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昔々、2

 ざわざわとした市場を、人の間を縫って進む。俺は絡むような視線を感じてそちらを向く。八百屋のおじさんが、変に熱のこもった視線を俺に注いでいた。俺は覚えず微笑を返す。一瞬、時間の流れがゆっくりになったかのような錯覚。八百屋のおじさんがこちらを凝視したまま、座っていた椅子から腰を浮かしかける。と、隣のアレックスがぐいと俺の腕を引いた。
「目合わせんなって」
「ああ」俺は我に返る。「ごめん」
「お前、やっぱりまだ後ろ歩いてろ」
「うん」
 俺は素直に歩くスピードを落とす。数メートル先を行くアレックスが、にわかに店先のオレンジを掴んでポケットの中に入れた。店員も、通行人も、誰一人彼の早業には気付いていない。
「すごい」
 俺はアレックスの隣に駆け寄り、尊敬の眼差しで彼を見上げた。
「別に、普通だっつの」
 アレックスが照れくさそうに鼻を擦る。
「俺も早くできるようになりたいなぁ」
「お前には一生無理だよ」
「次は目を合わせないようにするよ」
 むっとして言い返した俺に、アレックスは「無理、無理」とからから笑う。
「お前が合わせなくたって、結局は一緒なんだ。お前は目立つから、盗みに向いていない」
「こんなに地味で、目立つはずがないよ」
 黒い髪に茶色の瞳。俺の色味が地味なのは紛れもない事実だ。
 しかし、俺はそんなことを言いながらも、自分の発言にアレックスがどう返すかをよく知っていた。もう何度も繰り返したやり取りだからだ。
「お前は美しいから」
 アレックスが耳を赤くする。俺は肩をすくめて鼻から息を漏らした。

