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13

 Den of FREAKSでの最後の出演日がやってきた。
 門番のデゴスは顔を赤らめてそわそわしていた。リオが「何かくれるの」と笑いかけると、「お、お、お、お帰りに」と大きな図体をもじもじさせた。
「今欲しいな」
 リオは手を出してねだった。パールと別れたあとは、感傷に浸りたくなるはずだ。そのとき、デゴスに構ってやる心の余裕はないかもしれない。
 デゴスは花束をくれた。デゴスの手の中にあるうちは小さく見えたけれど、リオが受け取ってみると、大きく立派な花束だった。綺麗な紙で包まれ、根本にリボンも結んである。照れ屋な彼がわざわざ花屋へ行って、これを選び、包装してもらっているところを想像すると、なんだかあたたかい気持ちになった。
「ありがとう」
 リオは微笑んだ。デゴスは真っ赤な顔でいつも以上にどもって、何を言っているのかちっとも分からないほどだった。
 リオは見世物の並ぶ長い通路を、ただ己のつま先だけを見つめて足早に進んだ。
 気付くと鉄格子の扉に行き当たっていた。見張りの男が扉を開けてくれる。六つ並んだ扉付きの部屋のうち、開け放たれた青い部屋にひとりでに視線が向かう。いや、と首を横に振る。今日パールに会うのは出番のあとだ。
 意識的に足を自身の控え室へと向け直す。ふいに鼻唄が聞こえた。パールの部屋からではなく、舞台へと続く通路からだ。リオはたいして気にも留めず、控え室に入ると扉を閉めた。
 空き時間にすることなど決まっている。リオはポケットからトランプを取りだし、淡々と慣れたマジックを繰り広げていく。視線を感じて顔を上げると、イーサンが目を見開いてリオの足元を見つめていた。
「なんだよ」
 眉をひそめる。イーサンは「いえ」とリオの足元を見たまま首を横に振る。リオはいぶかしがって己の足元に視線を落とす。愕然とした。トランプが四枚も床に散らばっている。
 リオだって人間だ。非常に稀ではあるものの、ときにはトランプを落とすこともある。だけど、そのことに気がつかないのはありえない。
 しっかりしろ。僕はプロだ。僕はここに、仕事をしにきているのだ。
 急いでトランプを拾い上げ、気を引き締めて練習を再開する。
 しばらくすると出番の時間になった。
 部屋を出る。鼻唄はまだ響いている。先ほどより近い。六つある控え室のドアのうち、パールの部屋ではない一つが開け放されていた。今、鼻唄はそこから聞こえているようだ。
 僕がこれほど思い詰めているというのに、どうしてあんなに呑気なやつがいるのだ。
 言いがかりに等しいイライラを胸に、舞台へと急ぐ。
 舞台ではひとつも失敗しなかった。
 超満員の会場は妙な熱気に包まれていた。今日はDen of FREAKSでのリオの最後の出演日だからだろうか。それにしては、人々の目に浮かぶギラギラとした興奮は、あまりに異様すぎやしないか。
 控え室へと戻る通路を歩いていると、鼻唄の男とすれ違った。男は白衣を着ている。リオは一瞥だけして無視をするつもりでいたのだが、男に「やあ!」と声をかけられてしまい、仕方なく足を止めた。
「こんばんは」
「今日は素晴らしい日ですね!」
 どこがだよ。ふざけるなよ。
 そう怒鳴りつけたい衝動に駆られながらも、リオは営業用のスマイルを作った。全部で九回このDen of FREAKSに通ったが、こんな白衣の男を見るのは初めてだ。控え室を使っていたことから、ゲストなのだろう。この男の素性や人脈が分からない以上、無闇に粗暴に扱うことは得策ではない。
「ご機嫌ですね」
「ええ、ええ、それはもう!」
 男は歌うように伸びやかに言った。リオが先を聞かないうちに、べらべらと興奮した調子でまくし立てる。
「マイクさまがね、私に素晴らしい依頼をしてくださったのです。舞台の上で、さばいて客に振る舞えですって! 生きたまま、麻酔もせずにですよ! ああ、ああ、どんな手順でさばいていけば、一番長く意識を保ったまま、存分に悶え苦しむさまを見せてくれますかねえ!」
