18
運転が楽しかったのは初めの十分だけだった。
エンジンのかけ方や切り方、パーキングブレーキ、シフトレバー、ヘッドライトの点け方といったものは、北野がスマートフォンで調べて教えてくれた。シフトレバーというものが左側にあるせいで左手のない砂日は困ったが、エンジンをかけるときと切るとき、あとはせいぜいバックをするときにしか使わないため、北野にやってもらうことにした。つまり操作に何ら問題はない。
それなら何が問題かというと、絶対に事故を起こしてはいけないという緊張感、そして、横からやいのやいのと騒ぎ立てる北野の存在だ。
「ゲームとは違うからね。事故ってもコンティニューできないから、安全第一で」
車に乗り込んで、エンジンのかけ方を検索しながらまず北野が言った。
「死にたいんだろ? コンティニューできなくてもいいじゃん」
砂日は笑ったが、即座に「事故で即死ってまずないよ。怪我して病院に搬送されたら絶対親に連絡させられるし、怪我がなくても警察呼ばれるからね。きみ、身分証も免許もないんだからそうなったら厄介じゃん」と真面目くさった顔で返され、「ああ、そう」と白けてしまった。
それだけならまだよかったのだが、いざ走行を始めると彼は「赤だよ」「ぶつかる」「速度出しすぎ」「一時停止だってば」「ブレーキ」「危ない!」とひっきりなしに叫び始めたのだ。
それぐらい、砂日にだって見えているし、分かっている。きちんとブレーキに足を伸ばしているのに、踏む前の一瞬の隙をついていちいち騒がないでほしい。一時停止の標識はこの四十分で三度見落としてしまったが、いずれも交通量の少ない交差点で、結果的に横切る車もなく、事故には至らなかったのだからいいだろう。
少し離れた信号が黄色になった。アクセルを踏み込み、ブン、と加速して通過する。
「今、赤じゃなかった?」
助手席でスマートフォンを操作していた北野が、目ざとく顔を上げた。
「黄色だったよ」
嘘をつく。しかし北野はしつこい。ああそう、と流してくれればいいのに「いや、通過するときは絶対赤だったよ」とゆずらない。
「ギリギリだったんだよ。急ブレーキだと逆に危なくね?」
「本当に? きみ、黄色になってから加速しなかった?」
ああもううるさい。
嫌になって砂日は黙った。北野が呆れたように息をつき、カーナビに目を向ける。
「あと一時間ぐらいだね」
北野が変に明るい声を出した。
こいつの設定した目的地はどこだっけ、と気になりながらも無視を続ける。お前が俺を苛立たせているのに、わずかばかり機嫌を取るような真似をするな、とかえって気が立った。
「テレビにして」
砂日はぶっきらぼうに命じた。本当に機嫌を取りたいのであれば、こんなささやかすぎる要求は二つ返事で聞き入れるべきだ。しかし北野は「駄目だって」と強情に首を横に振った。
「さっきも言ったでしょ? 危ないから」
「だからさ。カーナビでテレビ見れるってことは、見ても危なくないってことじゃん」
「運転してる人は見たら駄目なんだって。聞き流すならいいけど」
「じゃあそうするから、テレビにしろって」
「運転に慣れてる人ならいいけど、きみは絶対見ちゃうって。ただでさえ前方不注意なのに……」と、北野が金切り声を上げた。「あ、自転車、ぶつかるよ!」
「うるっせぇなぁ!」
パーン、とクラクションを叩くと同時にブレーキを踏み込んだ。
急ブレーキの音が後ろに続き、ププー、パーン、と次々にクラクションを鳴らされる。
前を走っていた自転車が動転したように急停車し、こちらを振り返る。
自転車の男は眩しそうな顔でしばらくこちらをうかがっていたが、やがて振り返り振り返り去っていく。後ろからはまだクラクションが鳴っている。
「ちょっと……」
北野がはらはらと後ろを振り返る。
「何してるの。こんなところで停まったらまずいって」
片側一車線の道路、己の走行している車線のど真ん中。
まったく切れ間なく、というほど多くの車は走っていないが、微妙な間隔で走っているものだから、後続車はなかなか砂日の車を追い抜くことができない。パーン、ププー、ププーとクラクションの音が重なる。
