27
午前六時二十四分。
バケツをひっくり返したかのような勢いで降り続いた激しい雨は、今朝の四時頃ぴたりと止んだ。
青空は澄み渡り、森の中は帰ってきた晴天を喜ぶ虫や鳥や蛙の鳴き声で騒がしい。北野がほんの五十センチも進めば転落してしまう崖下では、渓谷を流れる濁流がごうごうと一際うるさい唸りを上げている。
三十分ほど前から、北野は組み立て終えた電動車椅子に腰かけて、かちん、かちんと手持ち無沙汰にレンチやドライバーをもてあそんでいた。
この高速電動車椅子で実際に走行したのは、小学四年生のときに一度きり。
だけど機械のメンテナンスや空回しはときどきしていたし、旅に出る直前にも動作確認をした。
問題は駆動輪だ。電動車椅子の要となるモーターはリュックサックに押し込んで持ってきていたが、スポーク(針金)とタイヤはスペースの関係で家に置いてきた。
それらを置いていくために家で分解をした際、北野はその駆動輪の構造を理解した。とはいえ外から見たままの単純なものだ。駆動輪の中心に位置するモーターのカバーにはいくつか穴が開いており、その穴にスポークを通して折り曲げ、強力な接着剤で固定してある。
それならば、自転車の車輪のスポークを切断してモーターのカバーの穴に通し、折り曲げて接着することで電動車椅子に流用できるのでは、と思い立ったのが二日前。
果たしてそれは成功した。
自転車の車輪の方が電動車椅子の車輪よりも二インチ大きいため、心持ち前のめりにはなるが許容範囲だ。先ほど電動車椅子を逆さにして空回しをしたが、なんの問題もなく作動した。
また、車椅子はその安全性を高めるため、フレームのパーツ分割は最小限になるよう成型されている。しかし今回、無理やりリュックサックに詰め込むためにフレームを適当なところで分割していた。
アルミ素材のフレームを切断するため、北野は久しぶりにバンドソーのあるDIYワークスペースに赴いた。車椅子を玄関まで引っ張り出して、両親に「ちょっと工作してくるよ」と声をかけると、父は「お、久々に工作魂に火がついたのか?」と笑顔で送迎してくれた。母は「それ、子供の頃に使っていた車椅子じゃないの?」と顔を曇らせたが、北野が「リメイクだよ、リメイク。ずっとしまっていても仕方ないし。これをもとに次世代車椅子でも作ってみようかと思ってね」と笑うと、「怪我だけはしないようにね」と心配しながらもどこか嬉しそうにしていた。
切断してしまったフレームを接続するため、二日前にホームセンターでメタルジョイントと電動ドリルを購入した。
組み立てた電動車椅子に座ってみると、少し軋んだが案外危なげなかった。
長距離を走れば、振動で次第にジョイントのナットが緩んでフレームがばらばらになってしまうかもしれない。しかし、そんな予定はない。
がっ、ばたん。
待ち望んでいた音がようやく訪れ、北野は自然と満面の笑みをにじませて振り返った。
昨日まで己の中にあった焦燥感は、もはやない。今はただ、腹の決まった爽快感だけがある。
「おはよう」
「はよ。スゲーいい天気」
満身創痍の軽のミニバンから降りた砂日は、すがすがしい顔で伸びをした。早朝から北野が外で電動ドリルを振り回していたにも関わらず、鈍感な彼はぐっすりと安眠できたようだ。よかった、と素直に思う。
「晴れたなぁ!」
砂日はつい先ほど自身が発したものとまったく同じ意味の台詞を、噛み締めるように言い直した。北野は「晴れたね」と同意してやる。
「山下りてさ、飯食いに行く?」
砂日が晴れ渡った空から視線を外し、北野を見る。そこでようやく北野の車椅子に意識が留まったようで、「お」と目を細めた。
「車椅子じゃん」
「車椅子だよ」
「できたんだ?」
「そうそう」北野は微笑んで、話を戻す。「朝ごはんさぁ、パンならあるよ。昨日買ったのを残してたじゃん」
「だっけ。車?」
「ここ、ここ。ちなみに俺はもう食べた」
きびすを返しかけた砂日に、膝の上のレジ袋を掲げてみせた。「あ! お前」と砂日がふざけたように声を荒げ、ずかずかと大股でこちらに来る。
「一人で先に食ったの? ずるくねぇ?」
「ずるくないって。四つあったうちの二つだけだから、平等でしょ?」
「何食ったの?」
「ベーグルと大麦パン」
砂日が北野の手からレジ袋をもぎ取る。左の曲げた肘の内側に袋の持ち手の片方をひっかけると、右手でごそごそと中を探る。
