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 リオは、再び父に「変なことをしなかったか」と問われれば、今度は絶対に取り乱してしまうと不安だった。
 あのときはぴんと来なかった『変なこと』という言葉の意味が、経験した今ならよく分かる。
 リオとパールは、『変なこと』をした。裸で触れ合って、キスをして、パールの唇がリオの陰茎に——。
 絶対に親には言えない、子供がしてはいけない、いかがわしい……。あれこそが、父の言わんとしていた『変なこと』に違いなかった。
 幸い、父がリオにその質問をすることはもうなかった。一度目で母に怒られてこりたのだろう。
 母はリオが見世物小屋に仕事をしにいくことに依然として難色を示していたが、父は「昨日マイクとお茶をしたが、人魚は本当に大人しいものらしいね。人間を襲う心配は絶対にないとお墨付きをもらったよ」と鷹揚に笑っていた。

 Den of FREAKSでの三度目の出演の日がやってきた。
 父にさとされたのだろう、イーサンはリオが早めに家を出ることにも、自身の控室ではなくまっすぐパールの部屋へ向かうことにも、もう口を出さなかった。ただ、その目は物言いたげに恨めしそうな光を放っていた。
「パール」
 リオはパールの部屋に入ると、扉を閉めた。ベッドに寝そべるパールは、相変わらずぼんやりと虚空を見つめている。
「パール、来たよ。調子はどう? 元気にしていた?」
 近寄ると、パールはゆっくりとこちらの方角に顔を向けた。
「リオ?」
「正解」
「服を脱いでよ」
 出し抜けにパールが言った。リオは「脱がないよ」と笑った。彼が冗談を言ったと思ったのだ。しかし、真面目な顔をしているパールに目をまたたかせた。
「今日は脱がなくてもいいでしょ? 僕の顔ならこの前知ったんだから」
「触りたい」
「どうして?」
「俺は目が見えないから」
「心配しなくてもここにいるよ」
 リオはベッドの縁に腰を下ろした。ギッとベッドがきしむ。ぐるりと音の出所を探るパールの顔に、そっと指の背を触れさせる。パールがリオの手に顔を擦りつける。
 胸をときめかせてそれを眺めたリオだったが、矢庭にパールに中指を咥えられ、息を呑んだ。すんでのところで悲鳴をこらえる。下手に大声を上げてしまうと、扉の向こうで様子をうかがっているであろうイーサンが、またもリオの身を案じて部屋に突入しようとしかねない。
 力任せにパールの口から中指を引き抜くと、彼は「あ……」と吐息のような声を漏らした。
「どこ?」
「いるよ。ここにいる」
 どきんどきんと苦しい心臓を、胸の上からぐっと両手で押さえつける。パールのぬるぬるとあたたかい口の中が、指に絡む舌の感触が、青白い顔からちろりと覗いた赤い舌が、早くもリオのズボンの前を窮屈にさせていた。
「どこにいるの」
 パールが定まらない視線をふらふらと彷徨わせる。とん、と彼の頭がリオの腰に当たる。リオは反射的にベッドから立ち上がる。
「服が汚れちゃうよ」
「だから、脱げば?」
 そう言うパールは、前回同じ台詞を吐いたときとまるで同じ表情をしていた。俺に対面するのであれば裸になるのは当然だ、とでも言いたげな表情をだ。
 リオは黙りこくった。
 パールが「ねえ」と言う。リオはもうしばらくわずらっていたが、パールに再び「ねえ」と急かされて、思いきって質問した。
「あのさ。それは、マナーか何かなの? 君の部屋で服を脱ぐ、ということは」
 パールがちょっと目をぱちくりさせる。すぐに微笑んだ。
「そうだよ」
「どうして?」
「だって、脱がないと服が汚れるじゃない」
「しゃべるだけなら汚れないよ」