「砂日。ごめん。俺が悪かった。ね、お願いだから発進しよう。ここで止まったらまずいって。ね、ほら、もうちょっと行ったらコンビニあるよ。そこでさ、サイダーでもアイスでもなんでも買おう」
北野がカーナビの画面を指で進行方向に滑らせながら、切羽詰まった声を出した。砂日はむっつりと腕を組み、北野の方を見もしない。サイダーやアイスは魅力的だが、あんまりすぐに折れてしまうと、やれ赤信号だやれ一時停止だと騒ぐ彼のヒステリーもすぐに再発してしまうだろう。
対向車がちょっと途絶えて、後続車が四台びゅんびゅんと砂日の車を追い越した。対向車が来る。砂日の車の後ろにはずらりと行列ができている。クラクションの音。
突然、北野がシフトレバーをパーキングに入れた。
車から降りかけた彼は、ふっと手を伸ばしてダッシュボードの赤い三角のマークを押した。カッチカッチと指示器の矢印が両方点滅する。北野が車を降りる。何をする気だろうと見ていると、彼は車の後ろを通って運転席側に回った。きょろきょろと前後を見回し、運転席側のドアを開く。
「砂日、ちょっとそっち行って」
砂日は腕を組んだまま北野を見上げる。北野は追い詰められた表情をしている。
「きみがしないなら俺が運転するから。助手席側に移って」
「できんの?」
「分からない」
「なんだそれ」
呆れながらも、彼が哀れなぐらいひどい顔をしているものだから、要望通りシートベルトを外して助手席に移ってやった。
それに、北野の口出しが気に障ったのは、ただやかましくて邪魔だというだけではなく、お前はできないくせに口ばかり出しやがって、という思いもあったのだ。
ゲームの運転は何時間でもできたが、絶対に事故を起こしてはならない現実世界の運転はすこぶるくたびれる。これだけ大変なことをしてやっているというのに、労るどころかごちゃごちゃと隣で騒ぎ立てるのがどれほど非常識なことなのか、彼には身をもって自覚してほしかった。
北野が運転席に座る。彼は落ち着きなく周囲を見回し、バックミラーに手をかける。シートベルトを締めかけ、動きを止めてこちらに身を乗り出す。彼は砂日のシートベルトを締め、次いで自身のシートベルトを締める。不意にスマートフォンのライトを灯し、自身の足元を照らしながら入念に何かを見つめている。
カッチカッチと指示器を両方点滅させてから、後続車のクラクションの音は減っていた。それでも時折、プッ、と苛立ったように鳴らされる。
彼は体を捻って後部座席からビニール紐を取り、何やら足元でごそごそやった。
とうとう意を決したような面持ちでスマートフォンのライトを消し、何やらカーナビを操作する。操作を終えると、赤い三角のボタンを押してカッチカッチを止める。右手でハンドルを握り、左手でシフトレバーをドライブに入れる。やがて車はゆっくりと発進する。
砂日はカーナビに手を伸ばした。今は助手席に座っているのだから、テレビを見たっていいだろう。しかし北野は「ちょっと」と鋭い声を飛ばした。
「何。もう見てもいいだろ」
「心配だから、地図表示しててほしい」
「曲がるとこではカーナビがしゃべって教えてくれるって」
「頼むよ。俺、初めての運転で緊張してるから、お願いだから地図出したままにしておいて」
あまりに不安そうな顔で懇願されたものだから、砂日は鼻白んで「好きにすれば」とカーナビから手を離した。「ありがとう」と北野が礼を言う。
思えば、テレビなどそれほど見たくもなかった。
発端は些細な関心だ。いろいろなアイコンの並ぶ画面でテレビのアイコンを見つけ「あ、テレビ見れんの?」と何気なく言った。それに対して北野が「見れるけど、テレビは駄目だよ。危ないから」とぴしゃりと言い返したものだから、なんだかムキになってテレビテレビと執着してしまった。
ぼんやりと車窓を眺める。
