入れ始めた。

 俺はここに連れてこられてから、毎日一度紙を丸めた筒で何かの粉を吸わされていた。
 初めてのとき、マイクは「気持ちが楽になる薬」だと説明した。俺は辛いことなど何もなかったけれど、逆らう理由もないため従順に吸った。吸うと頭がふわふわとして、数時間経つとひどく気怠くなった。
 気怠くなるのに次第に嫌気がさして、ある日薬を吸うのを拒んだ。
 見張りの男に呼ばれて来たマイクは「あとで辛くなるぞ」と口角を上げたが、無理強いはしなかった。果たしてそれは本当だった。
 薬を拒んでから数時間が経つと、何か、今にも死んでしまいたいほど憂鬱な気持ちに襲われた。
 さらに数時間が経過すると、心臓のあたりが不快になった。
 そわそわする、などという表現ではまったく足りない。虫が百匹も這っているかのようで、今すぐこれを取り出さなくては、という衝動に駆られるのだ。
 血が出るほどかきむしっていると、見張りの男が鉄格子の錠を開けて俺を縛り上げた。
「薬をください」
 俺はほろほろと泣きながら言った。男は冷たく突き放した。
「昨日の分は、お前がいらないと言ったんだろう。今日、いつもと同じ時間にやるからそれまで待て」
「何時ですか」
「二十時だ。あと十五時間」
「十五時間」
 俺は絶望的な気持ちで繰り返した。
 どれだけの時間が経ったのか分からない。いつしか俺は喚き出していたようで、猿轡さるぐつわをかまされていた。
「ほら、時間だ」
 男が鉄格子を開けた。彼はトレーを床に置き、俺の猿轡と縄を外す。
 トレーには、いつも通りオーツ麦の粥の入った器と、粉薬の入った小さな器、そして紙片が載っていた。
 俺はいつも、薬を吸うのが億劫で、ひどくのろのろと粥を食べていた。しかし、今日ばかりはいの一番に紙片に手を伸ばした。ぶるぶると指が震えて上手く筒を作れない。
「おお、落ち着け、落ち着け」
 男が愉悦した。
 俺はどうにか筒を作り、粉薬を吸いかけて、勢い込んでむせた。ぱっと空中に粉が舞う。もったいない。もったいない。四つん這いで粉をかき集め、また吸う。なぜだか無性に泣けてくる。
 手に粉がついているようで、舐める。口の中に砂と埃の味が広がる。本能的に吐き出しかけて、いや、これは埃か? 埃かもしれないが、微量の薬も混じっているのでは? くちゃくちゃと咀嚼し、顔をしかめながら無理やり飲み下す。
「いい面構えになったな」
 男は俺の涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃの顔を見て、ぽんぽんと頭を撫でた。

 ある日、マイクが俺を車に乗せてどこかへ連れて行った。
 いつかと同じように、運転は別の男がして、目隠しをされた俺は助手席に座るマイクの足の間にいた。
「先生に見てもらおうか」
 マイクは、もう何度も射精させられてくったりとした俺の陰茎をなおもいじくり回しながら、優しく言った。
 一時間ほど走ると、目的地に到着したらしく、車から降ろされた。目隠しをされたままマイクの腕を掴んでそろそろと歩く。
 視界が開けると、洋館の中にいた。先生という単語から俺は教師をイメージしていたのだが、出迎えてくれたのは白衣の医師だった。
「おや、これはこれは、美しい」
 医師は両手を広げて俺を歓迎した。一同は応接室に場を移した。俺は、ふかふかの座面の沈み込みにふっと父の書斎の椅子を思い出していた。
「今回はどうします」
「いや、人魚にしようかと思ってね」
「ああ、この美しさならそれが似合いでしょう」
「目の色も変えようかな」
「いいんじゃないですか。前の人魚は? あれは半年前でしたか。もう買われたか、死にましたっけ?」
「いや、まだなんとか生きてる。だが近頃の様子を見ていると、長くはないだろうね。死んだらもう一儲けだ。そのときは先生また頼みますよ」
「ええ、ええ、さばきますよ。あれはいくら高くしてもみんなこぞって買いますね。人魚の肉には不老不死の効果がある、という伝説のおかげかな」医師は俺に視線を転じた。「人魚は必ず人気が出ますからね。この子も多くの客を取ることになるでしょう。人魚にするということは、すでに十分教育済みなのでしょうな」
「何、拾ったときから優等生だったのだよ。なかなか具合がいいから、先生も是非あとで」
「いや、はは」
 俺は彼らがなんの話をしているのかよく分からなかった。たいして興味も湧かなかった。
 マイクと運転手が立ったので、俺も立った。しかし、マイクに上から肩を押して座り直させられた。
「お前はここに残るんだよ。一週間後に迎えにくるから」
「でも」俺は惑った。「今日の薬は?」
 心配事はそれだけだった。マイクは笑った。
「薬ならここにもあるよ。我々はいつもここから薬をもらっているんだ。だから、安心して残りなさい」
 俺はほっと胸を撫で下ろした。