「俺は触りたいんだ」
「どうして?」
「目が見えないから」
「それなら僕が触るよ。そうすれば、僕がここにいることは君に伝わるし、服が汚れる心配もないでしょう?」
「君は俺に触られるのが嫌なの?」
 パールがわずかに眉を寄せた。微妙な表情だが、リオにはそれが悲しんでいるように見えた。慌てて首を横に振る。
「そうじゃないよ」
「じゃあ、どうして俺に触らせてくれないの」
「それは……、服が汚れるから」
「脱げばいいんだよ。そうでしょう?」
「それは……」しどろもどろになる。
「嫌なら嫌と言えばいいんだ。君は化け物の俺に触られたくない。そういうことでしょう?」
 喘ぐようにパールが言った。リオはしばしの葛藤の末、覚悟を決めた。
 本当のことを打ち明ければ、パールに嫌われてしまうかもしれない。だけど、もうこれ以上うまくごまかす手立てはないのだ。どのみち嫌われてしまうのならば、パールに誤解をされたまま嫌われるよりも、正直な気持ちを話して嫌われるほうがずっとましだ。
「僕は……」
 口が渇いていた。唇を舐めて形だけ湿らせる。パールは眉間にかすかな皺を寄せたまま、じっとリオの言葉を待つ。
「君は……、君は分かっていないんだろうけれどね」
 緊張で指先が冷たい。リオの本心を知ったパールは、一体どんな反応を返すのだろう。
「人魚の世界では、違うんだろうね。だけど、君の触り方は、人間界では、その——、変な意味を持つんだ。それで、僕は、君に触られると、……」
 変な気分になっちゃうんだ、と告白する勇気がどうしても振り絞れなかった。リオは知らないうちにすっかりうつむいて、自身のつま先を見つめていた。
「それで?」
 パールが聞いた。どこかおかしそうな響きを含んだ彼の声に、リオは耳を疑ってつい顔を上げた。どうやら聞き間違いではなかったらしい。パールはにこにこと満面の笑みを浮かべている。
 表情の意味が不明で、リオは穴の開くほど彼を見つめた。パールはこてんと首を倒して、「何を気にしているのかと思ったら……、そんなこと……」とゆるやかに笑う。
「そんなことって」
 リオは困惑する。続けて、あることに思い至った。
 もしかすると、パールは『変な意味』という表現をきちんと理解できていないのではないだろうか。
 どう説明すれば正しく伝わるだろう。そもそも、清廉な彼にそういった知識を植え付けるのは、本当に正しい行為なのだろうか。
 考えあぐねていると、パールが信じられないことを口にした。
「人魚はね、人間といやらしいことをするのが大好きなんだよ」
 リオは言葉を失った。パールは朗笑している。「君は、」とリオはかすれた声を出す。
「君は、人間の言葉を間違えて覚えているんだ」
「間違えてなんかいないよ。ちゃんとよく分かっている」
 パールがごろんとベッドに仰向けになった。ベッドがきしむ。彼は顔だけをこちらの方角に向けて「おいで」と誘う。
「楽しもう」
 ごくり、とリオは生唾を飲み込んだ。
 興奮と衝動と好奇心、それから恐怖があった。
 十二歳のリオは、性の知識に乏しい。大人の男性と女性が、何か、裸で抱き合って……。全てが曖昧だ。興味はもちろん、ある。だけどなんだか、少し怖い。
「そんなことをしたら怒られるんじゃないの」
 おそるおそる言ったリオに、パールは「誰に?」と首をかしげた。
「父さんと母さん」
「黙っていればいいんだよ。君は口が固いでしょう。俺のことを黙っていてくれたんだから」
 パールは悪びれもなく言った。先ほどからとんでもないことを口にしながらも、その顔はいつもと変わりない美しさを有したままだ。
 君は、いつもいろんな人間といやらしいことをしているの?
