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 すな龍騎たつきは、家から徒歩二十五分の駅前のカフェのオープンテラスに座って《☆》というハンドルネームの人物を待っている、はずだった。
 しゃわしゃわと背後から噴水の音。
 十五分前、一度はカフェの自動ドアを抜けたのだ。
 しかし、エスプレッソだの、カフェなんたらだの、せいぜいがオレンジジュースだの、そういった心惹かれないわりには異様に高いメニューを一瞥いちべつし、きびすを返した。手近な自動販売機でグレープ味のサイダーを購入し、涼しげな水の音に誘われて噴水のふちに腰を下ろし、今に至る。

 ああ、死のうかな。

 思い立ったのは一ヶ月前。
 中学二年生の砂日が不登校になったのは、小学二年生の五月だったか。
 これといって親しい友人のいない学校は、もともと退屈だった。といって、不登校になるほどの大きな事件が起きたわけではない。きっかけは本当に些細なことで、ある日の夕飯時にテレビで流れていた不登校児の特集だ。母親がテレビを見ながら「大変だねぇ」と気の毒そうにこぼした。その翌朝、朝食を前に砂日はこう宣言した。
「俺、今日学校行かない」
 半ば思いつき、半ば嫌がらせの心境だった。
 物心ついた頃から、砂日は両親のことが嫌いだった。
 虐待を受けたことなどない。彼らはとても優しい。ただ、我が子であるのに終始はれものに触るかのようにおどおどとこちらの様子をうかがうのが嫌だった。
 弁当を詰めていた母親が虚をつかれたように静止した。父親は味噌汁をすするのをやめ、目を伏せたまま緊張の面持ちでことの成り行きを見守る。母親がいつもの怯えた表情を砂日に向け、しばらく口をもごもごさせてから「そう……」と視線を泳がせた。
「そう。そっか。うん、いいよ。たっちゃんがそうしたいなら、そうしようか。無理しなくていいからね。今日はお休みしようね。お母さん、学校に連絡しておくからね」
 震えた声で言いきり、電話へと向かう。父親が無言で食事を再開する。
 彼らは我が子を叱りもさとしも、詳しい事情を聞こうとすらせずに、ただ天災に遭遇したかのように砂日の宣言を受け入れた。
 それから一日が過ぎ、三日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎても、彼らに登校をうながされることはなかった。
 初めこそ、通学していたときのように二十二時までには就寝、八時頃起床、飯の時間には食卓についていた砂日だったが、まもなく好き勝手な時間に寝起きするようになった。十一時に目覚めたある日、部屋の前にラップをかけたおにぎりの皿が置かれていたのを皮切りに、食卓につく回数はまばらになった。
 毎週末、学校から自宅にプリントが届けられた。毎月、砂日が不登校になってから契約したらしい通信教材の束も届いた。砂日がそれらに取りかかることはついぞなかった。部屋の前に手つかずのプリントや教材が小高い山となっていても、両親は小言のひとつも言わなかった。
 ありあまる暇は、小学一年生のときに買い与えられていたスマートフォン、また、自室にあるテレビとテレビゲームで潰した。不登校になる前は、母親がリビングで録りためたドラマを見ている間、砂日の部屋で父親とカーレースのテレビゲームをするのがつねだった。「たつ、上手い上手い! さすが俺の子だよ。あぁ、俺男の子生まれてよかったぁ」とハンドルコントローラーに手をかけてへにゃりと笑っていた父は、砂日が不登校になるとぱったり部屋を訪れなくなった。
 両親とのまともな会話は、もう何年もない。
 それでも小さな家の中、リビングで話す彼らの声は自然と耳に入ってくる。
 近所の○○くんが県大会で優勝したらしいよ。××ちゃんは英語が得意だから、留学制度の整った高校に行くんだって。△△くんは高校に行かず、家庭を助けるために働くそうだよ。
 長年聞き流してきた雑談に、ふっと意識が引っかかったのが一ヶ月前のこと。
 あれ?
 これから俺、どうすんだ?
 ああ、もう、死のうかなぁ。
 不意にそんな気になって、スマートフォンを手に取った。
 小学生の頃に使っていたものは、とっくにまともに反応しなくなっていた。今使っているものは、中学校の入学祝いにとせびって買わせたものだ。
 入学式は行った。翌日の授業も出た。それきりまた不登校になった。
 だって、毎朝決まった時間に起きるのは面倒だし、何時間も机に向かってなどいられないし、何より授業が分からない。
 砂日はいつも見ているインターネットの掲示板を開いて、すぐに閉じた。
 莫大な退屈を持て余す砂日にとって、利用者のたくさんいるその匿名掲示板は楽しい場所だったが、今から自分がする書き込みにはふさわしくないと感じた。きっと大勢に茶化され、おちょくられ、おかしな説教をされて終わってしまう。
 一対一でしゃべりたい。俺は今、パートナーを探しているのだから。
 アプリのストアを開く。検索ワードを悩んだのち《友達》と入力する。候補に出てきた《友達作り》をタップし、一番上のチャットアプリをダウンロードする。アプリを開くとプロフィールの設定画面が表示される。名前を《龍》とし、自己紹介欄にこう打ち込む。
《一緒に自殺しませんか?》
 ベッドに仰向けに寝そべり、腹の上にスマートフォンを置いて目をつむる。
 ぶぶ、と予想の五十倍早くバイブレーションが鳴って跳ね起きた。
 肩を越して伸びた髪を払うように後ろに流す。不登校になってから、一度も散髪に行っていない。ときどき自分でざくざくと切るが、面倒なためその頻度は高くない。スマートフォンのロックを解除する間に、ぶぶ、ともう一度バイブレーションが鳴る。
《興味あります》
《そういうこと書いたら、アカウントすぐ消されると思う。捨てアド取るからそっちで話そう》
 《☆》というハンドルネームの人物から届いた二つのメッセージを読んでいると、追加でメールアドレスが送られてきた。砂日は要領を得ないままタップして☆にメールを送る。
《よく分かんないけど、メールがいいの?》
《アカウント消されると思うから》
《なんで?》
《不適切な単語だから》
 砂日には意味がよく分からなかった。とはいえ、いつまでも本筋から離れたところでぐずぐずしていたって仕方がない。話を戻す。
《自殺興味あんの?》
《うん》
《いつにする?》
《いつっていうか、場所は?
 俺は関東なんだけど、きみはどこ?》
《埼玉県○○市△△区》
《個人情報、大丈夫?笑
 めちゃくちゃ近所です》
 会話はスムーズだった。ただ、日程を決める段階になって☆は一ヶ月も先の日付を指定してきた。
《先すぎ。俺、明日でもいいんだけど》
《この日じゃないと無理。いろいろと忙しいから》
 ☆は、忙しいのか。忙しいのに死ぬのか。
 不思議な心持ちになりながら「一ヶ月なぁ〜」と嘆息する。
 どうせなら勢いに乗ってすぐにでも自殺したかった。とはいえ☆を蹴ってしまうと、もう自殺の同行者は見つからないかもしれない。すでに一時間近く彼とやりとりをしていたが、その間に彼以外からのメッセージは一通も届いていなかった。
《じゃあその日で。多分忘れるから、近くなったら連絡して》
《はーい。ていうかさっきも言ったけど、できれば行き先聞いておきたいんだけど》
《それは当日のお楽しみ。そんなに遠くないとこだから》
《了解。じゃあ、また》
 画面をスリープさせる。☆の本名も顔も年齢も分からない。思えば自殺の動機も聞いていない。
 わくわくと胸がはやる。
 こんな興奮、いつぶりだろう。