「お! 焼きそばパン、と、照り焼きチキンパンー」
彼はラインナップに満足したようだ。
北野の隣の地べたに座りかけた彼に、「あ、下濡れてるよ」と教えてやる。雨は上がったが、地面はまだぬかるんだままだ。レジ袋を指し、「それ敷いたら?」とアドバイスをする。
砂日は右手で胸元に二つのパンを抱えると、左腕を伸ばして地面にレジ袋を落とした。左腕の先端で器用にレジ袋の形を整え、その上にあぐらをかく。あぐらの上にパンを二つ置き、まずは焼きそばパンを持ち上げて口で封を切る。北野は、上機嫌に焼きそばパンにかぶりつく砂日を微笑ましく眺める。
彼はまたたく間にボリューム満点の二つのパンを腹に収めた。「このあとさぁ」と北野を見上げる。
「すぐ出発する? もう一眠りする?」
「もう一眠りって、さっきまで寝てたでしょ?」
呆れ顔をした北野に、砂日は「食ったら眠くなるじゃん。あとは帰るだけだから、もう急ぐこともねぇし」と悪びれた様子もなく言った。
「結構さぁ、道なき道っつうか、無理やり来たから、ちゃんと帰れんのかね」
「さあ、どうだろうね」
「うわ、テキト〜」
砂日が朗らかに笑う。
無邪気な彼は、帰るつもりでいる。
エンジンがまともにかかるかも定かではない大破した車を運転して、埼玉県の家まで帰って、家族に武勇伝を話して、学校にも復帰して。
車を盗んだことも、無免許運転をしたことも、人を殺したことも、何ひとつ問題視しておらず、ただ能天気に明るい未来を思い描いている。
それでいい。
北野は、くだらない正論を吐いて、口論をして、無意味に場の空気を悪くするつもりなど毛頭ない。
だって、もう終わりなのだから。
「砂日」
「ん?」
両手を差し出した北野に、砂日が首をかしげる。
「何?」
「ハグしようか。この九日間、すごく楽しかった。きみのおかげだよ。本当にありがとう」
「何、急に。キモ〜」
口では悪態をつきながらも、砂日は笑顔で立ち上がる。
北野は穏やかな表情で彼を待つ。砂日が気だるそうな演技をしながら北野の前まで移動する。北野は彼に手を伸ばす。砂日を抱き寄せるとともに、手を差し出す直前に指に挟んだビニール紐を彼の背中で硬く結ぶ。二本のビニール紐の片端は、それぞれ北野の車椅子のフレームにくくりつけられている。
左手を彼の背中に回したまま、右手を電動車椅子のジョイスティックに伸ばす。深く息を吸い込む。一息に、ジョイスティックをマックスまで倒す。
ぎゃん、と体が加速する。目を剥いた砂日の表情が愉快だ。間もなく崖端に到達する。二人を乗せた電動車椅子が宙を舞う。北野はジョイスティックから手を離し、両腕で砂日の背中を強くかき抱く。
なんで。
音になったかならずか、しかし確かに砂日がそう問うた。
なんで?
北野は、砂日にもう自殺をする気などないことをよく分かっていた。
もしかすると、彼は初めから自殺をする気などなかったのかもしれない。
ただ、つまらない毎日に刺激が欲しかっただけのこと。
しかしどうあれ、一緒に死のうと初めに誘ってくれたのはきみだろう?
俺は死に場所などどこでも構わないけれど、こうしてきみの行きたいという場所まで付き合ってやった。
となれば、今度はきみが俺のわがままに付き合う番では?
全身に衝撃。
激流に揉まれ、息ができない。がん、ごん、がん、と続けざまにあちらこちらを岩で強打する。もはや砂日の姿は見えず、ただ腕の中にもがく彼の感触だけがある。体が二転三転し、ぐわん、と一際強くどこかに背中を打ちつける。
水中で動きが止まった。
川の流れはなおも二人を押し流そうと圧をかけるが、不思議とその場で揺らされるだけで流されない。目を開ける。水の濁りでてんで状況が読めない。ぶつけた全身が痺れるようで感覚が不明瞭だが、体の一部を岩のどこかに挟まれてしまったのかもしれない。それとも車椅子か義足、はたまた砂日が岩に挟まれたのだろうか。
別になんでも構わない。
北野は気を失いそうになるのを懸命にこらえる。胸のあたりが灼けるように熱い。ほとんど気狂いのようにもがき出した砂日を、そう暴れるなよと抱きしめる。
やがて、砂日の動きが止まる。
腕の中のそれが、ぐでんとしたただの物体になったことを感知する。
北野は安堵し、最期の息を吐き出した。
(了)