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 リオ・アンダーソンの手には魔術が宿っている。
 それは、物心ついた頃から耳に馴染んだ称賛だった。

 ガタガタと揺れる馬車の中、リオは窓にかかった模様の織り込まれたカーテンをそっと指でずらす。夜の八時ともなると、パブ以外は店じまいをしている。いつもなら家で寝る支度をしている時間帯だ。
 向かいの座席、対角線上には、従者のイーサンがきちんと膝を揃えて座っている。
 イーサンはリオの付き人であり、目付役であり、ボディガードだ。リオが三歳の頃からの付き合いで、リオの両親も、リオ自身も、彼には全幅の信頼を寄せている。イーサンの隣には、使い込んだ革のボストンバッグが置かれている。中身はリオのマジック道具だ。
 十二歳のリオは、プロのマジシャンだ。
 リオの両親も名の知れたマジシャンであり、彼らが一人息子のリオにマジックを仕込んだことになんら不思議はない。
 そんな家庭はこの世にいくつかあるようで、ときどき子供のマジシャンに遭遇する。だが、子供にマジックの才が遺伝しなかった、子供がマジックに興味を待たなかった、などの理由で一人、また一人と消えていく。
 幸運なことに、どうやらリオにはマジックの才があり、またリオ自身マジックを好いていた。
 特に、簡単な道具を用いたシンプルな、裏を返せば客の目をあざむくためには多大なテクニックを要するマジックが好きだ。それらを極めるうち、九歳で『指先の魔術師』という光栄な異名が付いた。肩書きが付けば人気はより高まるものだ。その頃から、両親と一緒ではなく、リオ一人での出演の依頼もぐっと増えた。
 ハーフパンツのポケットからトランプのケースを取り出し、指先でカードをもてあそぶ。意識してのことではない。いつだって、リオのポケットにはトランプと簡単なハンカチマジックの道具が入っている。次はこうするぞ、などと考えながらマジックをしていてはいけない。なんでもないことのように、呼吸をするよりも自然に、あたかも自然の摂理としてそうなるかのように、道具とやり方はいくら体に馴染ませてもよいものだ。
 馬車が停まった。
 馭者が扉を開け、目的地に着いたことを知らせた。リオとイーサンは馬車から降りる。
 メインストリートから外れた場所だった。月明かりに照らされる闇の中に、巨大な建物のシルエットが黒く浮かんでいる。入り口には明かりが灯っているのだろうが、裏手に当たるこちらにはランプの一つもない。
「迎えのものはいないようだね」
 リオはきょろきょろとしながら建物に寄る。
「そのようですね」
 イーサンはリオの斜め半歩後ろをついてくる。リオの邪魔にならず、後方からの襲撃に備え、なおかつ前方から攻撃をされればすぐに足を踏み出して盾になれる位置だ。
 この十二年間の人生で、暴漢に襲われたことなど一度もない。イーサンはただの保険だ。
 次第に目が闇に慣れてくる。と、三メートルほど前方から「お、お、お待ちしておりました」と地響きのような声が聞こえた。さっとイーサンがリオの前に出る。
「リ、リ、リオさまですね?」
「誰だ」
 イーサンが低く問うた。
「も、も、門番のデゴスでございます」
「こんな暗闇から、なんだ。やましいところがないなら、明かりを点けたらどうかね」
 イーサンが叱責すると、「も、も、申し訳ございません」と何かをガチャガチャやる音が響いた。間もなく小さな火が灯り、ランタンへと移される。照らし出されたその男を見て、リオは目を丸くした。
 身の丈二メートル三十センチほど。肩幅が優に七十センチはありそうな巨体は、全身すさまじい筋肉で覆われている。そんななりで「ああ、ま、まただ……。ま、ま、またマイクさまに叱られる……」とうつむきがちに身を震わせているものだから、リオは笑ってしまった。マイクとはこの建物のボスの名だ。
「安心して。マイクさんには内緒にしておくよ」
 リオが片目をつむると、巨漢デゴスは「ああ、ま、誠でございますか! お、お、お優しいお方だ……」と感激の声を上げた。
 ランタンが灯されたことで判明したのだが、デゴスの背後に扉はなかった。ただぽっかりと暗い穴が開いている。周辺の壁にも扉は見当たらないため、どうやらこの穴が唯一の裏口らしい。