 アレックスと巡り合えたのは幸運だったといえよう。
 出会いは今から二週間前に遡る。あの日、父の書斎から外へと踏み出した俺は、知らない間に薄暗い路地裏に入り込んでいた。
 久しぶりに長く歩いてすっかり疲れきった俺は、手近な地面に足を投げ出して座った。ああ、これからどうしようかなぁ、と考えるでもなく考えていると、十数メートル先に立つ二人組と目が合った。
 年の頃は一七、八ぐらいか。変にやせっぽちな体で、鋭い目付きで俺を見ながらぼそぼそと何かを話し合っている。二人がこちらに歩を進めた、瞬間、反対方向からアレックスに声をかけられたのだ。
「おい、キャシー、どこほっつき歩いてんだよ」
 もちろん俺はキャシーなどという名前ではない。そのため視線をぐるりとして『キャシー』なる女性を探したのだが、薄暗い路地裏には俺とアレックスと不穏な二人組しかいなかった。
 アレックスが大股で俺に近付き、「何ボケッとしてんだよ」と俺の手首をわし掴んだ。
「一人でふらふらすんなっていつも言ってんだろ? ったく……」
 アレックスは俺の手首を掴んだまま、ずんずんと二人組とは逆の方向へと歩いていく。俺は呆然としながらも逆らわなかった。六、七分も歩くと、アレックスがようやく立ち止まり、振り返って呆れ顔で俺を見下ろした。彼は俺より頭一つ分背が高い。
「お前、ぼんやりしすぎ」
「え? ああ……」
「見ない顔だな。遠くから来たの?」彼が俺から手を離す。
「さあ」
「さあってなんだよ」
 アレックスが顔をしかめた。そう言われても、俺はそもそもここがどこかを知らないのだから、遠いとも近いとも判別ができないのだ。やたらめったらに歩いてきたとはいえ、歩き慣れていない俺の限界だ、家からものすごく離れているわけではないと思う。しかし、本当のところは分からない。
「あの、僕、キャシーじゃないけど」
 この頃の俺は『僕』という一人称を使っていた。『俺』などと言うのははしたないからやめなさい、と父に命じられていたのだ。アレックスは「知ってるよ」と言ってから、「僕?」と眉間に皺を寄せた。
「え?」
「お前、女の子だろ?」
「男だけど」
「嘘だ。どう見ても女の子じゃん」
「男だよ」
 俺は立ったままズボンを足首まで下ろした。家を出る前に父に着せられたのはシャツとズボンだけで、下着はない。あらわになった俺の下半身に、アレックスは「おっ、ま、バカ」と慌てふためいた。
「外だぞ、外!」
 アレックスはものすごい早さで俺のズボンを引き上げ、ボタンとチャックを閉めるとぶんぶんと往来を見回す。ここは先程いた路地裏よりはいくらか風通しがいいようだが、人気は相変わらずない。周囲に誰もいないことを確かめて、アレックスはほーっと大きく息を吐く。俺はというと、「え? ああ……」と気の抜けた声を出すばかりだった。
 ずいぶん外に出ていなかったから、忘れていた。そういえば、外で裸になってはいけない。
「お前、なんなの?」
 アレックスがほとほと困り果てたように言った。なんなの、と言われても。俺は「さあ……」と首をかしげる。
「家は?」
 俺は困った微笑を浮かべた。帰る家などもはやない。
「いくつ?」
「十一」
「俺の一個下じゃん」アレックスがちょっと表情を和らげる。ここで彼が名乗った。「俺、アレックス。お前は?」
 俺は名前を言いかけて、口ごもった。名前は、もちろんある。しかし、今となってはそれは父に呼ばれるためだけの記号のようで、目の前の少年にその記号で呼ばれるのには抵抗があった。
「何。お前まさか、名前ないの?」
 アレックスが眉を八の字にした。俺は頷きを返す。アレックスがため息を吐く。
「十一だろ? お前、マジで何? 今までどうやって生きてきたんだよ」
 服もそんなにボロでもないし、と続けたアレックスに、俺は言った。
「名前を付けてよ」
 君が呼ぶための俺の記号を。
「俺が?」
 アレックスが目をぱちくりさせる。俺はじっと彼を見つめて頷く。三秒も見つめあっていると、突然アレックスが顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「別に、いいけど……」
 彼は、一時間以上も唸って俺の名前を考えてくれた。
 日が暮れる頃、俺は彼に命名された。「どう?」と不安そうに問われて「最高」と親指を立てると、彼は安堵の笑みを浮かべた。彼が俺を呼ぶための記号なのだ。俺はもとよりなんでもよかった。
「なんでそんなに髪伸ばしてんの?」
 アレックスは俺をねぐらに案内する道すがら、訊ねた。
「切ってよ」
 質問には答えずアレックスを指す。彼は「俺がぁ?」と大きな声を出した。
「せっかくそんなに綺麗なのに、もったいない」
「邪魔だからさ。君が切ってよ」
「ええ、怖い、怖い。上手く切れるか分かんねーし。ナイフ貸してやるから自分で切れよ」
「君に切ってほしいんだ」
 俺が目を細めると、アレックスは「ええ」とか「うーん」とかしばらくぶつぶつ言っていたが、最終的にはポケットから折り畳み式のナイフを取り出して髪を切ってくれた。
 彼は、腰まである俺の髪を肩に触るかどうかまで切った。俺は「もっと切ってもいいよ」と言ったが、彼は「いや」と首を横に振った。
「お前は少し長い方が似合う」
「そう? じゃあ、これでいいや。ありがとう」
 彼は、俺の髪を捨てるのがもったいないとねぐらに持ち帰った。しかし、置いていたってどうにもならない。翌朝、五センチほどの長さに切った十本だけを手の平サイズのボロボロの袋(聞けば、母の形見のネックレスが入っているのだという。アレックスは父親の顔を一度も見たことがなく、女手一つで育ててくれた母は、アレックスが八歳のときに病気で死んだそうだ)に入れ、残りはなんだかよく分からないが『売りに行った』。
「俺の髪なんか誰が買うの」
 俺は昨晩から『俺』という一人称を使い始めた。そちらのほうが格好いいと常々思っていたし、はしたないだなんだと叱る父はもういない。アレックスは初め笑ったが、俺が「君の真似」とはにかんでみせるとまんざらでもない顔をした。
「なんか、カツラにするんだって。結構高く売れたぜ」
 そのあとしばらくは、俺の髪を売って得た金で食事を買った。金が尽きると、アレックスが店先から直接食べ物を盗んだり、食べ物を買うための金銭を通行人からすったりした。
 アレックスの盗みは鮮やかだった。俺も何度かチャレンジしたが、いつも彼に「戻せ、戻せ。見られた。このまま逃げると追われるぞ」と注意されて未遂に終わっていた。品物を戻してしばらく歩いてから、俺が「ごめん」とうなだれると、アレックスはいつだって「いいよ」と笑った。
「俺が盗るから、お前は何もできなくていい」