 その質問がリオの喉の辺りに引っかかって、とても口には出せなかった。もしも「うん」と頷きを返されてしまえば、リオはその場に立っていられなくなるに違いなかった。
「僕は……」
 言葉を迷いながら話す。
「僕は……、君と、……しゃべりたいんだけれど」
「しゃべりたいの?」
「おしゃべりをして、君のことを知って……、それで、仲良くなりたいんだ」
「俺は、君と触れあって仲良くなりたい」
「困ったな……」
 リオは心の底からそう漏らした。パールが破顔する。リオには笑われた意味が分からない。
「困ったねぇ」
 パールは笑みを噛み殺している。「そうだ」とリオは明るい声を出した。
「交互にしようか」
「交互?」
「君の希望を叶える日と、僕の希望を叶える日と。交互にしたらいいんじゃない?」
 全てが解決する名案だった。
 リオは、パールとおしゃべりをして、あわよくばときどきその頬や髪に触れられればそれでよかった。
 だけど、いやらしいことは絶対にしたくない、というわけでは全然ないのだ。年頃なのだから、性への関心は言わずもがなある。今すぐするのはやはり怖いけれど、次にパールに会いに来る日までに少しでも心の準備ができれば……。
「じゃあ、今日は俺の希望を叶える日だ」
 パールが不敵に笑った。リオは動揺する。
「今日は僕の希望を叶える日だよ」
「どうして? この間はしゃべっただけなんだから」
「しゃべっただけじゃないよ。裸になったし、僕に触ったじゃない。キスだってしたし……」
 リオは顔を赤くした。パールは目をぱちぱちさせたのち、「ああ、そう。そうだったかな」と薄く微笑する。リオは続ける。
「それに今日は、もう時間がないから」
 リオは今、懐中時計を持っていなかった。自室の引き出しには十歳の誕生日にプレゼントされたものがあるのだが、持ち歩く習慣はなかった。時間の管理はすべてイーサンに任せているからだ。
 しかし、体感的に間もなくイーサンが「リオ坊っちゃま。そろそろお時間ですよ」と部屋の扉をノックする予感があった。
 パールに指を咥えられて勃起したリオの陰茎は、会話を経て今はすっかり落ち着いていた。これからいやらしいことを始めて、また勃起してしまうと厄介だ。
「そうだ。手品を……」
 見せてあげようか、と言いかけて口をつぐんだ。
 リオは恋人ができたことはないけれど、恋をしたことはある。学校に通っていた頃に気になる女の子ができたこともあったし、手品をする場でかわいい女の子に釘付けになったこともあった。
 いつだって、気になる女の子の気を引くためには手品を使った。その場で簡単なマジックをしてみせたり、助手として指名してステージに上げ、特別に間近で見せてやったりするのだ。
 だけど、目の見えないパールには、手品を披露することができない。
 空っぽのシルクハットから——、シルクハットが空っぽだ、という前提を、そもそも彼は視認できないのだ。
 パールは、リオに言葉の続きを催促しなかった。彼にはリオの思考の流れが手に取るように分かったのだろう。
「また、来るよ」
 なんだかばつが悪いような、申し訳ないような心持ちになりながらリオは言った。
「またね」
 パールはさして気にした様子もなく、いつものこだわりのない顔で応えた。
 とぼとぼとパールの部屋を出る。予想通り、イーサンはパールの部屋の扉のすぐ横の壁を背に、きちんと直立して待機していた。
「やあ」
 リオがわざとらしく片手を上げてみせると、イーサンは眉毛を片方上げてリオに向き直った。
「お早いですね」
「早かった?」
 イーサンがさっと懐中時計を見る。
「まだ十二分ほどお時間がございますよ」
「ああ、そんなにあったんだ」
 しかし、去り際の気まずい気持ちを思い起こすと、パールの部屋に戻る気にはなれなかった。さっさと歩き始めたリオに、イーサンが「どちらへ」と問う。
「空き時間にすることなんか決まっているだろう? 手品の練習をする」
 リオは自身の控え室へと向かった。通路を挟んで正面だからすぐに着く。自身の控え室に入るのはこれが初めてだったが、仮眠用だろうか、そこにもパールの部屋と同じくダブルベッドが設置されていた。どういうわけだか立水栓まである。舞台でうっかり衣装を汚してしまった際、応急処置をできるようにだろうか。
 イーサンは足元に置かれたボストンバッグ——リオの手品道具が入ったものだ——を持ち上げると、「素晴らしいことです」と生真面目に頷いてあとをついてきた。