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26

 雨は激しくなる一方だ。雷も鳴り始めている。
 ワイパーのスピードはもっとも速いものにしていた。それでも、雨に煙って視界がきかないほどだ。
 ここまで来たのだから一刻も早くキャンプ場に到着したい、という砂日とは対照的に、北野は依然のんびりとしていた。
 彼はコンビニに寄ってコーヒー休憩を挟み、あろうことか「銭湯に寄ろう」と言い出した。
「昨日も入っただろ?」
 砂日は驚愕して言った。
 一昨日に続けて昨日も風呂に入ったのは、蒸し暑かったためまだ分からなくもない。しかし今日は大雨でひんやりとしていて、その上ずっと空調の効いた車内か店内にいたのだから、風呂に入る必要などまったくない。
 結局、北野はゆずらず銭湯に入った。砂日は土砂降りの中散歩をするわけにもいかず、車内で昼寝をして待っていた。
 銭湯から戻った北野は「そこのショッピングモールで晩ごはんを買おう」と看板広告を指した。《ここからお車で十五分》と書かれている。砂日はうんざりしながら「いいから早く行こうぜ」と急かした。
「晩ごはんって、まだ十五時半だろ? キャンプ場まであと一時間ぐらいなんだから。行って帰って、それから飯でいいじゃんか」
「せっかくだからキャンプ場に車停めて泊まろうよ。ごはん持っていってさ」
 なるほど、それはいい案だと砂日は考え直した。
 ショッピングモールで、フライドチキンの八ピースパック、パン、おにぎり、惣菜、缶詰、スナック菓子、ジュースなどを購入した。ショッピングモールのイベントスペースは《夏だ! みんなでキャンプしよう!》というコーナーになっていた。北野が足を止めて眺める。
「なんか買うの?」
「いや。キャンプ場ってさ、テントなくても入れてもらえるのかな」
「金さえ払えば入れてもらえるだろ」
 彼はしばらくそのコーナーをうろついていたが、結局LEDランタンだけを購入した。
 車に戻った二人は、小腹を満たすためにフライドチキンのサイドメニュー(クリスピー二つとポテトひとつ)を分け合って食べた。サイドメニューは合計四つ選べたが、残りひとつのコールスローサラダは北野が「夜に食べよう」と袋から出さなかった。砂日は、サイドメニューにサラダを選ぶ北野の気が知れなかった。
 立体駐車場を出ると、横殴りの雨が車体を襲った。
 そこからはずっと砂日が運転をしている。
 ショッピングモールを出てしばらくすると、山道に入った。
 いつもこうなのか、台風のせいなのか、車通りはまったくない。
 砂日はアクセルを踏み込んで大胆にハンドルを切り、くねくねと続くカーブをさながらカーレースゲームの様相で走行した。
 水しぶきが上がる。センターラインを大幅にはみ出す。遠心力で体が傾く。
 助手席の北野は「危ないよ」の一言も言わなかった。ただ上機嫌にニコニコしている。
 気ままな運転は楽しかった。
 飛ぶように時間が過ぎた。カーナビが「間もなく目的地です」と音声案内を流したとき、砂日は「え、もう?」と口走りかけたぐらいだ。
 坂を登りながらカーブを二つ曲がると、キャンプ場の半円状のゲートが見えた。
 これこれ、とさらにアクセルを踏み込んだ砂日だったが、ゲートの前に通せんぼをするように設置されたコーンバーが視界に入って急ブレーキを踏んだ。車体が沈む。タイヤが擦れてジャババと水しぶきが上がる。ガリガリと車体の底がコンクリートに擦れる音。
 せっかくの急ブレーキもむなしく、バン、と車は二つのコーンに渡されたコーンバーに衝突した。何やら張り紙のしてあるコーンバーが音もなく地面に落ちる。音もなく? いや、雨の音で聞こえなかっただけかもしれない。
「何?」
 砂日は目をまたたかせた。「なんだろう」と北野が首をかしげる。彼はコーンバーの張り紙を読もうと首を伸ばすが、ボンネットが邪魔で見えない。とはいえ、この雨の中わざわざ車を降りてまで文面を確かめる気はないようだ。無論砂日にもそんな気はない。
「閉まってるのかな」
「ええ? なんで」
「台風だからじゃない?」北野が目をこらしてキャンプ場の中を見る。「受付も真っ暗だし」
 現在の時刻は十七時半だ。
