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 Den of FREAKSへと向かう馬車の中。
 リオは意識の外でトランプを繰りながら、そわそわと落ち着かなかった。
 馬車に乗り込むまで、今日はしゃべる日で構わないと考えていた。
 だけど馬車がDen of FREAKSに近づくにつれ、無性にパールと触れ合いたくなってくる。
 どうしよう。
 彼の部屋に入って、開口一番、したい、と伝えようか。

 そんな浮き足立った感情は、実際にパールの部屋へ入るとたちどころに消え失せた。

「パール?」
 ついその場に凍りつきかけたリオだったが、すぐ我に返り、後ろ手に扉を閉めると大急ぎでパールに駆け寄った。いつも涼しい顔をしているパールが、全身に脂汗をかいてぎゅっと体を丸めている。
「大丈夫?」
 とにかくパールの背中をさする。十分見慣れて、少しは触ったこともあるその体は、これほどまでに薄かっただろうかと今更ながらに目を見張る。あんまり強くさすると皮膚が破れて骨でも突き出してきそうで、おそるおそるさする。パールは固く目を閉ざし、浅い呼吸を繰り返している。
「人を呼ぼうか」
 医療の知識のないリオは、不安になって提案した。一人で正しくパールを介抱できる自信がなかった。しかし、パールは首を横に振る。
「どこか痛いの?」
 パールは首を横に振る。
「頭? お腹?」
 パールは首を横に振る。
「どこが辛い?」
 ただ、彼は首を横に振り続ける。
 思い立って、リオは「僕だよ。リオだよ」と名乗りを上げた。
 パールは、リオ以外の前ではほとんどしゃべらないという。普段の彼ならば、名乗らずとも声だけでリオだと見抜いてくれる。けれど、あまりにも具合の悪そうな今の彼には、これだけ声をかけてもここにいるのがリオだと見抜けていない可能性が高い。その場合、どこが辛いか、と訊ねても、手で部位を指すこともできない彼にはなすすべがない、ということに思い至ったのだ。
「リオだよ」もう一度、パールの耳元で囁く。「大丈夫。しゃべってもいい。どこが辛いの?」
「大丈夫」
 パールが震える声で答えた。リオは眉間に皺を寄せる。
「そうは見えない。人を呼ぼう」
「大丈夫」パールはかたくなだ。「薬の量が、少し、多かったのかも……」
「薬?」思いがけない答えにリオは仰天した。「どこか悪いの?」
「悪いよ」パールが薄く笑う。「全部悪い」
 彼の全身にはいやな汗が光っている。
「触って」
 矢庭にパールが言った。リオは戸惑いながらも首を横に振る。
「そんなことをしている場合じゃないでしょう」
「たいした、問題じゃ、ないんだ」
 パールの言葉は切れ切れだ。長くしゃべるのが辛いらしい。
「抱き合うだけでも、」いいから。「好きに、……」して。
 リオは、パールの言葉を頭の中で補完した。
 どうしようか、と途方に暮れる。人を呼ぶのがきっと一番いい。だけど、パールはそれが嫌だという。
 どうしようか……。
 リオは体が丈夫なほうだ。それでも、ときには体調を崩すこともある。熱を出して、汗で髪の張りつく額を、そっと母に撫でてもらったときのことを思い出す。体調が悪いときに人に優しく触られると、安心するものだ。パールもそれを求めているのではないか、と考えを改める。
 抱き合うだけでも、いい。
 パールが求めている触れ合いの最低ラインは、抱き合うことだ。
 リオは意を決し、するすると服を脱ぎ始める。着衣のままパールと抱き合うと、油のついた彼の髪で服が汚れてしまうかもしれない。とにかく早くパールをリラックスさせてやりたい、と思うと、恥じらうことなく裸になれた。
 ベッドに上がり、パールの隣に寝そべると、その薄い背中に腕を回した。パールの肩がちょっと動く。彼に腕はないけれど、肩はある。彼の動き方は、まるでリオに抱きつこうとするかのようだった。それに応えるように優しく彼を抱き寄せる。パールの呼吸は浅く、速い。
「深呼吸をして……」
 囁きながら、肩甲骨の突き出たパールの背中をそっとさする。促すように、まず自分が深呼吸をしてみせる。二、三度繰り返していると、パールもこちらと呼吸を合わせようとし始める。切れ切れの彼の呼吸はなかなかリオと揃わない。それでも繰り返すうち、次第に息が合い始め、やがて重なっていく。