 先頭のデゴス、リオ、後尾のイーサンという形でしばらく通路を進んだ。やや下に傾斜した通路は無意味に何度も折れ曲がり、ランタンなしに手探りで進めば「行き止まりか」と引き返してしまいそうな造りだ。通路の壁にランプの設置はひとつもない。
 ほどなく重厚な扉に行き当たった。デゴスが扉を叩き「リ、リ、リオさまのご到着です!」と声を張り上げた。中からかんぬきを外す音がする。扉が開くと、その先の通路にはぽつりぽつりと等間隔でランプが灯っていた。
 扉の両脇には、屈強な男が一人ずつ立っていた。二人はリオに一礼し、一人が「ここからは私めがご案内をさせていただきます」と一歩前に出た。デゴスが「し、し、失礼いたします!」と敬礼をして裏口へと戻っていく。
「面白いね」
 リオはデゴスの去った方向を顎でしゃくった。案内を申し出た男が肩をすくめる。
「ありがたいお言葉。腕っ節は確かなのですがね、どうも照れ屋で困ります」
「照れ屋なの?」
「おかしいでしょう。あんななりで。かつてはステージに立たせることもあったのですがね」男が自身の目を指す。「あれは夜目が利くのです。月のない夜でも、昼間のごとく動けるのです。地味な芸で、本人も人前に立つのを恥ずかしがるもので……、あれは門番が天職なのでしょう」
 案内の男を先頭に通路を進む。一本道の通路は初めの二十メートルほどはなんの変哲もなかったが、なだらかな坂を下りて右に曲がると、両脇に檻が現れた。
 ワオ、とリオは口の中だけで呟く。
 ひとつの檻に一体ずつ、奇怪な生き物が閉じ込められている。

 Den of FREAKS——見世物小屋。
 それが今日のリオの仕事場だ。

 リオの両親は、この仕事を受けることを渋っていた。聞けば、相手方が辞退するのを期待して、相場の出演料の五倍は吹っかけたらしい。しかし相手方はその条件を飲んだ。それでもなお、彼らはリオに言った。「お前が嫌なら断るよ」と。
「別に、嫌じゃないけれど……」リオは困惑した。「何かまずいところなの?」
「場所がまずい」父親が苦々しい顔をする。「見世物小屋を知っているか?」
「知らない」
 聞いたこともなかった。父親は「どう言えばいいかな……」とテーブルの上で両手の指を組み合わせる。
「醜悪なサーカス、とでもいうのか」
「サーカス?」
 リオは目を輝かせた。サーカスは楽しいし、華々しくて大好きだ。父親はしかめ面の前で、打ち消すように片手を振る。
「よく聞きなさい。醜悪な、だ。サーカスほど素敵なものではないのだよ。子供向けではないから、袖から舞台を見るのはもちろん禁止だ」
 リオががっくりと肩を落とすと、父は「お前が見ても面白いものではないよ」と微笑んだ。
「Den of FREAKSはこの出演料を払えるぐらいだから、普通の見世物小屋より見てくれだけはずいぶん立派だがね。中身は普通の見世物小屋と同じで、ひどい」ここで声をひそめる。「人間のなり損ないに芸をさせるんだ」
「なり損ない?」
「噂では、人間と動物を交尾させて作った生き物だとか……」
「あなた!」
 母が父をたしなめた。子供におかしなことを吹き込まないで、というように両目を釣り上げている。父が「ああ、失礼」と謝罪する。
「とにかく、ろくなところではないのだよ。お前を出演させるにあたり、相場の何倍もの出演料を請求されたことは前口上ででも明言しろと言ってあるから、私たち一家のブランドがひどく落ちることもないだろうが……」
「じゃあ、いいよ。出るよ」
 リオはいまいち両親が何を問題にしているのかを理解できなかった。父は「出番は全部で九回だが、途中で嫌になったらすぐに言ってくれ。ただちに以降の出演は取りやめよう」と付け加えた。

 なり損ない、なり損ないね。
 リオは両脇の檻を愉悦して眺める。その生き物たちのベースは人間のようだが、まともな形のものはひとつもない。
 頭部が二つあるもの。関節がおかしな付き方をしている四つん這いのもの。枯れ枝のように干からびたもの。瞼のないもの。尾っぽが付いているもの。全身毛むくじゃらのもの。肌の色が緑色のもの。手首と足首の先に獣の手足が付いているもの。甲羅が付いているもの。髪や睫毛を含めた体毛がひとつもないもの。
 母は怒っていたが、こうして見世物を目の当たりにすると、父の『人間と動物を交尾させて作った』という説は信憑性があるように感じられた。
