表紙に戻る

16

 朝食はコンビニでパンを買った。「車を貸してくれる人との待ち合わせにちょうどいい場所を探そう」と、朝食を終えてからしばらく歩いた。何十年も前はにぎやかだったのだろう、過疎化と高齢化が進んだしなびた住宅街の小さな公園を見つけ、ここにしようと北野は言った。朝の八時頃の話だ。
 日中、午前中はハンバーガーのファストフード店で、午後からはファミリーレストランで時間を潰した。夜にはお金が手に入るから使っちゃおうと北野が言うと、砂日は無邪気にはしゃいでいた。
 生来、北野は食事が終わったのにも関わらず三十分も一時間も店に居座るのは悪いような気がする性質たちだったが、今日は一向にそんな気が起こらなかった。店が迷惑したって知ったことではないという横柄さすらあった。ファミリーレストランの店員が、北野たちを一番隅の席に案内しながら鼻を曲げていた。
 ああ、温泉でも探そうかなと思ったが、今風呂に入ると《あいつ》と会うために体を綺麗にしたようで嫌だった。

 昨晩、北野は《あいつ》に電話をかけた。
 長い呼び出し音が響き、一度は切れた。間を置かずもう一度かける。しばらくの呼び出し音を経て、「はい」と警戒するような声が聞こえた。
「ユウさん?」
 無言。あのときから北野は電話番号を変えていない。ユウはこの電話が北野からだと分かっているはずだ。
 とすると、いぶかしんでいるのか。
 安っぽいサスペンスドラマのような場面。スマートフォンを持った北野の周りには、両親と、警察か探偵がいる。北野が会話をしている隙に、警察か探偵がGPSでユウの居場所を突き止める。彼は今、そんな子供じみた妄想をしているのかもしれない。
「ユウさん、お久しぶりです。僕、北野ですけど」
「人違いじゃないですか? 僕はユウじゃないです。先週携帯を変えたばかりだから、前の番号の人にかけ間違っているんじゃないですか」
 異常なまでの早口は、ユウの狼狽を表していた。北野は「落ち着いて」と優しい声で言う。
「ユウさん、僕は今一人です。この間はすみませんでした。びっくりしちゃって……。友達が勝手にやって、僕、何も聞いていなかったから。それで、ですね。僕は今、家出しているんですけど」
 ユウの反応を見るために間を置いた。ユウは何もしゃべらない。ただ息をひそめている。北野は話を続ける。
「お金がもう、なくなっちゃって。足ももうひどくて、歩けなくて、だけど、帰るのは嫌だし。それで、どうしようって思って、俺、」
「一人なの?」
 ようやくユウが口をきいた。「一人です」と北野は即答した。正確にはすぐ後ろに砂日がいるが、彼は苦楽をともにするパートナーではなく、ただただ北野を衰弱させるだけの金食い虫だ。
「一人なんだね?」
「一人です」
 確かめるようにもう一度聞いたユウに、きっぱりと繰り返した。ユウは真偽を確かめるように間を置く。北野はあえて何も言わなかった。やがてユウが口を開く。
「どうして家出なんかしてるの?」
「分かるでしょう?」
 北野は知らず自嘲した。ユウは「分かる」とも「分からない」とも答えなかった。だが、彼には思い当たる節があるはずだ。ユウは重い息を吐き出し、「……それで?」と先を促す。
「それで、きみはどうして俺に電話してきたの?」
「助けてほしいんです」
 あまりにシンプルな要求に、ユウが笑った。見下すような笑いだった。
「助ける?」
「お金を貸してほしいんです」
「返すアテは? ないだろ?」
 ユウは、この会話の中で立場が上なのは自分の方だ、という確信を得てきたようだ。ひどく小馬鹿にした物言いだったが、北野は腹も立たなかった。ただ、思いつめた、懇願するような口調を作る。
「いつか、いつか必ず返しますから」
