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25

 一夜が明けた。
 バラバラと大きな雨粒が車体を叩く。昨晩からずっと雨が降っている。
 今朝「よく降るなぁ」とぼやいた砂日に、北野が「台風らしいよ。速度が遅いみたいで、金、土と近畿地方に停滞してるんだって」と教えてくれた。彼に訊ねて、砂日は今日が土曜日であることを知った。

 北野は昨日、ホームセンターで買い物をしてから、隙間時間にちょこちょこと後部座席での作業を始めた。
「何してんの?」
 砂日が聞くと、彼は「自転車の車輪をさ、車椅子に付け替えられないかなと思ってさ」と答えた。
「きみとメカの話をしたから、久しぶりに触りたくなっちゃった」
「付け替えって、そんなことできんの?」砂日は目をまたたかせる。「できるんなら、あれ、お前が歩けなくなったときにやりゃあよかったのに」
「歩けなくなったとき?」
「お前の足がグロくなったとき」運転席から後部座席に身を乗り出す。「そうだよ! 時速四十キロ出るんだろ? マジであのとき付け替えりゃよかったじゃん」
「ああ、汗疹ができたときね」北野は合点がいったように笑う。「時速四十キロでの移動はできないよ。スピード違反で怒られるし、バッテリーの関係で五分ぐらいしか走れないから。そもそも、やってみてるだけで本当に付け替えられるかも分からないし」
 砂日は「ふうん」と唸ると、シートに体を沈めた。

 そして、土曜日の今日だ。
 車は高速道路を走ったり下道に降りたりしながら、順調に走行していた。
 あと三十分ほどで和歌山県だというところで、運転席の北野が突然ウィンカーを出してどこかの駐車場に入った。
「何?」
 砂日はカーナビの時計を見る。北野と運転を代わってから十五分が経過していた。
「交代?」
 シートベルトを外す。北野が「ううん」と首を横に振る。
「ここ、ちょっと寄っていい?」
「なんの店?」
 建物を振り仰ぐ。カントリー風とでもいうのか、絵本に出てきそうな素朴な建物だ。
「ベーカリーだって。中で食べることもできるみたい」
「ベーカリー? パン買うの?」
「パンと、あとコーヒーが飲みたい」
「コーヒー?」眉をひそめる。「じゃあ、俺待ってるからなんか適当に買ってきて」
 時刻は十時二十分。小腹は空いたが、昼飯にはまだ早い。
「砂日も一緒に降りよう」
 北野が甘えた声を出した。
「なんで?」
「こういうお店でゆっくりしたい」
「ゆっくりってさぁ。せっかくもうすぐ着くのに……」
 砂日は口を尖らせた。カーナビの表示では、目的地のキャンプ場まであと二時間三十分となっている。しかし北野はゆずらない。
「もうすぐ着くんだから、いいでしょ? ちょっとぐらいゆっくりしても。二人でお茶しようよ」
「……しゃーねぇなぁ」
 肩をすくめた砂日に、北野が「やった。ありがとう」と目を細める。
 これまでの人生で、砂日の身近に呑気でマイペースな人間はいなかった。
 初めの神経質でしっかりものの北野より、今ののほほんとした北野の方がはるかに扱いにくい。つい彼のペースに甘んじてしまうのだ。
 台風のせいか、時間帯のせいか、店内は空いていた。三十代ぐらいの女性が一人、ノートパソコンを広げてイートインスペースの隅に座っているだけだ。
 二人は二つずつパンを選んだ。飲み物は、コーヒー類を除くと牛乳とココアとオレンジジュースしかなかった。砂日はオレンジジュースを頼むと、北野に会計を任せてイートインスペースに向かった。
 ほどなく北野がトレーを手にやってきた。
 先ほどパンを選ぶ際に使った、白いプラスチックのトレーではない。おしゃれな木製のトレーの上に、パンが二つずつ並んだ白い皿が乗り、端にオレンジジュースのグラスが置かれている。
 食べ始めてしばらくすると、店員が北野のコーヒーを運んできた。
 パンはうまかった。オレンジジュースは、かえって喉が渇きそうなほどに濃厚だった。
 ぽつりぽつりと、北野となんでもない話をした。高い天井ではシーリングファンが回っている。店内には落ち着いたBGMが流れている。
 気付けば砂日は眠っていた。
 はたと目を覚ます。なんとはなしに店内を見回す。来店時よりは客が増えているものの、まだ席には十分な余裕がある。
 空になったパンの皿は片付けられており、新たにミニクロワッサンが三つ乗った皿と、ラスクの入ったプラスチックのカップが置かれていた。砂日が寝ている間に北野が買い足してきたのだろう。
 頬杖をついて窓の外を眺めていた北野は、砂日がさくさくとミニクロワッサンを頬張る音に反応してこちらを向いた。
「おはよう」
「はよ。何時?」
「お昼」
 北野は腕時計を見ずにうっそりと微笑した。
 調子が狂うな、と砂日は窓の外に視線を転じる。雨脚は強まっているようだ。もう行こうぜ、と砂日が提案する前に北野が口を開く。
「ずっとこうしていられたらいいのに」
「何?」
 砂日は目をすがめて北野を見た。反対に、北野は窓の外に目を向ける。
「なんか、旅が終わるのが惜しくなってきた」
「なんだよ」砂日は笑う。「寂しいの?」
「そうかも」
 からかい半分で訊ねたのだが、間髪入れずに同意されて面食らう。
「ああ、そう」
 砂日は鼻を鳴らした。キモいな、とにやりとする。決して不快なわけではない。
「旅が終わるっつっても、着いたら終わりじゃねーんだから。アレだろ? うちに帰るまでが遠足です、っつうじゃん」
 北野が目を見開いてこちらを見た。砂日は続ける。
「なあ。なんならさ、来年もどっか行く?」
「来年?」
「どっちでもいいけど。あれ、俺らって何歳から稼げるんだっけ?」
「バイトなら高校生からできるけど」
 北野は目をきょときょとさせている。砂日は「じゃあ、高校生になったらバイトして、沖縄か北海道に行こうぜ」と提案した。口に出してから、我ながら名案だと思った。すぐにもっといいことを思いつく。
「俺さぁ、夏休み終わったら学校行こうかな」照れ隠しの伸びをする。「お前、頭いいんだろ? 夏休みの間さ、俺に勉強教えてくれよ」
 砂日はてっきり、北野が勢い込んで「いいよ」と即答するものだと思っていた。なぜなら、彼は砂日との旅が終わるのを寂しいと言っていたからだ。旅が終わってもまだまだ一緒にいられるぞと伝えれば、きっと喜んでくれる。しかし予想に反して、北野はただ放心したように砂日に見入った。
「北野?」
 いぶかしんで彼の名を呼んだ。北野がハッとして「あ、ああ」と取りつくろうような声を出す。
「なんだよ。嫌なの?」
「ううん」北野がぶんぶんと首を横に振る。「嫌じゃない。ちょっとびっくりしただけ」
「ああ、そう」
 それならいい、と砂日は微笑んだ。
 二人は、残り二つのミニクロワッサンをひとつずつ食べた。
 蓋を閉めたラスクのカップを持つと、店を出た。