 しばらくのち、固く閉ざされていた彼の目のつぶりがゆるやかになった。そして開く。
 彼はもう、苦悶の表情を浮かべてはいなかった。
「大丈夫?」
 改めて訊ねると、パールは「大丈夫」といつもの表情で微笑んだ。
「びっくりした」
 今一度パールの背中をさすったリオに、パールは「ごめんね」と首をすくめる。
「謝らなくてもいいけれど……」リオは指先でパールの髪をもてあそぶ。「君は……、その、言いたくなかったら無理にとは言わないけれど、君は……、……病気なの?」
「病気?」
「薬を飲んでいるんでしょう」
「ああ、うん」
 パールがちょっと目頭に力を込めた。どう説明したものかな、と考え込んでいる表情だ。ややあって話し出す。
「病気じゃないよ。ただ、飲まなくちゃいけない薬があるだけで」
「飲まなくちゃいけない薬?」
 リオには意味が分からなかった。病気ではないのに飲まなければいけない薬とは、なんだろう。「うん」とパールが頷く。
「だから、そうだね……。そう、人魚が陸で生きていくために、飲む薬だよ」
「陸で?」
「今は、西暦何年の何月だっけ?」
 リオが答えると、パールは「ああ……」と息を漏らした。
「もうすぐ二年だ。もうそんなになるんだね」
「何が?」
「だから、そう……、俺が陸に上がってから、二年だよ」
「その前は海にいたの?」
「そうだよ。人魚だからね」
 パールがくすくすと笑った。もう、彼はすっかり普段の落ち着きを取り戻している。
「薬を飲まないと、君は陸にはいられないの?」
「そうだよ」
 しれっと頷いたパールに、リオは「それじゃあ」と念を押すように続ける。
「薬を飲んでいれば、大丈夫なんだね。薬を飲んでさえいれば、君はなんの問題もなく陸で生きていけるんだね」
 パールが微笑を浮かべたままちょっと黙った。リオが「そうだよね」とすがるように聞くと、「そうだよ」と淡白に答えた。あまりにあっさりとしていて白々しかった。
「本当に?」
 パールの頬に片手を添える。苦しみ悶える彼の姿が、あまりに薄すぎる彼の体が、リオの心をざわざわとさせていた。パールはしばらく沈黙していたが、やがて目を伏せ、ぽつりと漏らした。
「薬が効かなくなってきている」
「そうなの?」
 ひっそりと、パールは頷きを返す。
「初めはね、一日一度、ほんの少しで十分だったんだ。だけどだんだん効かなくなってきて、量も調整してくれてはいるんだけれど、最近では二時間とか三時間とか、悪い日は一時間もせずに薬が切れちゃうこともあるんだ」
「それじゃあ、一日に何度も薬を飲まなくちゃいけないの?」
「くれないよ。薬は高いから、そんなにたくさんはくれない。舞台に上がる前と、接待をする前しかもらえない」パールがちょっと目頭に力を込める。視線を転じようとしたのだろう。「あとから気付いたんだけれど、君に出会ったあの日、薬が切れた俺が騒いでいちゃまずいから、いつもより早い時間に薬をもらえたんだね。俺には時間が分からないから、てっきり舞台の前の薬なんだと思っていた。君としゃべったしばらくあとにもう一度薬をもらえて舞台に上げられたから、それで気が付いたんだ」
 パールが微笑む。今のリオには、彼との初対面のときの思い出話に花を咲かせる心の余裕などなかった。ただ湧いた疑問をぶつける。
「でも……、高いって言ったって、君は薬を飲まないと陸では生きていけないんでしょう。それなら、どうしたって薬が切れるたびに飲み続けなくちゃいけないんじゃないの」
 パールが少し黙った。「つまりね……」と彼は言葉を探しながら説明する。
「一日一度飲めば、最低限は陸で生きていけるんだよ。薬が切れている間は、死んでしまいそうに辛いっていうだけで」
「そうしたら、その間は海水を張った水槽なんかに入れてもらっているの?」
 パールが破顔した。顔を伏せ、くっくっと音を立てて笑う。リオは彼の笑い出した理由が分からず、ぽかんとする。パールはひとしきり一人で笑ったあと、笑みを噛み殺しながら「水槽はないよ」と首を横に振った。