 通常、七月の十七時半は電気が不要なほど明るい。しかし、今は空に真っ黒な雲が渦巻いているせいで暗かった。オートにしている車のヘッドライトもずっと点きっぱなしだ。もし受付に人がいるのなら、明かりが点いていなければ絶対におかしい。つまり受付は現在無人で、このキャンプ場は北野の言う通り本日休業なのだ。
 砂日は改めてアクセルを踏み込むと、コーンバーを乗り越えて場内に入った。北野は「おっ」とちょっと目を見開いたが、たしなめるようなことは何も言わなかった。受付の建物から、誰かが「ちょっとちょっと!」と飛び出してくることもない。
 砂日は適当なところで車を停めると、きょろりと場内を見回した。
 車で走行できる通路。三十区画ほどある芝生のオートサイト。そのさらに外側には森が広がる。
 ゲートの写真を見たときから確信していたが、間違いない、五歳の砂日が泊まったのはこのキャンプ場だ。
「きみが泊まったのってさ、どの」
 あたりだったの、と続くはずだったであろう北野の声は、砂日が唐突に踏み込んだアクセルによってかき消された。
「ちょ、ちょ、ちょ」
 助手席で北野が慌てふためいている。砂日は構わず、大きくハンドルを切って森に飛び込む。当たり前だが森の地面は整備されていない。でこぼこの道にガタガタガタと車体が弾む。草を踏み、花を踏み、木と木の間を縫って走行する。あちらこちらの枝が車体に擦れ、バンバン、ガリガリとやかましい。北野が「ちょっと、砂日、ねえ!」と車のグリップにしがみつきながら叫ぶ声は、砂日の耳には入らない。ただ夢中でハンドルを切り続ける。こっちだ、こっちだ、ほら、ほら、ほら!
「うわっ!」
 目前に大木。ハンドルを切りかけるが、低木の並ぶ周辺には車がすり抜けられるような空間はない。急ブレーキ。騒音。衝撃。バン! と視界に白が広がる。とっさに目をつぶる。
 いつまでそうしていただろう。
 とんとん、と隣から肩を叩かれた。砂日はおそるおそる目を開く。
 ハンドルのあたりから、潰れた白い袋のようなものがぶら下がっていた。
 エアバッグが作動したのだ、と遅れて気付く。車のボンネットが、眼前に迫る大木にぐちゃぐちゃになってめり込んでいる。
 砂日と北野は顔を見合わせる。
 二人して、弾けたように笑い出す。何がおかしいのか分からない。ただ、おかしくておかしくてたまらない。笑いすぎて涙が出てくる。
 ひとしきり笑ったあと、砂日はにわかに車のドアを開けると外に出た。暴風雨が吹き込んでくる。合羽がどうのという北野の声を無視してドアを閉める。外に出た瞬間に全身が余すことなくぐっしょりと濡れる。大木と低木の間に分け入る。すぐに開けた場所に出る。
 ああ、と砂日の口から息が漏れる。
「ここ?」
 大声で問われて振り返ると、透明な合羽を着た北野が立っていた。フードをかぶっているが、その前髪はすでにびしょびしょだ。
「ここ」
 砂日もまた声を張り上げた。雷雨の音がうるさくて、そうしなければ聞こえないのだ。
「最高だね」
 北野が言った。
「だろ」と砂日は叫んで、「でも、こんな色だっけ」
 記憶の中の森は、鮮やかなオレンジや黄色をしていた。北野が「夏だからじゃない?」と返す。
「以前は紅葉の季節に来たんじゃない? でも、今もカッコいいね」
 確かにそうだ、と砂日は頷く。
 五歳の頃に見たような、青空と紅葉の柔らかく目に刺さるようなコントラストは今は望めない。しかし、深く硬質な緑を広げた木々を挟み、天上と眼下に広がる地獄のような黒が壮観だ。肝心の渓流も、台風のおかげで暴力的なまでに迫力を増している。
 砂日はしばらく、崖の端にあぐらをかいて川を眺めた。水かさも流れも凄まじく、十メートルはありそうな木が紙くずのように流されては渦に消えた。
 気付くと北野がいなかった。
 車に戻ると、彼は助手席でおにぎりを食べていた。服は着替えたようだが、その髪はしっとりと濡れている。
「銭湯行った意味ねぇな」
 からかうと、北野は「いいんだよ。入ったときはさっぱりしたから」と肩をすくめた。
「そんなことより、きみも着替えないと風邪ひくよ」
 彼は用意していたらしい着替えとタオルとビニール袋を砂日に渡した。砂日は肌に張りつくずぶ濡れの服をどうにか脱ぐと、適当に体を拭いてボクサーパンツとTシャツだけを着用した。
 そのあと、二人で夕飯をとった。
 嵐の中、LEDランタンに照らされる車内は、秘密基地のようでたまらなかった。