 マイクが帰ったあと、医師に抱かれた。彼は俺の腕を愛おしげにさすった。
「ああ、綺麗だ、綺麗だ、捨ててしまうのは惜しいから、今回は私のコレクションに加えようかね」

 翌朝、医師に薄暗い部屋に通された。俺は彼に促されるまま冷たい金属のベッドに裸で横たわった。
 医師は裸に白衣で、勃起していた。昨晩俺を抱いたときよりもずっと反り返り、今にも先端が腹にくっつきそうだった。
 医師は俺の腕に針を刺した。針からチューブが伸びて、上方に吊られた袋に繋がっている。俺が初めて見るそれを不思議に思って眺めていると、医師は「点滴だよ」と微笑んだ。
「さあ、目を閉じて」
 医師が俺の瞼に手をかざした。俺は無抵抗に従う。今から何をされるのか知らないが、結局はただの変態行為だろう。俺は全く緊張していなかった。顔に何かをつけられる。
「ゆっくり息を吸って……、吐いて……、吸」
 って、と続くはずだった言葉は聞こえず、漆黒が訪れた。

 そこからしばらく、世界は断続的だった。
 目覚めては、息苦しさに悶えて、眠る。目覚めては、痛みに叫んで、眠る。
 体が無性に熱く、世界はずっと暗かった。

 長い長い、地獄のような時間が過ぎた。
「少しは落ち着いたかね」
 不意に声が聞こえた。俺は熱に浮かされた頭でそちらを見ようとしたが、暗くて何も見えなかった。
 電気をつけて、と頼もうとしたが、声が出ない。
 俺が口をぱくぱくさせていると、体を起こされ、何か生ぬるい液体を口に流し込まれた。俺はその大半をこぼし、少しだけ飲んだ。
 液体を注ぐ音。もう一度口に容器を当てられる。
 俺は今度こそまともにそれを飲んだ。なんの味もなかったが、生き返る思いがした。
「しゃべってごらん」
「…………あ」
 なんとかかすれた声が出た。
「しゃべれるかい。記憶は? 名前を言ってごらん」
 名前?
 父に呼ばれた名前も、アレックスや男たちに呼ばれた名前も、もうずいぶんと遠い記憶だった。あまりに曖昧で、自分とは無関係のもののようにも思われた。
 黙っていると、男は言った。
「こんにちは、と言ってごらん。こんにちは」
「でんきを、」俺は声を絞り出す。「つけてください」
「部屋は明るいよ。陽が差し込んでいる。爽やかな朝だ」
「では、目隠しを」
 外してください、と続ける気力が湧かなかった。なんだかひどく疲れていた。
「目隠しも何もしていないよ」
 男は笑った。ではなぜ暗いのだ、と問いただす元気はとてもなかった。俺はまた眠りに落ちた。