「大体さ、俺に金借りて? そのあとどうするの。いつかは金が尽きるでしょ? きみ、中二なんだからさ。バイトもできない。部屋も借りられない。いつ補導されて親元に返されるかもしれないし、いつまでも家出はできないよ」
「……でも……」
「じゃあいいよ。特別サービス。貸してやる。口座番号は?」
「……口座番号……」
「口座番号。何? まさか直接持ってこいっていうの? 俺、きみと違って忙しいんだけど。あと一時間もしたら夜勤に行かなきゃいけないし」
 北野は黙りこくった。お年玉貯金の銀行口座は持っているが、今は手元にキャッシュカードがないため振り込まれても使えない。しかし、黙ったのは悔しさからではなく、ただの作戦だ。狙い通り、受話器の向こうから嗤笑ししょうが聞こえた。
「持ってないの? 銀行口座」
「……はい」
「しょうがないなぁ。じゃあ今週の土曜に持っていってやるから」
「……土曜?」
 今日は火曜日だ。
「さっきも言ったでしょ。忙しいの、俺」
「でも、もう、お金が……」
「知らないよそんなの。きみさ、さっきから自分の都合ばっかりだね。俺はきみの友達でもなんでもないんだから、無理してまできみを助ける義理はないんだよ。よかったね? 人ってそう簡単に餓死しないらしいから。土曜までぐらい余裕でしょ?」
「でも、ほんとにもう、俺……」声を震わせる。「お願いします。俺……、なんでも、しますから」
「……なんでも?」
「……はい……」
 北野は己の三文芝居に笑いそうになった。沈黙が訪れるたび、ホウ、ホウ、とフクロウの気の抜けた鳴き声が耳に入ってシュールだ。ここで噴きだせばすべてが水の泡だと、必死でこらえる。
「……どこにいるの? 埼玉県? それとも、都内かな」
 ユウが少し優しい声になって聞いた。北野は声をひそめる。
「山梨県なんですけど」
「え?」
 ユウは虚をつかれたようだ。
「何? よく聞こえなかった」
「山梨県です」
「山梨県? なんで?」
「ちょっとでも遠くに行きたくて……、電車に乗って来たんですけど……」
「馬鹿じゃないの。馬鹿だよ、きみ。そんなことしてるからすぐお金がなくなるんじゃないの? あのときはもっと賢そうに見えたんだけどな。きみ、そんなに頭悪かったの?」
「お願いします! もう、俺、ユウさんしか頼れる人がいなくて、それで……」
「……カワイソ」
 優越感に満ち満ちた声。その瞬間、北野は勝利を確信した。
「いいよ。山梨県ね。行ってやるから。今からの仕事はもう休めないから、明日でいい?」
「ありがとうございます。助かります。ありがとうございます」
 恩着せがましい口調で言ったユウに、北野は絞り出すような声で礼を繰り返した。
 大まかな現在地、正確には現在地から時速六十キロ走行で一時間半はかかる地名をユウに伝えた。事情が事情だから人目につかない日暮れに会いたいと言うと、ユウは「じゃあ十九時半ね。有給取って行ってやるんだから感謝しろよな」と答えた。
「また明日。それまでに、目立たない待ち合わせ場所を見つけておいて」

 ドリンクバーの烏龍茶を口に運ぶ。
 今晩、金と車を貸してくれる人がやってくる。
 そんなうまい話などありえるはずもないのに、めでたい頭の砂日は微塵も疑いを持たず、机に突っ伏してすやすやと平和な寝息を立てている。
 とんとん、と北野は軽く机を叩いた。砂日が起きても起きなくてもどちらでもよかった。「んん……」と唸っただけで目はつぶったままの彼に、「ちょっと一瞬出てくるね」と一応伝えて立ち上がる。ホールにいた店員は悪臭を放つ北野たちがようやく退店するかと目を輝かせたが、北野がスマートフォンを片手に会釈すると、ああ、と残念そうに作り笑いを浮かべた。
 ファミリーレストランの外で電話をかける。
 発信先はユウだ。
「もしもしっ?」