 彼はそう言ってくれていたが、俺は日に日に自分の不出来に嫌気が差してたまらなかった。
 日ごとに増す悩みはもう一つ。
 体が疼くのだ。
 初めは小さな疼きだった。次第に、耐えがたいほどのものへと変貌した。
 大きな太いもので、今すぐ俺の肛門を貫いて、ずちゅずちゅと激しく、ときに優しく抜き差ししてほしい。
 先日、アレックスは俺を抱きしめて触れるだけのキスをした。彼は顔を真っ赤にして「ごめん。びっくりした?」とどこか後ろめたそうに言った。俺は「何が?」と聞くのも悪いようで、ただ「ううん」と微笑してみせた。
 よっぽど、そのまま彼を押し倒して跨がってやろうかとも思った。しかし、アレックスの純粋な瞳を見ているととてもできるものではなかった。
 俺より年上で、体も大きく、たくましくこの世を生き抜くすべを持っているアレックスが、性にはてんで疎いのが、いやに眩しくて羨ましかった。

 数日後。
 俺は、盗みに行ったアレックスを人通りの少ないところで待っていた。
 彼いわく、目立つ俺が隣にいると盗みをやりにくいのだという。
 役に立たないどころか、妨げになってしまう自分がつくづくやりきれない。
「ねえ」
 声をかけられてそちらを向くと、知らない男が立っていた。三十代ぐらいだろうか。割合身綺麗な格好をした小太りの男だ。
「おこづかい、欲しくない?」
 そのときの俺は、おこづかいという単語を知らなかった。ぼんやりしていると、男が懐から紙幣を出した。
「言うことを聞いたらこれをあげるよ」
 俺は紙幣に手を伸ばす。俺はアレックスに世話ばかりかけている駄目な男だが、これを持ち帰ればきっと喜んでもらえる。アレックスの役に立てるのだ。
 男が「おっと」と手を引っ込める。
「だめだめ。ただじゃあげないよ。言うことを聞いたら、だ。ここじゃ少し目立つから、こちらにおいで」
 男が物陰に行って手招きをした。俺には、男がこれから何をしようとしているのかがよく分かった。いそいそと男のあとへついていく。
 促されるままフェラチオをすると、男は二分もせずに果てた。
「上手いな」男は呆然としながら俺の髪に指を絡めた。「娼館からでも逃げ出してきたのか?」
「ねえ」
「ああ、分かっているよ。約束通りお金はあげる」
「そうじゃなくて」俺はかぶりを振る。「ちんちん入れてよ。セックスしよう」
 男は目をぱちくりさせた。次に困惑の半笑いを浮かべる。
「そんなにすぐに勃たないよ」
「そんなことないでしょう」
 俺の父は、二度ぐらいならば大抵立て続けに勃起できた。体調によってはできないこともあったが、そんなときは。
「うわっ」
 俺が男の後ろに回って毛深い肛門を舐め回すと、男は飛び退こうとした。俺は男の腰を掴んで丹念に舌で肛門を濡らし続ける。いくらか柔らかくなってくると指を差し入れ、中を探る。もう片方の手で男の陰茎をしごく。男の直腸の中で目当てのポイントを見つけ、優しく指で圧迫する。ほどなく男は勃起した。
「ほら」俺は微笑む。「勃ったでしょう」
 男は怯えたように頷いた。俺は自分のズボンを下ろし、男の腸液で濡れた指を己の肛門に差し入れて適当にほぐす。男が俺の下半身を見ながら「男の子か」と呆気に取られていた。準備ができた俺は男の前に四つん這いになる。
「入れて」
「ねえ、やっぱりやめようか」
 男が不安げに辺りを見回す。俺は「今さらそれはないでしょう」と立腹した。
「あなたから始めたのだから。ねえ、入れてよ」
 男は逡巡した。ポケットの中に片手を突っ込んで何やらごそごそしている。あとで気付いたのだが、このとき男は手持ちの金の勘定をしていたようだ。
 やがて、男は覚悟の決まった表情で俺の腰を掴み、肛門に陰茎をねじ込んだ。俺は、他人の塊で直腸を拡げられる久方ぶりの感覚に全身を歓喜で震わせた。男が熱い息を吐く。
「すごいな。すぐにいきそうだ」
「駄目だよ。まだ始まったばかりじゃない」
 男はしばらく頑張っていたが、結局そう長くは持たずに俺の中に射精した。男は疲れた顔で俺の手に紙幣を握らせた。初めに提示されたものよりも枚数が多かった。
「ねえ、また会ってくれる?」
 俺が訊ねると、男は視線をよそにやって黙った。俺が「ねえ」と返事を急かすと、「他の奴を連れてきてもいいかい」と質問した。
「私一人じゃ、金も体も持たないよ」
 俺は「もちろん」とにっこりした。