「どうして?」
「ええとね……、そう、つまり、一度陸に上がる薬を飲むと、もう駄目なんだ。もう海の中では生きていけなくなる」
「ひどい話だ」リオは憤慨した。「勝手に海から連れてきて、そんな薬を飲ませるなんて」
「そんなに怒らないで」
「君はもう海に帰れないことが悲しくないの」
 リオは、どうしてパールがリオと一緒になって不平を言わないのか分からなかった。
「そんなに悲しくもないさ。だって、慣れるとここは悪くない。俺はなんにも考えず、ただ寝ているだけでいいんだもの」
「ここは悪いよ。広くて自由な海に比べたら最悪じゃないか。光が差し込む窓もないし、外にも出してもらえない。一生海に帰れないだなんて……。ご飯も満足にもらえていないんじゃないの」
 リオはくっきりと浮いたパールのあばらをなぞる。パールがくすぐったそうに息を漏らす。
「ご飯はもらえるよ。俺があんまり食べないだけ」
「どうして食べないの。食べなくちゃダメだよ」
「もう、そんなにいらないんだ」見えないパールの目が、遠くを見ているようにリオは感じた。「俺は年寄りだから……」
「年寄りなもんか。僕と同じぐらいでしょう?」
「とっくに寿命だよ。陸に上がる薬を飲んだら、普通は一年ぐらいで死んでしまうらしいんだ。俺は人魚になって二年も経つからね。もう、長生きしすぎたぐらいなんだ」
 リオは言葉を失った。
 パールはいつだって消えてしまいそうに儚いけれど、それと同じぐらい、いつまでもそこにいるかのように飄々ひょうひょうとしていた。彼が明日にも死んでしまうかもしれないと思うと、途端に心細くてたまらなくなる。「二年か……」とパールがしみじみ呟いた。
「薬はもらえているし、舞台にも出してもらえているけれどね。最近では、俺はずいぶん飽きられちゃって、訪ねてくる人も少ないんだ。だから、君が来てくれるようになって嬉しいよ」
「来るよ。ずっと来る。だから、君もずっと生きていて」
 リオは力強くパールを抱きしめた。パールがちょっと目を見開いて、困ったように小首をかしげる。
 それから、彼はリオの腕の中でじっとしていた。リオは、彼の冷たいような骨張った体がリオの体温とだんだん混じっていくのを感じながら、いつまでもそうしていたいような心持ちになった。なんだかそのまま眠ってしまいそうになったとき、イーサンの扉のノック音が夢の時間を台無しにした。
「リオ坊っちゃま。間もなくお時間ですよ」
 リオはすぐには返事をしなかった。どんどん、と先程より強く扉がノックされる。
「リオ坊っちゃま」
「行くよ」
 うんざりと吐き捨てた。
 リオはマジシャンの仕事が好きだ。時折ある忙しいときなど、食事や睡眠の時間を削ってまで舞台に上がらなくてはいけないこともある。だけどそれが苦にはならなかった。舞台で熱いライトと視線を浴びながらマジックを披露することは、何よりもかけがえのない時間なのだ。
 にも関わらず、今、リオはパールと離れがたかった。パールとまどろんでいることと、舞台でマジックをすることを天秤にかけた場合、前者の方が大きく傾いているようにさえ思われた。
 たらたらと服を着る。もう一度、強く扉がノックされる。「行くったら」とリオは不機嫌に言う。
「次に会ったら、セックスしようか」
 パールの一言に、リオは大きく目を見開いて彼を見た。
「君が俺の中に入って、繋がるんだ」
 パールはにこにこしている。
「生きていてね」
 とっさに懇願したリオに、パールは「もちろん」と笑う。
「ご飯もしっかり食べて」
「うん」
「リオ坊っちゃま!」
 扉の向こうでイーサンが叫んだ。リオも「はい!」と叫び返し、手早く身支度を終えるとパールに片手を振る。
「じゃあ、また」
「またね」
 扉を開けて、レースのカーテンを抜ける。扉のすぐそばで、イーサンがリオの手品道具の入ったボストンバッグを手に待機していた。
 リオはそれを受け取りかけて、あることに気が付きちょっと視線を逸らす。つい数分前まで純情にパールを愛していたつもりなのに、セックスがどうのという話をしたらすぐこれだ。己の低俗さに直面して顔を赤らめる。
「トイレに行ってもいい? ほんの一瞬で戻ってくるから」