 一コール半でユウが出た。かすかにエンジンの音が聞こえる。運転中だろうか。
「もしもし」
「きみ、あのさぁ、着拒解除しといてよ」
「ああ、すみません。やり方が分からなくなっちゃって……」
 嘘をついた。着信拒否を解除するやり方は知っている。実行する気はない。ひっきりなしにユウに電話をかけられては困るからだ。
「ほんとバカだな」とユウは仰々しいため息をつき、「それで? 今どこ?」
「○○町です」
 二つ隣の町の名前を言った。
「○○町の? 全部言ってよ」
「あ、えっと、どこかな。土地勘がないから……」
「マップアプリで調べなよ。バカなの?」
「あ、マップアプリ。ええと……」
 たん、と通話終了のボタンをタップした。もちろん、通話を続けたまま別のアプリを開けることは知っている。ただユウの頭に血がのぼればいいと思ってやった。
 スマートフォンをボディバッグにしまい、ファミリーレストランへと戻る。
 このあとユウは何度か北野に発信を試み、やがてスマートフォンを助手席に投げつけて、それでも律儀に○○町を目指すのだろう。
 運転中にユウが偶然北野たちを見つける、という事態は回避したい。そのために、正確な現在地はまだ彼に教えたくない。
 待ち合わせ場所で落ち合い、ユウが北野にお金を渡し、それじゃあ頑張ってねと去っていく。
 そんなことはありえない。
 激昂した彼は、北野を見つけるなり飛びかかってくるだろう。車に押し込もうとするかもしれない。それならそれで構わないし、もし飛びかかられたら「ここじゃあ人に見られるから、車でどこかへ移動しましょうよ」とでも提案しよう。そのかん、砂日には公園のトイレにでも隠れていてほしい。事前に「車を貸してくれる人は人見知りだから、きみは向こうで待っていて」とでも言っておこう。そして彼には、北野がユウの車に乗って去っていくのを呆然と見ていてほしい。慌てて追いかけてくるだろうが、車にはとても追いつけない。残されたのは彼と、北野の自転車と、走らない電動車椅子といくつかの工具が入った大きなリュックサックだけだ。
 スマートフォンもなく、財布もなく、一体砂日はどうするだろう。
 一人で和歌山県を目指す?
 目指したところで、彼の旅はきっとその日のうちに終わる。どうしたものかなぁ、なんてふらふらとスーパーマーケットに入り、堂々と万引きをして、あっさりと捕まり、親に迎えにきてもらってみじめに埼玉県の自宅に帰るのだろう。ああ、退屈だなぁなんて思いながら、老衰するまでぼんやりと家に引きこもる毎日に戻るのだ。
 俺は違う。
 俺はきっとユウに犯される。それは非常に苦痛だが、そのあとに訪れる本来の目的のためにはやむを得ない。
 一息ついて我に返ったユウは、俺を殺すはずだ。もしかするとしばらくどこかに監禁されるかもしれないが、最終的にはきっと殺す。逃がせば足がつく確率が上がる。殺せば、うまくいけば迷宮入りだ。
 もし彼が「ねえ。言わないよね、北野くん。俺はきみにお金を貸してあげるんだから、これはその対価の行為なんだから、誰にも言わないよねえ?」などと殺しを躊躇したら、飄々ひょうひょうと首をかしげてやるのだ。
「え、なんで。言いますよ」
 そうすれば、まず間違いなくユウは北野を殺す。
 このまま砂日と自殺の旅を続けたって、成し得ず終わるのは明白だ。
 それならばもう、俺はユウに殺されることにする。
 机に突っ伏していた砂日が、半分夢心地の顔をぼんやりと上げ、北野の顔を見て微笑んだ。
「お前、今日マジでご機嫌だなぁ」
「え? ああまぁ、そりゃあね」
 そりゃあ、もうすぐ命が終わるんだから笑いもするよ。
 砂日は北野の本意などつゆ知らず、「まあ、なぁ。もうすぐ金も車もゲットできるんだからなぁ」と呑気を言った。