 ふと、幼い頃に絵本で見た妖精たちを連想する。成長にともない、あれはフィクションの中だけの存在だと認識を改めていたのだが、実在したのだ。それも、こんなにたくさん。
「あまり見てはいけませんよ」
 これはあいの子だろうか、これは妖精だろうかと熱心に眺めるリオの顔の前に、イーサンが平手をかざした。じろじろ見ては相手に失礼だ、という調子ではない。こんな奇怪な生き物を見ては教育に悪い、という調子だ。
「どうして? 子供の頃に絵本であんなものを見たよ」
「絵本の妖精とは違うのですよ」
「どう違うの?」
 イーサンはため息をついて、首を横に振ると黙った。リオは再び檻から檻へと視線を移す。
 生き物たちは、まれに威嚇をしてくる凶暴なものもいたが、ほとんどはじっとりとおとなしかった。しつけをされているのだろう。皆に鎖付きの首輪か足かせが付いているが、大半には必要ないのではないかと思われた。
 やがて、長い長い檻の通路が終わった。ここに到着するまでに、一本道の通路は何度か折れ曲がっていた。
 その五メートルほど先に、通路を挟んで三つずつ、合計六つの部屋が並んでいた。いずれも扉はなく、上部二分の一に布がかかっている。布の色はさまざまだ。身を屈めて中を覗くと、狭い部屋に簡素なベッドとクローゼットと机と椅子があった。その中のなり損ない、腹部に頭の大きさほどの腫瘍じみたものがくっついている女が「ハイ」と笑顔でリオに手を振った。
「しゃべった!」
 リオは驚いてイーサンに報告した。檻の中には、唸るものはいても人語をしゃべるものは一体もいなかったのだ。前を歩く案内役の男が振り返って笑った。
「この部屋を使っているのは、今は全部で四体ですが、どれもしゃべれますよ。知能が高いのです」
「そうなんだ」
 そういうのもいるのか、とリオは感心した。
 よく見ると、それらの四体には首輪も足かせも付いていなかった。机に積み上げた本を熱心に読んでいるものすらいた。部屋の中には小物があり、各人の個性というものがある。それらの知能はほとんど人間に近く、檻の中のものたちは動物に近いのだろう。
 扉のない六つの部屋を過ぎると、両脇の見張りの男、鉄格子の扉、再び両脇の見張りの男と数メートルの通路を挟んで、またも六つの部屋が並んでいた。こちらも通路を挟んで三つずつだ。今度はそのどれもに扉が付いている。
「リオさまの控え室はこちらでございます」
 案内役の男が一室を示した。鉄格子から一番遠い部屋だ。
「マイクがのちほどご挨拶をしたいそうですが……」
「ああ、いつでもいいよ」
 返事をしてすぐ、リオは別の一室にはたと目を留めた。男に指定された控え室の向かいの部屋だ。
 扉のある六つの部屋のうち、その一部屋だけ扉が開け放されていた。入り口には、上から下まで繊細なレースのカーテンがかかっている。カーテンは何重かになっており、ぼうっと青く発光した室内の様子はよく見えない。
「この部屋は何?」
 訊ねると、見張りの男が「ああ」と乾いた声を出した。
「ご覧になりますか?」
「いいの?」
「もちろんです。扉が開いているときは、客人のおられないときですので」
 客人のいない、すなわち今は無人ということか。
 おおかた女性のゲストが来たときに使う控え室なのだろう。インテリアに関心のないリオは急速にその部屋への興味を失ったが、自分から言い出した手前「やっぱりいいや」と断るのも失礼なようで、形だけでも覗いておこうとレースのカーテンに歩み寄る。
 青い光は、ランプシェードに青い色付きのガラスを使っているのだろう。わざわざ演出のためだけに無人の部屋にランプを灯しているのか、とくだらなく思いながらも、たゆんだ左右のカーテンが重なり合う中央に指を差し込む。無頓着に開いて、息を呑んだ。
 ——お姫さまがいる。
 そんな馬鹿みたいな言葉が口をつきかけ、すんでのところで飲み込んだ。
 室内には、ダブルサイズのベッドが設置されている。その中央に横たわる一人の少女。
 しっとりとゆるくウェーブした長い黒髪。濃い睫毛に縁取られた青い瞳。陽を知らない病的に白い肌。飢餓体型といっても差し支えないほど異様にほっそりとした体。腰からつま先までを覆うマリンブルーのマーメイドスカート。
 マーメイドスカート?