チェーンの飲食店。ガソリンスタンド。地元では一度も見たことのない名前のスーパーマーケットの駐車場は、だだっ広い。今は空いているが、夕方や土日の昼間などはいっぱいになるほど混み合うのだろうか。砂日にとってはまるで馴染みのないそれが、このあたりの人間にとっては常識であり生活の要なのだと思うと、不思議で面白かった。
車はまあまあ多いが、人通りはほとんどない。犬を連れた中年男性がひっそりと歩道を歩いている。砂日の住んでいる街では滅多と見ない、あの柴犬のなり損ないのような雑種を、幼い頃はあちらこちらの田舎で見たような気がする。今回の旅では、今のところときどきしか見かけていない。砂日が引きこもっている六年間の間に数が減ったのだろうか。
昨日今日と、歩きながらちっとも街並みを楽しめていなかったことにふと気付く。
今日は大半をファストフード店とファミリーレストランの中で過ごし、そもそもほとんど外にいなかったというのも一因だろうが、何よりとても疲れていたのだ。運転中だって、信号や標識、カーナビ、対向車や前方の様子を見るのが大変で、街並みを楽しむ心の余裕はなかった。
長年家でカーレースゲームをしながら、いつか大人になって本物の車を運転するのだと心待ちにしていたのだが、こうして人に運転させて自分は助手席にいるのも悪くないかもしれない。
助手席にいれば、事故を起こさないよう気を張る必要もないし、北野のうっとうしい野次が飛んでくることもない。彼がブレーキを踏むたびにかっくんと体がつんのめるのを除けば、快適にぼんやりと街並みを眺めて過ごしていられる。
かっくんにも体が慣れた頃、車は駐車場へと入っていった。
カーナビの時計を見る。北野に運転を替わってから十五分が経過していた。割合大きな建物があるが、建物内の明かりは消えている。駐車場にはちらほらと車が停まっている。大型トラックが多い。
「どこ? ここ」
「道の駅。最初に予定してた静岡県のじゃなくて、山梨県の端の方のだけど」
北野が車を停め、エンジンを切る。
「つっかれた!」
彼はシートベルトを外し、リクライニングを倒しながら叫んだ。がしゃ、と後部座席の自転車にシートが当たり、慌てて戻す。「だろ?」と砂日は気味がよくなる。
「疲れんだよ、これ。神経使うし。それなのにお前は赤信号だなんだってごちゃごちゃさぁ。余計気が散るっつーの」
「ごめん」
「もう言わない?」
もう言わない、という言質が欲しい。しかし北野は「なるべく言わない」と曖昧な返事をした。
「なるべくってなんだよ」
「どうしても危ないときは言ってもいい?」
「お前の『どうしても危ない』基準、めちゃめちゃ神経質そう」
「そんなことないって。さっきはうるさく言って悪かったよ。反省してるし、もう事故の一歩手前ってときしか言わないから」
「ほんとかよ」
目をすがめる。「ほんとほんと」と北野が頷く。
いまいちすっきりしなかったが、北野はどうも頑固なところがあるのだ。これ以上粘っても望む答えは得られないだろう。
砂日はシートベルトを外し、車の外に出た。北野もあとに続く。二人は言葉を交わさないまま、そろって伸びをしながらトイレへ向かう。用を足し、なんとはなしに自動販売機に寄る。「あ」と砂日は目を輝かせた。アイスの自動販売機がある。
「買う?」
北野が快くボディバッグから財布を取り出す。
「え、買う」
そういえば北野は、車をくれる男は車だけではなく金もくれるのだ、と言っていた。
実際にやってきたその男は非常に凶暴で、いきなり北野に襲いかかったため仰天したのだが、倹約家の北野がこうも簡単に財布を出すということは、金そのものは本当に持ってきていたらしい。
約束を果たせず、ごまかすために暴力を振るうのならば理解できるが、車も金もきちんと用意しながら、なぜあの男は北野に襲いかかったのだろう。
疑問に思うが、それよりも今はどのアイスを買うかの方が重要だ。
「ええ、迷う、どれにしよっかな」
「俺、お茶と栄養ドリンク買お」
北野が自動販売機に紙幣を入れ、迷いなくその二つを購入した。
「え、じゃあ俺もアイス二個買う」
試しに言ってみる。
「いいけど、お腹壊さないでよね」
北野はおかしそうに笑って、あっさりと五百円玉を差し出した。