 盗みから帰ったアレックスに紙幣を渡すと、彼は目を丸くした。
「どうしたんだよ、これ」
「もらった」
「誰に」
「知らないおじさん」
「どうして」
 セックスをして、と正直に話そうかとも思った。しかし、そうするとアレックスが悲しい顔をするかもしれない、となんとなく思った。彼を喜ばせるために金を持ち帰ったのに、それでは本末転倒だ。
「しゃべったりして」
「しゃべっただけで、こんなにたくさんか?」
 アレックスは俺が渡した紙幣をしげしげと見た。俺は金が分からなかった。簡単な足し算や引き算はできたが、どの紙幣やコインにどのぐらいの価値があるのか、どのぐらいの金があれば何を買えるのか、ちっとも知らなかった。
 俺が黙って首をかしげていると、アレックスは「美人は得だな」と歯を見せて笑った。

 その後、俺は数えきれないほど男たちに抱かれた。
 平凡に一人の相手をすることもあったが、一度に複数人の相手をしたり、肛門や尿道に異物を入れられたり、浣腸をされて脱糞を見られたり、とさまざまなこともした。特に浣腸からの脱糞はみんなのお気に入りで、しょっちゅうさせられた。「ウンコなんかしそうにない綺麗な顔のお前から、汚いものが出るのがたまらなくいいんだ」と熱く語られたこともある。俺がみんなと同じように排便をするのは当たり前のことなのに、男たちが目を爛々として観察したがるのが、いつもすごくおかしかった。
 プレイは過激なこともあったが、彼らは基本的に優しかった。せっかくのおもちゃが壊れてしまっては惜しい、という思いもあったのだろう。
 俺は、アレックスに呼ばれているのとは別の名前で男たちに呼ばれていた。男たちに名前を聞かれ、黙って首をかしげていると、最初の男が付けてくれたのだ。
 初めはアレックスが盗みやスリに行ったタイミングで『最初の男に会った場所』に赴けばよかった。しかし、俺がしょっちゅう金を持ち帰るものだから、アレックスは一人で盗みやスリに行く必要がなくなってしまった。それでも俺は隙をついてしばしば男たちと会った。
 俺が帰ると、アレックスは「どこに行ってたんだよ」と怒り出すようになった。俺が金を差し出してももう彼は喜ばなかった。
「いらないよ。お前に金を貰わなくたって、二人分の食うものぐらい俺がどうにかしてやれるんだ」アレックスは俺を睨んだ。「俺が盗ってくる飯だけじゃ不満なのか」
「そういうわけじゃないけど」
 俺はうつむいた。

 ある日、俺は男たちに会いに行かなかった。
 どこにも行かない俺を見て、アレックスは「今日は小遣いもらいにいかなくていいのかよ」と口を尖らせた。
「いいよ」
「明日行くのか」
「もう行かないよ」
 アレックスは見定めるように俺を見た。やがて、その目にじわりと涙が浮かぶ。彼はすがりつくように俺を抱きしめた。
「もう行くな」
「うん」
 俺は彼の背中に腕を回す。

 セックスをせずに涼しい顔でいられるのは、三日が限度だった。四日もすれば体が疼きだし、一週間もすれば頭の中はそのことでいっぱいになった。
 結局俺は、男たちに抱かれ続けた。アレックスが盗みをしている隙に行けば彼にはばれない。男たちに「もう金はいらない」と言ってもよかったのだろうが、今更「いらない」と言えば変に思われそうで、金は貰い続けた。貰った金は適当なレンガの隙間などにねじ込んだ。その金は数日残っていることもあったし、忽然となくなっていることもあった。俺はどうでも構わなかった。
 さっぱりとした俺は、盗みから帰ってきたアレックスと落ち合う。彼は「どこに行ってたんだよ」とおどけるように言う。俺を信頼しているのだ。
「散歩」
 小遣いを持たない俺は、両手を広げて微笑した。