 違和感を覚え、少女の頭のてっぺんからつま先へと滑らせた視線を、再び上半身へと戻す。
 彼女の上半身は、裸だ。
 リオはカッと顔に血を上らせ、「失礼!」と飛び退くように部屋を離れて背を向けた。「どうされました?」とイーサンが目をまたたく。
「いや……、何も」
「リオさま、よろしければ中へどうぞ」案内役が懐中時計を見る。「まだお時間には余裕がございますので」
「中に? だって……」
 裸の女性がいる。
 口には出さず、イーサンをうかがう。何も知らないイーサンは、ただまたたきを繰り返す。
 リオは、部屋の中の魅力的な少女と会話をしてみたかった。
 案内役はそうしても構わないと言う。だが、まともに会話をするために、まずは彼女にブラウスか何かを着させてやってほしい。しかしそれを口にすれば、イーサンにリオが裸の少女を見て取り乱したことを知られてしまう。イーサンはリオの両親にそのことを報告するかもしれない。それが嫌だ。
 イーサンは一人ぽかんとしていたが、案内役はリオの動揺の理由をさとったようだ。どこか呆れたように言う。
「ご心配なく。あれに性別はありませんよ」
「え?」
 リオは耳を疑った。
 性別がない?
 ゲストの控え室にいるということは、あの少女はゲストの人間だということではないのか。なり損ないはどうだか知らないが、人間は男と女に分かれているものだ。性別がないとは?
 呆然とするリオに、案内役が説明する。
「あれは人魚です。非常に大人しい性質なので、特別に檻には入れずにこの部屋に入れているだけなのですよ」
 そうか。そうなのか。
 人魚、という単語はすとんとリオの中に落ちた。部屋の中の少女に衝撃を受けて忘失していたが、初めに案内役が「客人はいない」と言っていたことを思い出す。彼女はゲストでもなく、なり損ないでもなく、人魚。ここで働く美しい人魚。
「美しいね」
 思わず口にすると、案内役は「ありがたいお言葉」と感情のない声で返した。とうに聞き飽きた感想だったに違いない。リオは少し耳を赤らめて、照れ隠しのように大股でレースの部屋に寄った。
「それじゃあ、いいかな? お邪魔しても」
「どうぞ」
「リオ坊っちゃま。あまり低俗なものに関わってはいけませんよ」
「彼女は低俗じゃないよ」
 眉をひそめたイーサンに言い返す。性別はないと言われたが、人魚の容姿は女性に近く、自然と『彼女』という単語が出た。案内役にならって『あれ』と物のように呼ぶのは嫌だった。
「それに、少し話をするだけだ。いろんな人と関わって見聞を広げなさいって、うちの両親もいつも言っているじゃないか」
「それは『人』の話でしょう? あれは人ではありません。あんな、得体の知れない……。襲いかかってくるかもしれません」
「大人しい性質だって言っていたよ」リオは案内役に同意を求める。「よね?」
「おっしゃる通りでございます」案内役が一礼する。
「とにかく大丈夫だから。君は向こうで待っていて」
 リオはイーサンを睨みながら、先ほど指定された己の控え室を指差した。いくら性別がないとはいえ、少女にしか見えない上半身裸の生き物と並んでしゃべるところをイーサンに見られるのはきまりが悪い。
「しかし、リオ坊っちゃまの身に万一のことがございましたら、私はご両親に合わせる顔がありません」
「万一なんてないよ。君は本当に心配性だな」
 リオはなおも反対を続ける姿勢のイーサンを片手を振ってあしらい、開け放された扉のそばの壁をコンコンとノックした。案内役に「あれにノックはいりませんよ」と冷めた声で指摘され、再び耳を赤らめる。ごまかすように足早に部屋に押し入り、わざと大きな音を立てて扉を閉めた。