 一ヶ月間、約束の日が待ち遠しくてたまらなかった。
 忘れると言っておきながら、あまりに楽しみでカレンダーのアプリに予定を登録して、毎日眺めて過ごした。真っ白なカレンダーに踊る《自殺》の二文字が輝かしかった。
《明日だよ。午前九時半に○○駅前のカフェでいい? もし先に着いたら、窓際の席か、できれば外に座ってて》
 昨晩《☆》からメールが届いた。砂日はそれを読み、ベッドの上で何度も何度も飛び跳ねた。

 それにしても、遅いな。
 砂日はスマートフォンの時計を確認する。午前九時二十分。ここに到着してからそろそろ二十分が経過する。五分前に☆に《まだ?》と送信したのだが、返信はない。もう一度送ろうかとメールアプリを開く。同時に☆からのメールを受信した。
《駅に着いたよ。カフェだよね?》
《噴水》
 ぬるくなった缶ジュースをわきに置き、左右に目をやる。駅前は混雑を極め、噴水のふちには多くの人が腰かけている。☆からメールが届く。
《どれだろう。特徴は?》
《左手がない》
 もっとも分かりやすく、人と被りにくい己の特徴を送信した。次の瞬間、斜め後方から大声で名前を呼ばれる。
「砂日くん?」
 待ち望んだ初対面に喜び勇んで振り返る、最中さなか、違和感を覚えて口を曲げた。
 砂日くん?
 俺が☆に名乗ったハンドルネームは《龍》だ。
「ああ、やっぱり砂日くんだ。びっくりしたぁ。俺、覚えてる? 覚えてないかな。同じ中学で、学年も同じだよ。入学式で新入生代表挨拶した、北野っていうんだけど」
 整った笑みを浮かべた少年はこちらの険しい顔を気にも留めず、自転車を引いて砂日の前まで移動した。
 落ちついた茶色の髪。くっきりとした平行の二重の下には、頭髪と同じ薄い色の瞳が並んでいる。端正で利発そうなその顔立ちに、無論覚えはない。
 同じ中学、とことさらに言ったということは、幼稚園や小学校は違うのだろう。たかだか一度や二度同じ校舎にいただけの砂日をよく覚えていたなと驚くが、もしかすると彼は顔や背格好ではなく、体のまれな形状で砂日のことを記憶していたのかもしれない。それならば合点がいく。先ほど☆にメールで伝えた通り、砂日は生まれつき左手首から先が欠損している。
「ここ、いい?」
 少年は自転車のスタンドを下ろし、砂日の隣を指で示した。わざわざ隣に座ってまで、一体何を長々と話す気でいるのか。学校のよさを語って、登校するよう説得か?
 砂日はぷいっと音がするほどあけすけに顔を背けた。スマートフォンに視線を落とす。
 駅前でたまたま不登校の同級生を見かけ、会話をしたことすらない間柄なのにも関わらず臆面なく声をかける社交性、ボランティア精神、大いに結構、勝手にしてくれ。
 しかし、今の砂日に『新入生代表挨拶に選ばれるような、活発でよくできた社交的な同級生』の相手をしている暇などないのだ。今会いたいのはただ一人、『友達作りアプリで自殺の道連れを探すような、どうしようもない手遅れの男である☆』だけなのだ。
《まだ?》
 ☆にメールを送信した。ぶぶ、と近くでスマートフォンの震える音。目の前の同級生が「ちょっとごめんね」とポケットからスマートフォンを取り出して、画面を見て微笑する。彼がディスプレイをこちらに向ける。メールの受信画面だ。
《まだ?》
 唖然とした砂日に、快活な同級生がひらひらと顔の横で片手を振ってみせる。
「来たよ。《龍》くん。俺が《☆》です」