 リオはあからさまに顔をしかめた。浮かれた男は、リオの表情に己をかえりみる様子もない。
 会場の妙な熱気の原因は、これか。生きたまま、麻酔もせずに、とことさらに強調するということは、動物の話ではない。見世物の話だ。
 なぜマイクはそんなにひどい催しをするのだろう。集客のために仕方なく? 違う。マイクは数えきれないほどたくさんの、罪のない五体満足の人間を、異形へと改造してきた男だ。罪のない子供に作り物の剣を持たせ、舞台で剣の達人と戦わせていたぶり殺すような男だ。
 見て喜ぶものも、趣味が悪い。けれど、それを考え、責任を持って決定、命令、実行し続けるなど、まともな精神では絶対に耐えられないことのはずだ。マイクはそれを何年もやっている。頭がおかしいのだ。
「あなたもいかがですか。食べれば不老不死の効果が得られますよお」
 ひょひょひょと男が笑った。狂人。この男も狂人だ。こんな狂人の巣窟に、やはりパールを置いていってはいけないのではないか。
 リオはなんとか「遠慮するよ」とだけ絞り出すと、パールの部屋へと急ぐ。
 青く光る部屋のレースのカーテンを抜ける。予約をしていたため、もちろん部屋にはパールしかいなかった。ついいつものくせで扉を閉めかけるが、イーサンに足を挟んで制され、はっと約束を思い出す。
 ここでやりあう意味はない。おとなしく扉を開け放したまま、ベッドへ走り寄る。
「パール」
 ベッドのそばにしゃがみこむ。
「パール。分かる? 僕だよ。リオだ」
 リオはさっとパールの全身に視線を走らせる。約束を破ったパールにマイクが鞭を振るったりしていないかと心配だったのだが、パールの皮膚は蒼々といつもの美しい白さをたたえていた。
 やはり、マイクはパールを特別に気に入っているのだ。気に入って、彼なりに大切にしているのだ。
 リオはひそかに胸を撫で下ろす。パールが天井に向けていた顔をゆっくりとこちらに向け、焦点の合わない瞳で柔らかな微笑を浮かべる。
「この間は悪かったね」
 パールの髪に指を絡める。指に油がまとわりつく。
「冷たい水で乱暴に洗ったりなんかして。風邪をひかなかった?」
 こくり、とパールが頷きを返す。「よかった」と安心したリオだったが、はたと違和感を覚える。
「パール?」
 呼び掛けると、パールは小首をかしげた。やっぱりだ。
「どうしてしゃべらないの?」
 リオの質問に、パールはちょっと困った顔をした。物言いたげに口を開くが、やはり言葉は発さない。リオは背後の扉を振り返ってから、パールに視線を戻す。
「イーサンがいるから?」
 目の見えないパールには、この部屋の扉が開いていることも、その戸口にイーサンが控えていることも分からないはずだ、とは思う。しかし鋭敏に気配を感じ取ったのかもしれない。
 ぱちぱち、とパールが不思議そうに目をまたたかせた。すぐに首を横に振る。
「じゃあ、どうして?」リオは首をひねる。「マイクに命じられたの? もう、僕と本当にしゃべっちゃいけないって」
 パールが眉を八の字にする。しきりに唇を動かしはするのだが、相変わらず声は発さない。リオはじっと彼の唇を凝視して、その動きから言葉を読み取ろうとする。
 神経を集中させていると、自然耳も研ぎ澄まされたのだろう、不意にかすれたような小さな小さな音が聞こえた。
 パールの唇は何か短い言葉を繰り返している。四文字ほどの……。また、かすれた音。どうもそれがパールの口から聞こえた気がして、彼の口元に耳を寄せる。
 ……かれた。やかれた。
「やかれた?」
 リオは聞こえたままを繰り返した。すぐにはその音が意味を伴っては頭に入ってこない。ようやく通じてほっとしたのだろう、パールが嬉しそうにこくこくと頷き、不意にむせる。激しく咳き込んで、口から血の混じったつばが飛ぶ。
 やかれた。焼かれた?
 リオはざあっと全身の血の気が引くのを感じた。ふっと意識が遠のき、背後に倒れかかる。慌ててベッドの縁を掴んで持ちこたえる。
 焼かれた? 喉を? リオとしゃべった罰として?