 俺は僅かな時間目覚めては、男と短い会話を繰り返した。
 男はどうやらあの医師だった。
 俺の世界は、いつ目覚めても暗かった。なぜかと医師に問うと、「さあなぜだろうね」と愉快そうに返された。
 俺はあちらこちらが痒かったり痛かったりしたけれど、かきむしることはおろか、さすることすらできなかった。両腕を動かそうとしても、なぜだかちっとも反応しないのだ。腕の拘束を解いてくれと頼むと、医師は「拘束なんかしていないよ」と歌うように言った。
 俺は立ち上がることができなかった。左右の足がぴったりとくっついているかのようで、妙に不自由だった。足をばたつかせようとすると激痛が走った。「まだ傷が塞がり切っていないんだから、無理をしないで」と医師は優しくさとした。

「これはまた、素晴らしいじゃないか」
 いくらか長く意識を保てるようになったあるとき、医師ではない声がした。医師が答える。
「なかなか、我ながらいい出来です」
「日ごとに技術が上がるな君は」
「マイクさまがたくさん人間を回してくださるからで。やはり何事も、実践を重ねることが肝要ですからね」
 マイク。マイクなのか。
「助けて」
 俺は叫んだ。足音が寄って、太い指で頬を撫でられた。医師の手とは質感が違っていた。きっとマイクの指だ。彼の指にすがりつきたいが、俺の両腕はいくら動かそうとしてもちっとも反応を返さないままだった。
「どうしよう。目が見えない」
「当たり前じゃないか。お前の両眼はくり抜いたんだよ」
 くり抜いた?
「もう入れてもいいものかね」
「まあ大丈夫でしょう」
 ぐっとマイクの太い指で瞼をこじ開けられ、何かが眼窩がんかに押し入ってきた。眼球が潰れる、と思った。しかしそんな衝撃は訪れなかった。やがて何かは眼窩に収まり、俺は今の今まで自分の眼窩が空っぽだったことに初めて気が付いた。
「おお、似合うぞ」
 マイクは子供の服を着せ替えたときのように朗らかに言った。医師も「いい色ですね。髪に映えて綺麗だ」と賛同する。
「こいつの名は、パールにしようかと思うんだが」
「ああ、いいんじゃないですか。雰囲気にも合う」
「ねえ、俺はもうずっと目が見えないの」
 俺は心細くなって聞いた。マイクが「ああそうだよ」とこともなげに言った。
「目だけじゃない。もう先生から聞いたか? お前の腕は生えないし、足も離れない」
「どういうこと?」
「先生にお前の腕を切り落として、両の足を縫い付けてもらったんだよ。ついでにお前のチンコも切り落としてもらった。お前は知らないだろうがね、手術の晩俺はこの家に来たよ。先生とディナーをした。子供のチンコはぷりぷりと弾力があって瑞々しく、何度食べても飽きるということがないね」
「なんのために」俺は声を震わせた。
「ディナーは日々の疲れを癒すため。手術はお前がうちで人魚として働くためだ」
 何か硬質な音がした。
「声を上げるなよ」
「何が?」
「声を上げるな。俺は鬼ではないからね。耐えれば、素質があるとして勘弁してやる。人魚のお前は、呪いのせいで陸では口が利けない。分かるな?」
 なんの話、と問う間は与えられなかった。足の裏に激痛が走る。痛い。熱い。痛い。
「やるじゃないか」
 マイクの声には驚きと誇らしさが入り混じっていた。きっと彼は、子供が学校で一番を取ったときのような表情を浮かべているのだろう。
「約束は守る。勘弁してやる。だが、お前はしゃべれないんだからな。そういう生き物として生きていくんだ。内部の者としゃべるのはどうでも構わないが、舞台の上ではもちろん、それ以外の場所でも外部の者と一言でも口を利いたら……」
 また足の裏に激痛が走った。何か、熱した硬いものを押しつけられたかのような痛みだ。俺は歯を食いしばって耐える。耐えることで一体何を勘弁されるのかも分からないまま、ただ耐える。これ以上の苦痛がそうあるとも思えないが、この男ならやりかねない。
「ああ、いい子だな。その調子で、これからも自制心を持って人魚のブランドを守っていきなさい。お前はうちの看板になるのだよ。何、そう悲痛な顔をするな。たかだか三ヶ月か、長くとも一年程度の話だから」
 マイクが俺の髪に指を絡めた。その手は優しく、あたたかかった。