 閉めたところで、立ち止まる。
 部屋の中の人魚は、リオの侵入に微動だにしない。ただ薄ぼんやりと虚空を見つめている。
「やあ」
 リオは控えめな声で挨拶をした。人魚は動かない。
「やあ」
 少し声を張る。人魚は動かない。
 困惑しながら、そろりと人魚に近付く。
 近くに寄って知ったのだが、彼女はマーメイドスカートなど穿いていなかった。
 昔絵本で見た通り、人魚の彼女には人間のような分かれた両足はない。下半身は魚のようにひと塊で、その表面はびっしりとウロコで覆われている。
 自分とは違う彼女の平らな股間に、己の一部が熱を持つのを感じ、慌ててそこから目を逸らす。一方、彼女の胸板は薄く、女性のような膨らみはなかった。性別がない、という案内役の言葉を反芻する。
 そして、どういうわけだか人魚には両腕がなかった。
 陸に適応して消えたのか、ヒレなどもない。部屋にはベッドとチェストと立水栓があるばかりで、海水を張ったバスタブや水槽のたぐいは設置されていない。
 遠目に見て美しいと思ったが、近くで見てもやはり彼女は美人だった。
 整った顔立ちだが、存外彫りは浅い。少しのっぺりとしたその顔は、かえって人魚らしいと好感を持つ。
 並行の二重。長く伸びた上下の睫毛。その中で鈍く輝く、明るい青の虹彩。ガラス玉のように美しいその瞳はなぜか焦点が合っておらず、白痴のようにぐなりとしている。
「やあ」
 リオが間近で挨拶をしてもなお、人魚は反応しなかった。
 死んでいるのか?
 どこか蝋人形めいた彼女の肌に、不安を覚えながらそっと手を伸ばす。
 ごく軽く、指の背を彼女の頬に触れさせる。冷たい。人魚は動かない。優しくその指を滑らせる。人魚は動かない。彼女の耳に触れてみる。人魚は動かない。そっとその薄い耳をつまみ、軽く引く。人魚は動かない。もう少し強く引くと、突然人魚の体が跳ねた。
「ごめん!」
 この人魚は水中ではなくベッドにいるわけで、陸の上で人魚は仮死状態に陥るのかもしれない、などと仮説を立て始めていたリオは、泡を食って手を引っ込めた。心臓がばくばくと痛いぐらいに暴れている。
 対する人魚はすぐに落ち着いて、寝そべったままリオに顔を向けた。目の周りの筋肉は先ほどよりしゃんとしたが、不思議と焦点は合わないままだ。
「ごめん。君が動かないから、心配になって触ってしまった。無礼なことをしたね」
 リオの謝罪に、人魚はこちらを見るでもなく見るばかりで何も言わない。
 耳が聞こえない、あるいはしゃべれないのか?
 もとは海の生き物なのだ。陸上で耳が聞こえなくとも、しゃべれなくとも不思議はない。
 しかし、しゃべれないのはともかく、耳が聞こえない、というのはどうだろう。
 彼女はあまたの見せ物の中で一人、檻ではなく、知能の高いなり損ない用の扉のない部屋でもなく、首輪も足かせもなしに、ゲストと同じ空間で暮らすことを許されている。それはつまり、彼女がここでのルールを守れるということではないのか。ルールを聞いて理解できる、耳と頭があるということではないのか。
「はじめまして。リオ・アンダーソンです」
 リオはためらいがちに名乗った。人魚は反応しないが、めげずに続ける。
「ここは、その、不思議なところだね。昔絵本で見た妖精みたいなのがたくさんいる」
「——いくつ?」
 矢庭に人魚が口を利いた。存外ハスキィで、耳馴染みの良い、押し殺すように小さな声だった。まだ声変わりをしていないリオよりも少し低い。
 しゃべれるのだ!