 パールの首を見る。外傷はない。となると、熱した鉄の棒か何かを喉に突き込まれたのか。
 一度は引いた血が、今度はいちどきに全身で煮えたぎった。
 約束を破ったのは、確かにいけないことかもしれない。しかしマイクがくだした罰は、明らかに度を越している。
「逃げよう」
 知らずリオは言った。口にしてから、そうだ、と思いを固める。そうだ。それしかない。パールを連れて、今すぐここを脱出しよう。
 先日、マイクは断固としてパールを売らないと言った。しかしもう一度、今度は彼が折れるまでしつこく、なりふり構わず交渉しよう。
 リオはパールのためならば、公衆の面前で無様にマイクに頭を下げてもよかった。何十分でも、何時間でも、金ならいくらでも出すからパールをくれと、愚直に訴え続けることもいとわない。
 それでもマイクがパールを手放さないと言うのなら、パールを抱えて強行突破しよう。リオは屈強な男たちに敵わないだろう。通路を進んでは片手で突き返され、進んでは片足でいなされるだろう。
 もう今日の仕事は終わったのだから、舞台衣装がいくら汚れたって、全身が傷やアザだらけになったって、そしてどれほど時間がかかったっていいのだ。リオはくじけず出口を目指し続ける。マイクがその不屈の精神に感心して——、いや、そのみっともなさを哀れに思って、とうとうパールを連れていくことを許可してくれるかもしれない。結果的にパールを手にすることさえできれば、リオは格好などどうでも構わないのだ。
 見世物小屋からパールを引き取ったことで、リオの一家は死ぬまで後ろ指を指されることになるのかもしれない。それは両親にすまないから、そうしたら、リオはパールと二人で暮らそうか。両親には勘当をしてもらって、両親は関係ないんですと、全て僕の一存なんですと公表して、どこか郊外に小さな部屋でも借りて、パールと二人で暮らそうか。
 当面の金銭は、貯金を切り崩せば大丈夫だ。なくなれば、働けばいい。
 パールを引き取ったことでリオの人気は地に落ち、今までのようにマジックで稼ぐことはできなくなるのかもしれない。しかし、リオはなんだってする。有名なマジシャンであるリオは顔が知れわたっているから、まともなところは「おい、あれが十二歳で見世物を買ったリオ・アンダーソンだぞ」と見下して雇ってくれないかもしれない。だけど、労働者を使い捨てのように扱う日雇いの仕事ならば、どこかは必ず雇ってくれるはずだ。楽しい仕事ややりがいのある仕事ではないだろうが、パールと共に暮らすためならば、リオはそれで一向に構わないのだ。
 リオはじっとパールを見つめる。パールがただ、頷いてくれればそれでよかった。目にいっぱい涙を溜めて、感極まった表情でただこくりと頷いてくれさえすれば、リオは全てをなげうってでも彼を救い出す覚悟があった。
 けれど、パールは短く首を横に振った。
 まだそんなことを言っているの? とでも言いたげな冷たい表情で、取りつく島もなく首を横に振った。
 リオは胸が苦しくなる。それからやるせなくなった。一人で勇み立っていた自分が、急に恥ずかしくなってくる。
「帰るよ」
 リオはしょんぼりと立ち上がった。
 パールがきょとんとする。彼の唇が動く。早いね、とでも言ったのだろうか。続けてパールの唇が動く。もう何度も聞いた挨拶だ。音はなくともすぐに分かる。「またね」と。
「また、はないよ。ここでの僕の仕事は今日でおしまいだ。もう、君とはお別れなんだ」
 優しく言ってやりたかったのに、つい責めるような口調でまくし立ててしまった。
 パールがぱちぱちと目をまたたかせる。リオはひそかに期待していた。彼が取り乱して「助けて」と、「やっぱり連れていって」と取りすがることを。
 パールは平淡な表情で唇を動かす。
 ばいばい。
 リオは鼻の奥がつんとした。歯を食いしばると、返事もせずにパールに背を向ける。
 大股で部屋を出る。イーサンはリオの顔を見て、どうなさいました、とも、もうよろしいのですか、とも聞かなかった。ただ黙って通路を出口へと向かい始める。いつもはリオの後ろに控えているイーサンに、リオは今、隠れるようにしてついていく。
 屈強な男たちが何人か、別れの挨拶をするためにこちらに寄ったが、リオの歪んだ表情を見ると一様に口ごもって身を引いた。遠くで白衣の男の鼻唄が聞こえる。リオはイーサンを盾にしながら、ずんずんと見世物の檻の間を出口へと進んでいく。秘密を守れなかったことをパールに詫びそびれた、と気付く。もう戻れない。出口のデゴスがリオに寄りかけて、やはり身を引く。
 Den of FREAKSの外には馬車が待っていた。リオはわざと荒々しく乗り込み、どっかと座席に腰を下ろす。イーサンも乗り込んで、対角線上に静かに座る。彼の脇にはリオのボストンバッグと、デゴスからの花束が整然と置かれている。彼は下手な慰めを口にすることも、心配そうにこちらをうかがうことすらせず、まるでいつも通りに背筋を伸ばしてしゃんと座っている。彼は優秀な従者なのだ、と改めて身に沁みる。
 動き出す馬車の中、リオは窓へと目を向ける。窓にかかったカーテンには美しい模様が織り込まれている。今は、にじんでよく見えない。

(了)