 興奮しながら「十二」と答える。
「君は?」
「俺も同じぐらい」
「俺?」
 彼女にそぐわない一人称に戸惑った。「え?」と人魚が言って、「ああ」と続ける。
「男だよ、俺は」
「性別がないって聞いたけど」
「まあ、それもひとつの考え方だ」
 人魚は淡白に言った。彼女、いや、彼なのか? 彼は、だって、
「ちんちん付いてないじゃん」
 端的に言ったリオに、人魚は破顔した。どこか冷めた表情の彼の初めての笑顔に、リオは嬉しくなった。人魚は「まあね。うん」とくっくっと笑みを噛み殺す。
「付いてないけど。どちらかといえば男だよ、俺は」
「美人だね」
 リオはまじまじと人魚の顔を見た。男だと聞いてもその感情が消えることはなかった。かえって強くなった気すらする。「どうも」と人魚が無感動に答えた。耳にたこができるほど聞いた賛美であることは分かっていたが、彼の美しさを前にすると、リオはそれを口にせずにはいられなかった。
「目の色が珍しい。すごく綺麗だ」
 リオはなおも彼の容姿を褒めた。
 リオの住むイングランドでは、彼のような青の虹彩はそれほど稀有でもない。割合だけでいえば、緑の虹彩を持つリオのほうがやや希少性が高いかもしれない。
 しかし、明るい栗毛に緑の虹彩を持つリオよりも、濡れ烏のように黒黒とした髪に儚い薄いブルーの瞳を持つ彼のほうが、ずいぶんと特異な存在に感じられた。
 人魚はちょっと言い淀んだ。
「……義眼なんだ」
 ひっそりと打ち明ける。
「え?」
 リオは目を見開いた。取りつくろうように「そうなんだ」と続ける。
「両眼とも?」
 失礼な質問だったかもしれない。しかし、沈黙が生じるほうが気まずかった。人魚は意外にもほっとしたように「うん」と答えた。
「どこから来たの?」
 人魚が話を変えた。これ以上義眼について掘り下げられるのが嫌だったのかもしれない。リオが地区名を答えると、人魚は「君、お坊ちゃんだったの?」と目をまたたいた。
「お坊ちゃんってほどじゃないけど」
 リオは笑った。人魚はなぜか思いつめた顔をしている。
「君は、どうしてここに来ることになったの? その、言いづらかったら構わないけれど」
「別に、言いづらいこともないよ」リオには人魚の深刻そうな表情の理由が分からない。「仕事をしにきただけ。オープニングでマジックをするんだ」
「マジック?」
「そう。僕、プロのマジシャンだから」
 胸を張る。そういえば、彼にそのことを伝えていなかった。人魚は「マジシャン……」とぼんやり呟いて、すぐに「マジシャン?」と頓狂な声を上げた。
「君は、その、……ゲストなの?」
「そうだよ」
「だって、君の声は、だって、十二歳だって、」
 人魚が声を上ずらせた。彼は気の毒なほどにうろたえている。
「大丈夫?」
 気遣うリオの声に被せるように、人魚が懇願する。
「言わないで」
「え?」
「誰にも言わないで。俺がしゃべれるって。だめなんだ。俺がしゃべれることが外部にばれたら」
「どうして?」
「そういうルールなんだ。これは、絶対のルールなんだ」人魚は今にも泣き出しそうに口を歪めている。「絶対に。親にも友達にも言わないで。お礼に、……どうしよう? なんでもするよ。俺ができることならなんでも。だから、お願いだから言わないで」
「なんでも?」
 リオの問いに人魚が頷く。彼の頼みであるのならば、リオは見返りなどいらなかった。しかし、聞いてくれるというのであれば。
「また話をしにきてもいい?」
 リオの要求に、人魚は虚を衝かれたように静止した。リオは続ける。
「僕、ここでの仕事があと八回あるんだ。それで、そのときに、また僕としゃべってくれない?」
 人魚は見えない目を大きく見開いて唖然としていた。リオは彼の義眼をじっと見つめて、返答を待つ。ややあって、人魚は「……それだけ?」と聞いた。
「それだけでいいの?」
「うん」
 リオは真面目に頷いた。人魚が気抜けしたように笑う。
「それぐらい、お安い御用だよ」
「本当に?」
 リオは顔をほころばせた。と、扉がノックされる。リオと人魚は同時に肩を跳ねさせる。
「はい」
 リオが叫ぶと、扉の向こうからイーサンの大声が返ってくる。
「リオ坊ちゃま。マイクさまがご挨拶をしたいそうですが……」
 ああ、そう。そういえばそうだった。
「今行く!」
 リオは「またね」と人魚に手を振った。人魚は「マイクにも言わないで。誰にも。誰にも内緒なんだ」とすがるように念を押した。
「大丈夫。約束する。言わないよ」
 微笑して「じゃあ、また」と挨拶を繰り返すと、人魚は「またね」と落ち着かない表情のまま応えた。

 案内役のあとについて、マイクの部屋を訪れた。マイクの部屋にはイーサンも同席した。
 成金趣味の部屋で、マイクとお決まりの挨拶と握手を交わした。
 マイクは、出演がきりのいい十回ではなく九回であることを詫びた。リオの両親が出演料を吹っかけたものだから、予算の都合でそうなったのだろう。リオは数字のきりに関心はなかったが、十回なら一度多くパールと会えたのに、ということをぼんやり考えた。
「驚かれたでしょう。おかしな生き物がたくさんいて。少し刺激が強かったのではないですか」
 マイクがうかがうような上目遣いで聞いた。リオは首を横に振る。
「いえ、妖精みたいで面白いですね。こんな場所があるなんて知らなかったな」
「夜のサーカスですからね。子供向けのものではないので」
「昼間にもやればいいのに。大人だけのものにするのはもったいない。子供だって喜びますよ」
 マイクは無言で微笑を返した。
「それにしても、あんな数、すごいですね。何か交配のコツや、捕獲のコツがあるのですか」
「それは企業秘密です」マイクはたくわえた髭を触り、「そういえば」と思い出したように言う。
「パールをご覧いただいたそうですね」
「パール?」
「うちの人魚です。あの、レースの部屋の」
「ああ、パールというのですね」
 彼の名前を聞いていなかったことに、そのとき初めて気がついた。彼に名前がある、という概念すらなかった。言われてみれば人魚はこの世に彼一人というわけではないのだろうから、個体識別用に名前があってしかるべきだ。真珠パールという名は美しい彼にぴったりだ、と感じた。
「いかがでしたか?」
 マイクが探るように聞いた。もちろん、リオはパールと会話をしたことなど口外しなかった。
「美しい生き物ですね」
「お褒めに預かり光栄です」マイクは髭を触る。「通常、外部のものがあの部屋で見世物と触れ合うには代金を頂戴するのですが、ゲストの方は無料でお楽しみいただけます。どうぞ、ご存分に」
 どこか含みを帯びた表情でマイクが言った。その含みの意味が分からずに、リオは「ありがとう」とだけ答えた。

 マジックの舞台は大成功だった。
 あらかじめ両親に「見世物小屋なんかでわざわざ新しいことをする必要はない」と助言を受けていたため、簡単な慣れたマジックだけを披露した。
 拍手喝采を浴びて頭を下げながら、短時間単純な労働をしただけであの莫大な出演料をもらうのはさすがに悪いような気もした。しかし、そういう契約でマイクはサインをしたのだから、これでいいのだ。
 帰り際、レース越しに青く光るパールの部屋を見た。中には入らなかった。イーサンが時間を気にしていたし、どうせ四日後にはここに仕事をしにくるのだ。
 四日後、またパールと話をできる。そして、リオと彼は秘密を共有している。誰にも内緒の、とびきりの秘密をだ。
 その二つの事実は、リオの胸をじんわりと熱くした。